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『本願寺炎上!』


まだまだこれからです。



― 山科本願寺 ―



 京の夏は、むしむしと暑い。じっとしていても汗ばんでくる。

小うるさいセミの鳴き声が、さらに暑さをかき立てる……。



 山科本願寺、聞き覚えがない名前であるが、かつては京の入り口”山科”に本願寺の総本山があった。

山科本願寺(山科御坊)という。 (現在は山科別院が建っている。)


”お寺”と云うよりは、本堂という名の天守閣がそびえ、外堀の内側に寺内町、周りには門前町を持つ完全な城であったようである。

一説には、加賀より城造りの人夫を呼び寄せて本格的な城郭に仕上がったのでないかと思われている。


『この世の浄土』とも云われた、たいそう立派なものであったらしい。



 その城内で、本願寺証如と願証寺蓮淳は頭を抱えていた。

大いなる誤算であった……。一向一揆の統制がまるできかないのだ。


特に証如は、まだ若い。

” 本願寺の危機 ”だと云うことで敢えて教えを破ったのであるから、門徒が言うことをきかないということに大きな衝撃を受けた。


「お祖父様の教えを破ったのは間違いであった」


証如は、”法華宗が本願寺を攻撃するかもしれない”という危機感から、祖父の実如の遺言であった

『諸国の武士を敵とせず』という禁を破ってしまったのである。

おのれの軽率な判断を、後悔することしきりであった。


 それにたいして、願証寺蓮淳は、もっと俗物であった。

蓮淳は、証如の後見人としての職務代行していたのだが、自身の寺の勢力拡大を優先するような所があった。


教団の統率力を高めた事は評価されるものの、よくない面も多い。

自分の寺である顕証寺と布教地域が重複していた教団内の有力寺院である堅田本福寺に3度も無実の罪を着せて破門するなど、証如の名を借りてかなりの専横振りであった。


 今回の一揆の挙兵も、三好元長への個人的恨みと、細川晴元に取り入ろうという魂胆があった。

老練な蓮淳は、細川晴元が ”こらえ性” がなく管領になるために足利義晴に接近しようとしていることを見抜いていた。


もはや晴元にとって、元長と堺公方は邪魔な存在になってしまった。

そこに目をつけたのである。


「いま、本願寺が手を貸せば、”新政権”に貸しを作れる」

そう踏んでいたのであった。


しかし実態は、宗徒の暴走である。


「このままではいかん」


そう焦るものの、根気よく門徒達をなだめて回る以外に何一つ手立てがなかったのであった。




~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~



― 細川晴元 ―



 細川高国の死後、晴元は手の平を返すかのように足利義晴・六角定頼に接近をはかった。


 晴元は、蜂起させた一向一揆軍によって自らの手を汚す事なく元長を堺で敗死させた。

そればかりでなく、不和になっていた足利義維も排除でき、晴れて将軍・義晴と和睦をすることができそうである。


現在、足利義晴は近江の観音寺城山の麓にある桑実寺境内に幕府を移している。

奉公衆・奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった。


実質、将軍義晴は六角家の庇護下にいるかたちだ。

そこで、晴元は六角定頼の養女を娶ることとして、六角家との婚姻外交に成功した。


”晴元は、手っ取り早く『管領』になりたかったのである。”



しかし、晴元が茨木長隆を使い蜂起させた一向一揆軍は、暴走を始めてしまった。



事態は、かなり深刻であった。


『本願寺が天下を取る 本願寺が将軍や朝廷に成り代わる 極楽浄土をこの世にもたらそう!』

この言葉を合い言葉に、一揆の勢力は拡大をする一方であったのだ。


頼みの綱の、三好元長はもういない。

四国からも援軍が届くが、焼け石に水であった。



 一向一揆は河内・摂津にはびこり、余勢を駆ってあろうことか大和に侵入する。

南都の興福寺、春日大社を襲撃した。


新政権を夢見る、晴元には悪夢であった。

本願寺側も必死に対応をはかっているようであるが、もとより猜疑心の強い晴元はそれさえも疑った。


「本願寺を押さえるにはどうすれば良いか」

晴元は、腹心である木沢長政・茨木長隆に問うた。


「毒を持って毒を制すると云います。やはり、ここは寺社を利用すべきでございましょう」

茨木長隆がそう答え。


「元長と懇意だった、法華宗を焚きつけましょう」

元長敗死の元凶である木沢長政が、底意地の悪い提案をした。


「おお、それは面白い。何も知らぬバカ者を利用するのだな」

そのような提案に乗るとは。やはり、晴元も意地の悪い男であった。


木沢の提案がクズなのは木沢がクズなのか、クズの主君を迎合してゲスなのか判りかねるぐらい二人の息はぴたりとあっていた。


「左様でございます」

いやらしい笑いとともに肯定する、腹心気取りの木沢。


「では長隆、そのようにいたせ!」

深い思案もせぬままに、決を下す晴元。


「ははっ、かしこまりました」

人を搦め手から陥れる謀将気取りの、茨城。


 まともでない男たちは、火遊びを好み安易な行動に出るのであった。

これが天下の管領と近習とは、あまりにも情けない姿である。



~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~



 晴元だけではなく、京の町民も一向宗の乱行に脅威を抱きはじめたころ。


「一向宗が京に乱入して法華宗を攻撃する」という風説が流れた。

《これは、晴元方の摂津の国人茨木長隆による工作のようである。》



『 京を守れ! 三好元長の敵討ちである 』


 そのような檄文もあり、法華門徒は戦いに身を投じた。

門徒がそれぞれに武装し、洛中のそこかしこに集まりだして行く。


7月28日、”法華一揆”が蜂起した。



晴元は何食わぬ顔で法華一揆衆と手を結んだ。元長を殺した首謀者のクセに、図々しい男である。



8月2日、晴元方である河内の木沢長政に対して一向一揆衆が押し寄せる動きを見せた。

が、法華宗徒の決起を知り、勢いづいた木沢軍は逆に一向宗の寺々や道場に放火してまわった。


 この仕打ちに対して和泉、河内、摂津、大和4ヶ国の一向一揆衆が一斉に立ち上がり、晴元のいる摂津へ押し寄せた。

細川晴元、木沢長政の軍は、ほうほうのていで摂津芥川城まで逃げに逃げた。



「くそ忌々しい坊主と、ゴミどもめ」

一向宗の行動に憎悪を抱いた晴元である。

晴元は新たに同盟を組んだ、六角定頼とも連携して事態の収拾に取りかかった。




― 山科本願寺の陥落 ―


 法華一揆衆 数千兵が集結し、東山、山科周辺を打廻りを行った。

勢い付いた法華宗は、その数を増やしていった。


東山山麓にて法華一揆衆1万と、一向一揆衆数千が激突し、法華一揆衆が勝利する。

かくして、法華一揆衆は京の都を守ったのである。


晴元は、六角定頼と連携を取りながら法華宗を巧みに使い”山科本願寺の総攻撃”の準備を整えた。



 3万とも4万と見言われる兵が、山科の町を四方より取り囲み放火して回った。

山科本願寺は、御影堂・阿弥陀堂・本堂を含む社坊ひとつ残さず灰になってしまったのであった。


晴元側は、和睦の交渉の際、隙を見てだまし討ちの如く城内に突入したとも云われている。


 とはいえ消えたのは、寺という入れ物だけである。

本願寺の恨みや怒りは、寺院を燃やした炎よりも高く燃え上がってしまったのである。



細川晴元と本願寺の長い戦いは、ここから始まるのであった。




~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~



― 長慶の暗躍 ―



「ふん、だいたい前と同じ流れか」

それが、報告を聞いた偽らざる儂の感想だ。


父上を密かに逃がす事を優先したため、さすがに工作には事前準備がたりなかった……。


それでも多少は、流れを変えることができた。


まず大きいのは、あの忌々しい三好政長がいない事だ。

それにより、山城や摂津にて子飼いのものを手なずけることが出来た。

奴がいなければ、三好の摂津での動きがかなり楽になる。


 もうひとつは、細川晴元の救援を名目に”親晴元派”とも云える阿波・讃岐の国人衆を晴元に送りつけたことだ。

一揆を煽り暴走させたのも、実はそのためであるのだ。



「さあ、先ずは四国をいただこう」


晴元らが一向一揆の対応に追われている、”今”が好機である。


 あの阿呆は、父や勝宗それに、堺公方の足利義維がいない今、四国のことなど何も考えてはいないであろう。


「……さあ、そろそろ本番を始めようか」




次ぎ、いってみよう~。

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