父、元長の活躍
今回は三好元長、長慶の父君の活躍をお話ししましょう。
”京の都の人々は、おおいに驚いた。”
細川高国が内藤彦七に命じ、北白川に勝軍地蔵山城を築いたのである。
またこれに応じ、近江興聖寺に逃れていた12代将軍足利義晴も坂本に進出し、京を狙える位置にまで移動してきた。
高国陣営のさらなる逆襲が始まった。
享禄4年(1531年)
2月末には、伊丹城が開城した。
3月6日には、勝軍地蔵山城から出撃してきた内藤彦七らによって、摂津の要所であった池田城を落城させた。
京都を警備していた木沢長政はこの敗戦に驚き、翌日の3月7日、おりからの雨風にまぎれて逃げ去ってしまった。
それによって、勝軍地蔵山城の兵がやすやすと洛中に進軍した。
細川高国は京の都を奪還するという悲願をなし得たのである。
細川・浦上連合軍は、神呪寺城に着陣してからの半年の内に……、
富松城、伊丹城、大物城、池田城と4つの城を落城させたことになる。
京を奪回し、池田城を落城させた細川高国・浦上連合軍は、最終目標である堺公方及び宿敵細川晴元を倒すべく、さらに軍を進めた。
3月10日、高国の本陣は南摂津に、そして先鋒は住吉の勝間(大阪市西成区の南端、玉手付近)に陣をひいた。
圧倒的な劣勢にたっていた晴元であるが、ここにきてようやく三好元長を投入することになった。
流石に晴元とその取り巻きも、負ければ終わりだと判っている。
三好元長は、細川晴元の要請に応じて兵を出した。
享禄4年2月末には、すでに堺に到着していた。
3月10日
三好元長は、住吉の勝間に布陣してきた高国軍の先鋒を打ち破った。
細川高国・浦上連合軍は、天王寺までいったん兵をひいた後、すぐさま陣を構築し始める。
細川高国軍は中嶋の浦江(大阪市北区、大淀周辺)、浦上軍は野田城・福島城に陣をひいた。
この野田城・福島城は、要所として知られている。
元長の要請をうけて3月25日、晴元の従兄の阿波守護細川持隆が援軍8千の兵を送り堺に到着した。
元長はその援軍を晴元及び堺公方足利義維の警護軍として堺公方に置き、自身は天王寺に対陣した。
この時の兵力は、細川高国・浦上連合軍は2万、対する三好軍は総勢1万5千であった。
但し、細川持隆の援軍8千が堺公方の警護にあたったため、実際の手勢は約7千の兵力であったと報告されている。
しばらく睨み合いが続き、目立った戦闘がなかったが、5月13日に元長が動いた。
沢ノ口(大阪市住吉区、沢之町周辺)、遠里小野(大阪市住吉区、遠里小野周辺)に元長が馬廻を率いて進出した。
細川澄賢率いる別動隊が築島へ、三好一秀が阿波の精鋭を率いて安孫子、刈田、堀(大阪市住吉区、東南部周辺)にそれぞれ砦を築城した。
両軍は阿倍野の森を挟んで矢合わせを5月後半まで毎日のように繰り返したが、決定的な勝敗はつかず膠着状態になりつつあった。
元長が前線に出てくることによって晴元軍は引き締まったが、それでも両軍は決定打に欠け、戦は長期戦の様相が漂いはじめていた。
が、6月2日、赤松政祐が高国の後詰の軍として神呪寺城へ着陣した時、状況は一変した。
6月4日、神呪寺にいた赤松政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃したのである。
赤松政祐は高国を裏切って背後から襲いかかったため、一気に勝敗が決した。
赤松政祐は以前から父・赤松義村の仇を討つために村宗を狙っていたのである。
政祐は出陣する前から堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。
この赤松軍の寝返りは細川軍の動揺をもたらし、浦上軍に従っていた赤松旧好の地侍が、我も我もと寝返りを誘発したのである。
赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲すると、それに呼応して元長率いる三好軍が総攻撃をしかけた。
高国陣営は、村宗を始め細川政賢の子、和泉守護細川澄賢・侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。
中嶋の野里川は高国軍の死人で埋まり、「誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはよもあらじと人々申也」と謳われるほどであった。
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三好元長が前線に出てきた「中嶋の戦い」からの2ヶ月間こそ膠着状態にまで耐えていたものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、圧倒的 有利であった。
だが、新たに参戦した赤松政祐が三好軍に呼応し、細川・浦上連合軍の背後と正面を理想的な形で挟撃することなった。
この結果、それまでの膠着が嘘のように戦局が大きく崩れて、高国の滅亡につながったのである。
そこの地名とあいまって『大物崩れ』と呼ばれるようになった。
敗戦の混乱の中、高国は戦場を離脱し、近くの大物城への退避を狙っていたが、既に赤松方の手が回っていた。
そこで、高国は尼崎の町内にあった”京屋”という藍染屋に逃げ込み藍瓶をうつぶせにしてその中に身を隠していたところを6月5日密告者の報を受けた三好一秀によってに捕縛された。
尼崎の町で高国を捜索した一秀の一計が、『まくわ瓜の逸話』として後世に伝わっている。
一秀はまくわ瓜をたくさん持ってきて、近所で遊んでいた子供達に
「高国のかくれているところを教えてくれたら、この瓜を全部あげよう」と唆したという。
子供達はその瓜欲しさに高国が隠れていた場所を見つけたという有名な逸話である。
そして同月8日、晴元の命によって高国は尼崎広徳寺で自害させられた。
一方、惨敗した浦上軍の将士達は生瀬口から播磨に逃げ帰ろうとしていたところを赤松軍の追撃に遭い、ほぼ全滅したとされている。
赤松政祐は、伏兵を生瀬口や兵庫口に配置し、落ち延びる兵を一網打尽にしたという。
どうやら父を村宗に殺害された赤松政祐の怨みは、根が深かったようだ。
永正の錯乱から始まった養子三兄弟の争いは、大物崩れで最後の養子高国が自害させられた事により、幕を閉じた。
細川晴元の時代となったのだ。
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”赤松の寝返りありき”とは云え、なんというか、父は強すぎである。
多少は、他の武将や管領に手柄を譲ってあげて欲しい気がする。晴元の腰巾着が失点を挽回しようと煩くなりそうである。
前回(前世)と似たような結果に、すこし戸惑いを覚えた長慶であった。
次回から、長慶の物語が進んで行きます。
お楽しみに。




