もう戻らないあの日々
切られた電話を叩きつけたい衝動に駆られる。
「あらぁ、終わったの?電話」
でも、すぐ横で鬱陶しいほどにしな垂れかかるこの女の前で
そんな真似をすることも出来ない。
「えぇ、終わりました。
さぁ、呑みましょうか?」
苛立たしさを押し隠し、ニッコリと微笑んだ。
気持ちなんか欠片も詰まっていない偽物の笑顔。
でも、この女はそんな笑顔で満足する。
「えぇ、とことん付き合って貰うわよ、龍司」
見せ付けるように足を組み替え、掴んだ腕に胸を押し付ける。
ワザとらしく肉厚な唇を舐める舌が醜い。
女の性を見せつけようと、醜いまでに振舞うこの女が憎らしい。
でも、これも仕事だ。
そう思い、俺はすぐにでも奈美のところに飛んで行きたい気持ちを
無理矢理に押し込め、女の相手をした。
暫らく経ち、酒のせいで女の口も軽くなった。
俺が手にしたかった情報も手に入れた。
六条会では昔ながらの商売の仕方をしているらしい。
自分の女に店を持たせて商売をする。
昔ながらのやり方だが、その店では随分と面白いことをしているらしい。
六条会の足元を掬う情報だ。
クスリが御法度である水明会の傘下にありながら、この女の店では若い
女とクスリを売っては極上の時間を謳っているのだ。
「ねぇ、龍司」
「何です?姐さん」
「うちの店に行かない?」
酔って、潤んだ瞳で見上げてくる女。
色気が、と言うより、俺には色情狂にさえ見える下品さ。
奈美の無意識の色気にやられている俺には苦痛でしかない。
しかも、自分の男の縄張りに他の男を呼び込もうという浅ましさ。
そのことが原因で抗争が起きるなんて思いもしないのだろう。
この女の求めていることは唯一つ、快楽だけだ。
「申し訳ありません、姐さん。
実は仕事が立て込んでまして・・・」
でも、そんな女の楽しみに付き合うつもりは毛頭ない。
「そんなっ、龍司、いいでしょう?」
「すいません、これで失礼します。
では、また次の機会に」
「龍司!」
追い縋るように聞こえてくる声を無視して立ち去る。
出口で会計には多い金を払い、支配人に後腐れのないように店内で
程々に男でも与えてくれと告げた。
去り際、俺がいたテーブルの辺りで盛り上がる声が聞こえてきた。
これで、あの女も満足するだろう。
一つ、肩の荷が降りたところで俺はすぐに携帯を開いた。
一件のメールが届いていた。
差出人は香野。
俺の部下で、奈美の新しい世話係。
組の中で、俺の上納金が増え、地位が固まっていくと組長は俺に
代わる世話係を探し始めた。
俺自身はいつまでも奈美のそばにいたかった。
けれど、その気持ちを露わにするには時期が早すぎた。
危機感を抱かれて、奈美と離されることになれば困る。
何もせずに黙ってみていることなんて出来なくて、俺は仕方なく
部下の香野を世話係としてどうかと組長に差し出したのだ。
俺をライバル視し、追い落とそうとしている他の幹部達に出し
抜かれるわけにはいかなかった。
己の手で選んで、差し出した男だったが、香野は上手くやり過ぎた。
奈美のストレスにならないような男を選んだのが仇になった。
俺が思った以上に、奈美と香野は上手くやっていったのだ。
それが俺には面白くない。
奈美には俺だけいればいいのに・・・。
その香野からのメール。
香野は俺に忠実な男だ。
メールの内容はさっきの電話で奈美と話した件だろう。
メールを開けて、内容を確認した俺は車に乗り込み、行き先を告げた。
香野のメールはシンプルだった。
奈美と食事に向かった先と時間だけ。
この時間からコースを食べているなら二人はまだこの店にいるだろう。
車が静かに止まった。
郊外の静かなレストラン。
奈美のお気に入りだ。
降りようとして、ふと、目に入ったのは奈美と香野の二人だった。
向き合って楽しそうに食事をする二人。
奈美が笑っていた。
穏やかに、嬉しそうに。
そして、唐突に気付いてしまった。
俺はそんな奈美の笑顔をもう、どれくらい見ていないだろうかと。
最近の俺は奈美を泣かせてばかりだ。
傷ついた表情しか見ていない。
あんな笑顔は奈美に執着し、愛しているのだと気付く以前にしか
見ていない。
降りようとしていた身体をソファに戻し、深く沈み込む。
苛立ちと共に襲い来る後悔。
俺は道を間違えたのか?
あの笑顔を傷つけていただけなのか?
既に、俺はあの二人の中に割って入る気を失っていた。
ただ静かに、奈美があの香野に見せている笑顔と同じ笑顔を
俺に浮かべていてくれていたあの頃を思い出していた。