六十四、淡く儚い
「フユさん…大丈夫でしょうか…」
残された朝凪とナツメの間に気まずい空気が流れる。
大丈夫だよと、お互い安易には言えない。だが幸いその気まずさはすぐに途切れることとなった。
重い空気を壊すようにカタっと音がして、詩月とハル、砂都が姿を現す。
「あ!みなさんお帰りなさい!!」
あからさまにほっとした朝凪が嬉しそうに声を上げる。
しかし朝凪のその声より、帰って来た3人の意識を奪ったのは朝凪の隣に座る少年。ナツメ。
「ナツメ!目が覚めたの!」
「ナツメくん!」
「ナツメ!」
詩月、ハル、砂都がナツメの元に屈み込む。良かった、大丈夫?、辛くない?、そんな言葉が次々に紡がれる。ナツメを気遣う、暖かい声で。
「だ…大丈夫…」
ナツメが躊躇いがちに答える。
心配されることに慣れていなくて、それ以上なんと答えて良いのかわからない。けれど温かな何かが、自分の中に流れ込んでくる気がした。
自分を包む温かな優しさに、ナツメが無意識に微笑する。
それはついさっきまで、この世界を拒絶していた少年の微笑。
「ラブ!!!」
朝凪が思わずナツメに抱きつく。抱きついて押し倒して、一応の抵抗を試みるナツメを放す気配はない。
それが詩月の目には神聖なもののように映った。まるで心に小さな光が灯るような。
だがふいに、僅かな光の中に有るはずの気配がないと気付く。
「ねぇ、乱火とフユは?」
詩月のその一言で部屋の温度が少し下がったようだった。
朝凪が顔を伏せる。
「実は…みなさんが彼岸に行っている間にフユさんが乱火さんに力を返して…、それで乱火さんはナツメくんを起こしてくれたんですが、その後乱火さんは彼岸に帰り、フユさんは私の静止を振り切りご自宅へ…」
朝凪の説明を聞いて砂都の顔色が変わる。
「ちょっと待って、それじゃ、フユは今何の力も無いのに一人で行動してるってこと?」
「…はい」
駆け出す砂都。詩月が呼び止める。
「砂都!」
「ふざけんな!」
そう言い残して砂都は部屋を出て行った。
「すみません。私がもっとちゃんと…」
頭を垂れる朝凪。詩月が首を振る。
「フユが力を返すなんて私も思ってなかった。どうして…力を返してもフユには何もー」
考え込む詩月を朝凪が遮る。
「あ、あの…っ、教会で…」
「教会?」
「はい。迎えに行った時、フユさんすごくぐったりしていて…、私を乱火さんと間違えたみたいで、」
逡巡しながら朝凪が続ける。
「『戦うなよ。嫌だ』って」
「え…?」
「側にいるのが私だって気付いてからも『もう戦うな』って。『許すから』『戦っちゃ駄目だ』って、でも思わずという感じで…本当は言うつもり無かったみたいなんです。
『戦ったらその答えは』って言いかけてその後は止めてしまって…」
「答え…」
抑揚なく繰り返した詩月の顔が青ざめる。
「センパイ…?」
ー戦うなよ
ー嫌だ
—許すから
詩月の心臓が一拍大きく跳ねる。
ー戦ったらその答えは
それはまるで、戦ったその先を知ってる口振りだ。
見えていないはずの彼岸が見えていたフユ。
乱火の力を手にしていたフユ。
乱火に力を返したフユ。
有り得ないことが有り得ていた。
未来を知っている。それも、もう今となっては有り得ないとは言い切れない。
だけど彼岸が滅びるという未来を何らかの形で知ってしまったとして。
その結果恐らく乱火も含めて彼岸の誰も助からないと気付いてしまったとして。
彼岸を消したいと一度は望んだフユが言ったのか。
戦うなよ。嫌だ。許すから。
何かに縋るようなその言葉が、詩月のなかで熱も無く繰り返された。