六十二、痛みのない世界
白いシーツに柔らかに沈んでいる。
穏やかで温かな微睡みに守られて、フユは静かに覚醒していく。痛みのない、神聖な儀式のように。
—ああ、そうか。
フユは目を開けてベッドから起き上がる。いつもの朝と同じ動作で、昨日や一昨日と同じ、綺麗な仕草でベッドから抜け出す。
—彼岸の力はもう、ない。
順序だてて回想するより速く、漠然と形成された感情がフユを支配する。
—乱火もたぶん、もういない。
考えなくともそう悟る程度にはフユは乱火を理解していて、またフユ自身も、別れを告げ合う友情を演じるつもりはなかった。
お互いに友情ではなかった。
同情。共感。自己愛。贖罪。愛憎。感謝。どれでも、どうでもいいと、思う。今となっては。
—どうせあいつは戻らない。
無痛であることこそが痛みだ。負ったはずの傷が跡形も無く消えている。
腕も肩も、細かいかすり傷も。熱も。床にべっとりと書いたはずの魔法陣さえ、一滴の痕跡も無い。
—乱火が彼岸の力で消していったんだろう。これがあいつなりの気遣いなんだろうけど。
「全部、無かったことか…。……笑える…」
馬鹿げている。消える訳が無い。何一つ。
サイドテーブルに置き去られた煙草とライターと青いケータイ。
フユは立ち上がってライターを手に取る。
—そうだよ。これはこっちの世界のものだ。あいつのものじゃない。だから消えない。
こうやってどんなことも、中途半端に記憶に残って、心臓を抉っていくのだ。
ましてあの夢が真実なら。逃れられない惨劇の夢。何度あの夢を見ただろう。彼岸に戻るのは乱火の意志だ。それでもそれを可能にしたのはフユだ。乱火の意志を尊重することを望んだのはフユで、乱火の手を放したのもフユだ。乱火が彼岸に戻る理由が、全面的でないにしろ自分の存在に起因したものであると知りながら。
友情では有り得ない不思議な因果の中で、それが互いの献身であり、最後の傷つけ合いであり、口にすることが出来なかった信頼の結果だった。
—つーか、俺は煙草吸わないんだからこれは処分してけよ。
嫌がらせかと心中に文句を吐き捨てながら、フユは置き去りになったライターを見る。
蓋を親指で押し開けると、カチッと軽い音がした。
「あれ、起きて大丈夫なの?」
ふいに背後から幼い声がして振り返る。
そこに立っていたのは、初対面の時からずっと目を閉じていた少年だった。
「…ナツメ?ああ、おまえも目ー覚めたんだな。良かった」
フユは乱火がナツメを彼岸の力で起こしたのだと素直に受け入れる。開かれたナツメの瞳が、擦れていない素直さを湛えていることに安堵した。
「えっ、あ…、うん。ありがと」
予期していなかったらしいフユの言葉に、ナツメが躊躇いがちに答える。
「大丈夫か?」
「え?」
フユが問うと、ナツメは何を聞かれたのか分からないとでも言うように聞き返した。
「目、覚ましたくない理由があったんだろ。俺の心配より自分の心配しろよ」
ポケットにライターを押し込み、フユは柔らかに笑う。
「俺は大丈夫…っ。元気だよ」
ナツメは早口に返す。フユから自分を気遣う言葉が出てくるとは思ってもみなかったようだ。
家庭環境で染み付いたのか、ナツメはたいてい他者を気遣う側で、当然のように向けられた気遣いに困惑してしまう。視線を泳がせて、あっ、と思い出したように顔を上げる。
「えっ…と、それで、あのね乱火って人から伝言があって」
乱火の名前を出してもフユの表情は動かない。さっきの和らいだ視線をナツメに向けたまま、ナツメの言葉の続きを待っている。
「『フユは何も悪くない』って…、伝えてくれって」
「…そうか。サンキュ」
フユはお礼を言っただけで、それ以上何を聞くでもない。柔らかな表情のまま、たったの一言だ。
「あの、まだ寝ててもいいよ?俺出来ることあったらするし」
フユの淡白とも取れる態度に不安になって、ナツメは付け足す。
他に何か言ってたかとか、どんな風に言ったのかとか、そういうことも、フユは聞く気がないようだ。
「何でも言って!」
「…俺そんなに辛そうに見える?それかなり嫌だな」
ナツメが心配そうな目で見上げてくるのをフユが遮る。
「えっ、あ、そういうことじゃなくて…、今のは、なんとなくで…っ」
しどろもどろになるナツメにフユが吹き出す。
「うそうそ。いいよ別に。ありがとな」
気安いフユの言葉に真意が掻き消される。
「でもおまえは子供なんだから、あんまり変なとこ気を回すなよ。心配しなくても大丈夫だから」
優しさに似た声が、深みに立ち入ることをやんわりと拒絶する。本物の優しさが半分。話すつもりはないという牽制が半分。
「あ、…うん」
微かな沈黙が、フユとナツメの間を埋めていく。