六十一、赤の花弁
「昔のおまえを知っている奴は大抵口を揃えて言うよ。“乱火には執着心が無い。だから扱い辛い”。おまえは何にも執着しない。だから何にも屈しない。それは本当か?」
椿は面白そうに笑みを浮かべたまま続ける。
「フユには相当入れ込んでいるように見えるがな。気に入ったか?あの人間が」
椿と対照的に、乱火は無表情だ。椿の笑みをじっと見つめて口を開く。
「フユは彼岸の狩りをただ黙って見ているだけしか出来なかった。他の誰にも理解されない痛みを一人で負ってた。あんたはそういうのを辛かっただろうとか苦しかっただろうとか思わないのか」
淡々とした口調にも僅かな棘が滲む。
「何を言うかと思えば。ははっ。フユは見目が良いらしいからな。絆されたか?乱火、私も聞きたいんだが、そう思う事に何の価値がある。それを感じて何が変わる?」
「変えるんだよ。いい加減彼岸の奴らにはうんざりなんだ」
乱火がそう言って右手を翳すと青い炎が立ち現れる。彼岸を恐れさせ、疎まれ、一度は人間であるフユの手に渡った因果の火だ。
刀に手をかけて、椿が吐き捨てる。
「おまえも彼岸だろう。厄介な道を選んだものだな。彼岸で生まれて彼岸を滅ぼすか。…全くいい趣味だ」
乱火の炎が椿を囲む。だが椿は動じない。
「フユは今無力なんだろう?置いて来て良かったのか?」
椿はチリ、と銀の髪を焦がした炎を気に留めるでも無く、挑発を続ける。
「迂闊だな。無力だからといって抹殺命令は取り消されないぞ?」
そして、ウォーミングアップとでも言うようにヒュッと刀を振り下げた。その途端、乱火の中で不意にざわりとした違和感が沸き上がる。乱火が本能的に左へ跳ぶと、一拍置く間もなく強い衝撃が走り、まるで降り下ろされた刀の切先から、乱火が今いた場所へと直線を書くように、地面に亀裂が入った。
ーなんだ…?
ざっと見ても5メートル。抉られたと表現出来るほど深く傷を負った地面。
「逃げられると思うなよ。乱火、お前は裁かれるべきだ。力も血統も何一つ不自由無く持って生まれて来たのだろう?死神として申し分ない。その力を持って天災を起こし数万の命を刹那に片付けることも可能だったはずだ。
なぜ彼岸の摂理から逃げる。狩りは力を持つものの義務じゃないか。何が不満だ?」
一歩踏み出した椿が心底理解出来ないというように問う。
「“何もかも”だ。俺は人殺しになる気はない」
乱火の答えを聞いて、椿は柄を握り直した。
「そうやってお前は命を狩ることをずっと拒んできたらしいな。全てを放棄し人間界へ堕ち、そして今度は彼岸を滅ぼすために戻ってきた。…お前は悪だ。世界に背き彼岸を乱す」
今度は明らかな敵意を持って刀が振り下ろされる。ガッと走る衝撃と、続けざまに抉れる地面。斜め後方に躱した乱火が叫ぶ。
「彼岸のルール通りに生きることが『正義』なら、俺は『悪』でいい!」
冷ややかな視線を返す椿に向かって続ける。
「意味も分からず人を殺して、巻き込んで、それでもまだ抹殺命令に従うことを正義と呼ぶなら、俺は悪でいい!彼岸には従えない!」
抉れる傷が増えていく。感情の揺らぎの無い椿の目。明確な意志を宿した乱火の目。視線が交差する。
「抹殺も止める。こんな馬鹿げた正義に付き合えるか」
交差して、混じり合うことも無く離れて行く視線。
「好きに足掻け。どのみち無駄な足掻きだ」
そう言って椿が一気に距離を詰める。椿の刃が届く前に、乱火はさらに後方へ跳んだ。だがその逃げるすべのない空中の一瞬が徒になる。椿の唇が弧を描いた一瞬を乱火は視界に入れた。
ー下から、振り上げる気か。
思考すると同時にそれは現実となり、地面を抉っていたそのままの衝撃が乱火を襲った。
完全なシールドを形成する余裕も無く、かろうじて腕で自身を庇ったが、直撃を受けた腕からは血が噴き出した。
「う…」
乱火はどさりと地面に叩き付けられ、亀裂だらけの地面に鮮血が飛び散る。
ーこの破壊力…。刀に触れた訳じゃないのに、風圧か…?
乱火は流れ出て行く血を無視して、その力が何を意味するのかを考えようとした。
「素晴らしい切れ味だろう?」
椿がそう言って笑う。その立ち姿は今の一撃を放ったとは思えない軽やかさだ。
「人間界では『かまいたち』と言うそうだ」
「…かまいたちだと?」
「ああ。納得いかないか?確かに彼岸には、そんな特殊な刃も能力も存在しないからな。
だが今の私なら空気を切ることも容易いぞ」
「今の…?」
それが意味するもの。
乱火の脳裏を、彼岸で実力以上の力を引き出す唯一の手段がよぎる。
—だけど、それは—
「おまえ、まさか」
「察しが良いな。さすがだよ」
はっとした乱火を他所に、椿はまるで何でも無いことのように告げる。
「彼岸最上層衛隊は有事の為に戦闘能力を極限まで高めている。下手をすれば日常の中で他者を傷つけかねないほどに。だから通常時はそれぞれ能力を抑えるストッパーを付けている」
そこまで告げて、椿は乱火の目を見た。
「…今は有事だからストッパーを外している」
椿の言葉を引き継ぐように乱火が続ける。
「ああ」
「でも、」
—ストッパーを外したくらいで、こんな、
「それだけじゃ、ないだろ」
椿がふ、と笑んだ。
「ああ」
その笑みと、簡単すぎる肯定に喪失感に似た何かを覚える。
「彼岸の聖水を飲んだんだな…」
「ああ」
「彼岸の聖水は飲んだものの能力を急激に高めるが、それ以上に毒性が強い」
それは彼岸の使いであれば知っていて当然。ただの事実確認でしか無く、そして仮にその事実を知らなかったのだとしても、どの道手後れでしかない。それでも乱火は言葉を止められない。
「能力増強の効果を失った瞬間、宿主の生命活動を停止させると、おまえは知って…」
「副作用は『百年の眠りにつく』というやつだろう?もちろん知っているよ」
椿が乱火を遮る。
「だが私は負け戦はしない主義だ。おまえが人間界でフユと接触し情を持った時点で詩月の側に付くことは明白だった。鍵を奪いに乗り込んでくることも。
彼岸を去った後も、その能力の高さが語りぐさになっていた『乱火様』だ。彼岸の精鋭として最上層を守る私が、手合わせしたいと思っても不思議はなかろう。しかしこれは遊びじゃない。確実に勝たなければ意味が無い。
その為に彼岸の聖水を飲む必要があると判断しただけだ」
「勝つ為に他のものを全て捨てても…か?彼岸の聖水を飲むというのは、そういうことだろ?
勝つ為に死んでもいいと言ってるのと同じだ…」
—そんな空虚な戦いがあるか。
「おまえは面白いことを言うな。私は彼岸の戦闘要員だぞ?」
乱火の心中など、椿の与り知るところではない。虚しさを憂いても椿には届かない。
「戦闘で結果を出すことが私の最大の価値だ」
椿の刃の切先が、真っすぐに乱火を捉える。
「乱火、おまえが私に勝てない理由は二つある。
私が彼岸の聖水を飲んだこと。
それから、おまえは戦場の常識に疎すぎるということだ」