六十、スキャンダル
—鍵、は。
どこもかしこも白いせいで、一向に進んでいる気がしない。変わらない景色に嫌気を感じながら、乱火は足早に目的地を目指す。
—一つは桜。あと三つ。可能性があるのは…
桜と同等以上の力を持つ者。それはまず間違いない。ならば鍵を持つ者は自然と限られてくる。恐らく最上層衛隊、その中でもとりわけ名が知られた者である可能性が高い。
乱火は記憶の糸にかかる名前を心の中で反芻する。
—椿。
乱火が人間界にいた間、彼岸でどのくらいの強者が現れ、どのくらいの権力者が引きずり降ろされたかは分からない。その中に乱火と面識のある者もいれば、そうでない者もいるだろう。椿は後者だ。だが名前だけは知っている。それは人間界に落ちる直前に聞いた名で、『誰もが恐れた乱火』という存在の、空いた穴を埋める者の名だった。
力があれば名は知れ渡る。
どんな世界でも先駆者は求められるもの。それが例え乱火のように『何もしない』というだけのスタンスであっても、力を持つ者が貫けば意味が出てくるのだ。乱火に人間の命を狩ることを強要した上層部が、屈服させることも出来ず、その乱火との戦闘で返り討ちに合う。それも一度だけでなく何度も。彼岸の絶対的存在である上層部に辛酸を舐めさせるような行動を平気な顔でとる乱火は、良くも悪くも目立つ存在だった。
噂が噂を呼び、乱火が初対面の相手に恐れられることも珍しくはなかった。乱火はそういったことに無頓着だったから、噂は完全に野放し状態で、必然彼岸の話の種に乱火の名が上がることは多かった。
人間界で有名人のスキャンダルが流行るように、彼岸でもスキャンダルは恰好の暇つぶしになる。けれど乱火は人間界に落ちることを選び、巷の話題から乱火の名は薄れていった。そんな乱火がいなくなる隙間を丁度埋めるように頭角を表したのが椿だ。
乱火とは対極を成すタイプで、生まれも育ちも上層部というサラブレッド。炎を操る乱火とは違い、日本刀に似た細い刀を使い、ダイレクトに攻撃を仕掛ける。好戦的で、戦闘に迷いが無い。おまけに銀髪で、女。強く、その戦闘スタイルは無駄がなく鋭利に切り込むような華がある。そして公での戦闘を厭わない。
椿は新たなスキャンダルの主役だった。彼岸を去ると決まった乱火の耳にもその名は届いた。乱火は他者の声で好き勝手に語られるその名を聞き流しながら、彼岸で繰り返されるその類の空虚さに、溜め息をついたのを覚えている。
—椿は今も上層部の中心にいるだろう。
だから向かう先は一つだ。
好戦的と謳われる椿なら、多分待っている。戦いを。逃げも隠れもしないだろう。
戦いに適した場所で、誰かが鍵を奪いに来ることを待っている。誰か。恐らく、過去に自身と同じように騒がれた、乱火を。
乱火は白い扉に手をかける。
—ここしかない。
ただ広いだけのその場所。この扉の先には地面以外何も無い。果てが無いほど広く、障害物は何も無い。
ギ…と重い音がした。足を一歩踏み入れる。
「私の相手は貴様か。乱火」
乱火の想像通り、銀髪の女が出迎える。椿だ。椿は目を細め、満足そうに続ける。
「聞くところによると、ずいぶん強いそうだな。手合わせ願えるのは嬉しいよ」
「そりゃ光栄だ。でも俺は戦いたい訳じゃない」
乱火がそう返すと、椿はくくっと咽を鳴らした。
「鍵ならあるさ。私に勝ったらくれてやる」
「…勝つよ」
簡潔に勝利宣言をした乱火に、椿は笑みを滲ませる。そして言った。
「おまえは負けるよ、乱火。私にはもうストッパーが無いからな」