五十四、白昼夢を抜けて
—ついさっきまで都会のアスファルトを踏んでいたのに。
乱火はそろりと視線を上げる。
—ここに帰ってくることになるなんて。
この世界—彼岸では、冷ややかな白が全てを覆っている。まるで「我にひれ伏せ」と言わんばかりの圧迫感だ。
無数の色が脈絡無く点在する人間界もそれなりに乱火の虚無感を煽ったが、ここも同じくらいに酷い。
「…彼岸も地上もたいして変わんねぇ…」
ぽつりと声にして、そういえば、いつだったか同じ言葉を呟いたと思い出す。
—変わらないんだな。結局。
どこにいても。何をしても。隣に誰がいても、—いなくても。
ここは彼岸で、乱火の居るべき世界で、下らない命の駆け引きや意地の張合いがあって、今まで居た平和で悲しいあの場所は、たぶん束の間の夢だ。
祈る者のいない教会。割れたステンドグラス。
微笑する女神像。後悔と懺悔。それらはいずれ人の記憶から抜け落ちて行く。
フユの纏う気配はあの教会の空気に似ていた。
自分の弱さの晒し方を知らない。
煙草にジーンズ、埃の混じった風。
青い携帯。声。諦めていた。ごめんと。
あれは綺麗な夢だ。乱火の踏むべき地面はいつだって「白」だったのだから。
目覚めたらもう怠惰に続きを見ることは許されない。
乱火は細長く伸びた柱に背中を預けて桜を待つ。
—どうせこうなったら彼岸の向かう先は知れている。
詩月は戦うと言っていた。上層部は絶対に引かない。戦力は上層部が上。闇雲に戦っても勝ち目はない。
—勝ちに行くなら、神の地図を狙うのがせめてもの上策。
「あら。お久しぶり、乱火」
上層から降りて来た桜が意味ありげに笑う。
「ずいぶんな大役を引き受けたみたいだな」
「鍵のこと?察しが良いのね」
「皮肉か?楽しそうだな」
「あなたこそ。彼岸の力が戻って来て楽しそうじゃない」
「ああ。今あんたが持ってる保管室の鍵が手に入ればもっと楽しいんだけど」
「そう」
桜が試すように乱火を見る。
「でも残念。渡す訳にはいかないわ」
チャリ、と見せびらかすように挙げた桜の右手には金色の鍵が収まっている。
「第一これがあったって単身乗り込んでどうにかなる話じゃないのよ。最低でも五人は必要。ご存じ?鍵は四つ、同時に開かなければならない」
桜は続ける。手の平で揺れる鍵は意外なほど簡素な見た目をしている。
「そして扉はとても重い。鍵は半回転させた状態で維持しなければ再び閉まってしまう。開けた人物が動くことは不可能よ。必然的に鍵を開ける人物のガードはその瞬間に緩む。仮に運良く鍵を手に入れ開けたとしても、最上層衛隊がそれを指を銜えて見てるかしら?有り得ないわ」
桜の言葉は皮肉挑発にしては説明過多とも取れる。
「つまりこういうことよ、乱火」
—教えなければ俺たちを簡単に殲滅出来るのに…それとも教えたところで何も出来ないと?
「どんなに条件が良くても必ず四人犠牲になる」
—四人。
「だけど健闘を祈るわ。もうこの戦いは白紙に戻せないもの」
すれ違い際、桜は乱火の肩をぽんと叩き、囁く。
「犠牲は、甘んじて受け入れるしか無いのよ」
—四人?
すっと離れていく手。
「おい桜…!」
呼び止めようとする乱火の目の前で、離れかけた桜の手が人差し指をそっと立てる。
黙って。
—聴くなってことか?今。どうして—
鍵を開けるのに最低でも五人。
確実に反旗を翻すと分かっているのは詩月、朝凪。そして乱火。
一体誰をカウントしてる?桜。まさか彼岸の使い以外を?
四人犠牲になる。
—その犠牲は?