五十二、見果てぬもの
「ねえ」
幼い声が乱火の背中を追う。
「目ー覚ますの、待たないの」
振り向かない乱火の後ろ髪を引くように。
「あの人きっと悲しむよ。あんなに傷だらけだったのに、側にいてあげないの」
「…ナツメ」
乱火は背を向けたまま、口の中で自分を呼び止めた声の主の名を呼んだ。
力が戻ってから、フユが望む通りにナツメの魂を体に戻そうとした。『戻した』のではない。文字通り『戻そうと、した』のだ。彼岸の術を使って強制的に魂と体を繋ごうとした。だが意外なことに術を使う必要はなく、それは詩月が手こずったことを疑いたくなるくらい簡単に体に戻った。
乱火はナツメの魂をナツメの体に近付けただけ。それだけだ。
彼岸の力で無理矢理戻したのではない。
どこで気が変わったのか知れないが、ナツメは自分の意志で戻ろうとしたということだ。
「ねえ」
世界に戻ることを拒絶していたはずのナツメが、そうと信じられないほど強い声で乱火を止める。
「…傷は、治した。もう塞がってる」
「そうじゃなくって!」
乱火の力が彼岸の使いだけではなく人間にも適応出来ると知ったのは、フユの傷を治したつい数分前の話だ。
砂都との戦い。朝凪を庇ったと言う黄昏との戦い。それから力の譲渡。全てで傷を負い、疲弊したフユの衰弱はあまり楽観できるものではなかった。どさりと倒れたフユの体は酷く冷たく、床の魔法陣は一見して出血量を危ぶむくらいに、かすれることも無くはっきりと描かれていた。
彼岸の為に負った外傷だけでも治癒できたのは不幸中の幸いだ。
「血が出てなくたって誰かに近くにいて欲しいときがあるじゃん」
思考に沈む乱火を前に、ナツメは主張を重ねる。
「ねぇ大人だってそうでしょ?!」
—まさかコイツこんなこと言うために生き返ったわけじゃないだろうな。
乱火が苦笑して振り変える。
「ナツメ、お前に頼むよその役目は。フユは口は悪いけど根は優しいし、多分お前とも上手くやれる」
そういうことじゃないのに。まっすぐに乱火を見上げるナツメの目が、否定の色を強くする。
逸らすことを知らない視線に苦笑を深くして、乱火はナツメの頭をぽんと撫でた。
「そんな心配しなくたってフユは強い。あんな男前の美人は中々いねーよ、だから大丈夫」
ナツメの眉が不満そうにしかめらる。
「でも」
「なあナツメ。一個伝言お願い」
「あの人に?」
「そう。フユに」
「…いいよ。なんて?」
いつでも言えたはずだったのに、一度も言えなかった。
フユは自分を責めるから、多分言葉の通りには伝わらない。
「“お前は—”」
それでも本当はずっとこう言ってやりたかった。
フユ、お前は何も悪くない。