五十一、月が満ちる
嵌め込みのガラスの向こうに都会の夜が広がる。
雲に淡く霞む月。
見下ろせば地上には人工の灯り。立ち並ぶビル。
眠り落ちたフユを背後に、ホテルから眺める夜景はくらくらするほど美しい。
晴れていく空。冴えた月明かりが窓際に立つ乱火をそっと撫でる。
—満月。
乱火が手を翳せば、そこに青く透ける炎が音も無く現れる。
「使えるのか…」
剥奪されたはずの彼岸の力。フユから所有権が戻ったところで、使えるかどうかは半信半疑だった。
乱火の唇が静かに弧を描く。
彼岸最上層衛隊にも恐れられる、強力な青い炎。乱火が存在した瞬間から手にしていた力だ。要領も悪くない。彼岸の地位に魅力があれば、乱火もそこに立つことを望んだのかもしれない。
しかし始めから能力的に勝利していた乱火には、その分彼岸の世界を冷静に見る余裕があった。
—命狩り?くだらない。
七面倒な理論は、乱火にすれば取るに足らないことだ。何にも縛られず、自身の出した結論に従う。力を持つからこそ、我侭に振舞える。人間界で命を奪ってくる仲間達を尻目に、乱火は斜めに構えて加わろうとしなかった。
けれど彼岸の存在意義であるはずの命の管理に一切関与しようとしない乱火は、秩序を考えれば邪魔なものだ。
『乱火、おまえは彼岸に必要ない。おまえにも彼岸の力は要らないだろう』
痺れを切らした彼岸上層部がでっち上げた罪人判決で、もう顔も思い出せない誰かが告げた。
—確かに。要らないな。
ただそう思ったことだけを覚えている。
仮に周りが羨むほどの力を持っているのだとしても、使う当てが無いのなら無意味だ。
『最後のチャンスだ、選択しろ乱火。彼岸の使いとして人間の命を管理するか、それともその力も、ここに存在する権利をも失うか』
上層部の最終宣告は、乱火が彼岸を見切る決定打になった。
—何かありゃ人間人間って…。馬鹿馬鹿しい。
『俺は、後者を選ぶ』
乱火の彼岸の記憶は、そこで途切れている。気付いたら人間界にいて、人間界にはフユがいた。
回想を中断して、目を覚ます様子の無いフユを振り変える。ここ何回かの慣れない戦闘と、力の譲渡で疲れ切ったのだろう。熟睡しているようだ。
差し込んだ月の光によってフユの閉じられた瞳に繊細な陰が落ちる。
—綺麗な男だ。
背負った傷の深さが、彼の纏う空気をより魅惑的にしているのだろう。静かで、孤独で、心許ないほどの真っすぐさが彼を傷付けてきたのだろう。
誘われるように近付くと、乱火の陰がフユを覆った。
フユの肺が規則正しく上下する。
—生きてるんだな。それでも。
だから綺麗なのだろう。きっと。ズタズタな心をひた隠して、闇を飼い馴らすように生きていく。欲しがった力も、望んだ彼岸の破壊も手放して。もしもフユが覚醒していたら、誰も寄せつけない冷めた目で、乱火に「行け」と言うのだろう。
—コイツはこの先も、多分ずっとそうやって生きていく。
救ってやれたら良かったのに。フユが聴いたら鼻で笑いそうな台詞が乱火の脳裏をよぎった。
目を開けないフユに語りかける。
「今まで、悪かったな。彼岸は俺が止めるよ。だからお前は生きていけよ」
「バイバイ、フユ」