四十九、さよならと言う代わり
「フユ、そろそろ起き…」
乱火がそう言ってフユを呼びに来たのと、フユが床に自身の血で魔法陣を描き終わったのはほぼ同時だった。
足下の鮮血に乱火が青ざめる。
「フユ、これ…」
「ああ。丁度良かった。そこに立てよ、乱火」
描かれた魔法陣の傍らに散らばるのは割れた花瓶の破片。べっとりとフユのシャツに染みた赤はとても鮮やかだ。フユの右の指先を生々しい血液が伝う。抵抗の痕跡の無いそれらが、彼自らの意志で傷を負ったのだと物語る。
「どうしてだフユ…、何のつもりだよ…」
流れ落ちた血の量を考えると、意外なほどしっかりとしているフユに乱火が問う。するとフユが不本意そうに眉をひそめた。
その魔法陣は、出会ったとき乱火がフユの為に描いたのと同じものだ。
つまり、力の所有権を相手に差し出す、彼岸の呪術。
「いいから立てよ。説明しなくたって分かるだろ」
分からない訳がない。フユがこの魔法陣を描くという事は、せっかく手に入れたその彼岸の力を放棄するという事だ。本来の力の所有者、乱火に全てを返すという事。
「力を返してやる。だから早くアイツ…ナツメっていたっけ、アイツを助けてやれ。俺じゃやり方が分かんねーから。それに」
「フユ…」
乱火の視線を避けるように、床を見つめるフユ。絞り出すように呟く。
「力が、必要だろ」
あの悪夢が訪れるなら。
力を返さなければ、彼岸に戻る術を持たない乱火だけはあの悪夢を逃れることが出来るのかもしれない。力を返さなければ、乱火だけはあれに巻き込まれることはないのかもしれない。だがそれで、誤魔化せるものばかりじゃない。
「もう…、俺の前から消えてくれ。乱火」
フユは息を呑んで立ち尽くす乱火の腕を無理矢理掴んで魔法陣の上へ座らせる。
「潮時だ。この力が一瞬でも俺の手中にあったこと自体、間違いだったんだよ」
返さなければいけない。乱火には乱火を頼って来た仲間と、それに応えるだけの器があるのだから。
「っおい、フユ!」
「オマエ俺に対して変な罪悪感持ってるみたいだけど、ソレ勘違いだから」
彼岸の使いが見えたことで生まれた酷く冷めた価値観は、別に乱火のせいじゃない。
「最初は本気で、彼岸なんかぶっ壊してやろうと思ってた。あの時出会ったのがオマエでも他の奴でも、そんなの俺にはどうでも良かった。どうせ選べる立場になかったしな」
フユが彼岸の消失すら望んでいた頃、たまたま出会ったのが乱火だった。
「人選なんて俺に取っちゃ贅沢な話だったけど、結局のところオマエは最高だった。変に同情的で、優しくて、彼岸に執着がない。俺が彼岸を消したいと思ってるのを知っても、いつでも俺に協力的だった。本当に嫌になるくらい、オマエは完璧な駒だった。でも、正直オマエは完璧すぎたよ」
同情的で優しくて、自身の犠牲を辞さない。使い捨ての駒のはずが、反面それに救われていく自分がいた。
救済を自覚すればするほど、新たな傷が抉られていく。決して正義と呼べない行為を、振翳そうとした罰だ。
噛殺すように、フユは自嘲気味に告げる。
「皮肉だな。今はもう、彼岸の消失を望んじゃいないのに……」
動かす方法を知っていたのに、止め方を知らない。
—彼岸に対して嫌悪や憎悪以外の感情が生まれ得ると、今なら。知っているのに。
俯いたフユの唇が柔らかく弧を描く。
「彼岸なんか見えなきゃ、俺ももっと可愛い性格してたんだけどな。本当馬鹿らしいよ、生きてくのは。笑っちまう」
「フユ、」
「ごめんな乱火。俺は始めからオマエに声をかけるべきじゃなかった。じゃなきゃもっと早く力を返してオマエから離れるべきだった」
彼岸の使いだけが感じる空気の重みが乱火の肩を覆う。
それは魔法陣発動の証拠であり、乱火に力が戻りつつある証明でもある。乱火に取って懐かしい彼岸の空気が辺りを埋めていく。一方で、フユの力が刻々と弱まる。
乱火は辛そうに息を付くフユを目の前にして、こんなに華奢な奴だったかとはっとした。普段当たり前のように存在した揺らぐことのない強い瞳さえ、今は伏せられた瞼に隠されて見えないからかもしれない。
乱火に力を返せば、フユは無防備になる。
「フユ…。なんでだよ……」
もう答える気力を持たないフユに乱火は問う。
「一度はお前が欲しいって言った力だ。彼岸と戦える力が欲しかったんだろ。この力を失ったら、また見てるだけしか出来なくなるのに…。それに、今フユは…—」
わかってる。そう言いたげにフユは微笑して、どさりと床に倒れた。
切れた腕の傷口は深い。乱火が労るようにその傷に触れて呟く。
「なぁフユ……、今お前は狙われてる」