三、彼岸の水際*回帰の契約
「良い子ね、詩月。ちゃんと仕事出来るじゃない」
彼岸の川に映る闇。ハルと詩月が見られている。
「里雪くん。そう思うでしょう」
「今俺が考えてるのは、お前をこの川に落とすかどうかだ」
独特の妖婉さで、女は視線を水面に落としたまま笑う。
「ふふ。それも一興。でも貴方には無理」
「代打に詩月を押したのはお前だろう。…詩月に一番向かない仕事だ」
「そうよ。でも上手くやってるじゃない。このまま何も起こらないかもね」
「かもな。それならそれでいいさ」
女の指が闇をすくった。ハルと詩月が波に揺れる。落ちる雫の音が微かに響いた。
「…下克上を覚悟しとけ」
女は変わらぬ笑みを里雪に向けた。
「出来るなら止めはしないわ」
「ああそれから」
里雪の背中を女が止める。
「私には桜っていう名前があるの。忘れないで」
里雪は桜を一瞥する。
暫しの沈黙を穏やかな声が繋いだ。
「お前も忘れるな。桜の天下は儚い」
* * *
ハルの揺らいだ茶色の目が痛々しくてまともに見られない。私に後ろめたさがあるからだ。馬鹿な相談だって分かってる。だからいっそ否定してくれていい。私の存在を。
「千秋が死んだあの火事の日。本当はあなたが千秋を庇って死ぬ筈だった。それが動けなかったでしょう。あなたは庇わなかった」
そう。ハルに千秋を庇う余裕はあった。「千秋を庇って死ぬ筈だった」より「あなたは庇わなかった」の台詞に、目の前の彼女は反応する。今まで何度も自問して来たのだろう。なぜ助けなかったのかと。
「時間を巻き戻す事は出来ないけど、あなたの命と交換で千秋の魂をここへ呼び戻す事は可能よ。肉体は私達が用意するし、過去は不自然じゃない程度に書き換えるから千秋が生きるのに問題はないわ。あなたが後悔しているのなら考える価値はあるでしょう」
考える価値。余りの白々しさに吐き気がする。ハルが助けなかったのではない、私達が千秋を選んだのだ。命を奪う事を目的として。
「アキを生き返らせたい」
ハルがきっぱりと言った。初めから決まっていたような答え。考える素振りはなかった。
「そうね。私もよ。でもあなたの死が必要だわ」
「…構いません。ずっと償いたかった」
違う。
「ハル。もう少し考えてからでもいいわ。また来るからその時に答えを…」
ハルの即答から逃げたくて踵を返す。
「いいえ」
強いハルの声が飛んだ。
「考えると答えられなくなります。今でいいです」
反射的に振り返る。
「私を疑った方がいいわ、ハル。死神なんて嘘かもしれない。あなたが死んでも何も起こらないかもしれないでしょう」
目が合ってしまう。
「私は信じます!」
あっさりと言い放たれてしまった。
「信じます。だから」
縋れるなら何でもいい。そう聞こえる。
「だから私を」
殺して。アキを生き返らせて。その言葉がハルの口の中で拡散していく。
ああ。私は本当に死神なんだ。
「あなたが望むなら、…私には都合が良いわ」
がさっ。
一歩。ハルが後ずさった距離が、私との見えない壁を物語る。
遠い。
「今この瞬間を持って回帰の契約成立としましょう」
私の正面、ハルの背後。月明かりの静寂を二つの柔らかな羽音が乱した。闇に塗られた葉と葉が触れ合う程度の囁かな音。ひとつは藍。ひとつは紅。控えめな白い明りを羽に宿して、それは現れる。
「私があなたに直接手を下す事はないわ。死神はもっと残酷なの」
「この鳥は…。私は誰に殺されるの」
「藍がホタル。紅がシュリ。これを手なずけるのが回帰の契約」
「どうして。私はいつ死ぬの」
「いつかしら。私にはわからないわ」
「…どういうこと…」
「あなたがあなたに手を下すのよ。シュリとホタルを手中にしたら、あなたは痛みも何もなく自然と消滅する。葬儀はない。死も消滅も当事者に取っては同じだけど、残される側には違う。死は悼まれるけど消滅はそうじゃない。誰の心にも残らないからあなたを思う人はいない。回帰の契約はそれを受け入れるって事よ。」
「痛みはない…」
「そうよ」
痛みすらない。誰にも。