三十八、正しい事が正解じゃない
「まだ力が使えるのか。この力…完全に宝の持ち腐れだ」
シールドらしきものを張っても、獣の予測できない動きのせいでじわじわと切り傷が増えていく椿が吐き捨てる。
「引くも戦法か…里雪を消せないのは腹が立つが…。私の任務はこの間抜けの回収だ」
酷い不協和音の鳴き声を撒き散らして荒れ狂う獣。椿を攻撃しようとしているが、同時に獣自身も何かから逃れようとしているかのようだ。
「…いずれお前の相手は適任者が選ばれるだろう」
椿がそう言い残して倒れていた男ごと姿を消した瞬間、獣も消え、ただ闇雲に白が広がっていた景色はハルの家に戻った。
「あ…、家が…」
そんな僅かの安堵も、負傷した里雪がどさりと倒れる音で瞬時に飛散してしまう。
駆け寄ったハルの足下に血溜まりが留まる事なく広がっていく。
―『やめて』
「私が……、あんなこと言ったから―」
あの言葉で、里雪が一瞬躊躇ったのをハルは確かに見た。そして恐らく、それがなければ結果はこうではなかった。
「どうしよう…詩月さ……」
「ハル!どいて!」
「詩月さ…」
駆け込んできた詩月に押しのけられるようにしてハルは里雪の側を離れた。
「里雪!里雪、里雪!」
返事の無い里雪を下手に揺する事も出来ず、顔面蒼白になって荒げる詩月の声には、どう差し引いても意識があるかどうか確認する以上の感情が込められていた。
「里雪!り…」
「っ…るさい…、」
「里ゆ…」
「名前……、呼びすぎ……、っ…死んでねぇよ、バカヤロ…」
微かに意識を浮上させたらしい里雪が億劫そうに答えるが、その間も血は止まる事なく流れ出ていく。
「お前が護りたがってた人間には……一つの…、傷も、付いてねぇよ」
ハルの目から涙が零れる。
「早くそいつを連れてけ、詩月」
里雪ははっきりとそう言った。
「ここは場所が割れてる」
「行け」
「…り…」
詩月の表情が揺れる。
「なぁ…、知らないなんて言うなよ」
ぴしゃりと『行け』と言い放った調子を押し殺して、まるで宥めるように里雪は紡ぐ。
「全てが上手くいく戦いなんて……、」
これは、仕方のないことだと。
「どこにもない」
だから早く。
ずっと眠った状態で倒れていたナツメを抱きかかえて、詩月は反対の手でハルの腕を掴む。
「っ、詩月さん!」
進もうとする詩月にハルが声をあげる。
「待って!詩月さん!!」
あの流血で置き捨てて行って助かる訳が無い。
「詩月さん!!嫌だ…!!置いてきたくない!詩月さん!ねぇ、大切な人なんでしょう!?」
詩月だってそれに気付かない訳じゃないだろう。
「詩月さん!!!」
今進んだら二度と―。
「詩月さん!離して、しづ…」
「大切だから……、行くの」
迷ったら、全部嘘になってしまうから。
「ハル、何も言わないで。マトモじゃないことくらい…私にだって分かってる……」
引かれる手のままに、詩月の後ろ姿を追って行く。
ハルには、その背中がどうしようもなく哀しく見えた。
「見事な一突き。ずいぶん派手にやられたわね」
里雪の血の池の中に、桜が屈みこむ。
もう意識の無い里雪に意味ありげな思案の目を向ける。
「詩月も馬鹿だけど…」
ぐったりと動かない体。
「あなたも相当馬鹿よ、里雪くん」