三十三、彼はここにいる
朝凪が上げた視線の先で、教会の入り口を黒い影が塞いでいた。
「誰です!?」
黒い髪、黒い服、暗い眼差し。その女の手には鈍く光る槍のような、決して新しくはない、剥き出しの凶器が握られている。
「彼岸の最上層衛隊、黄昏だ」
低く表情のない声が端的に答える。
「彼岸の最上層の決定を伝えるぞ」
ぐっと構えた朝凪を気にする素振りもなく、淡々と続く言葉。
「“ハル、ナツメ、フユ、以上三名を直ちに抹殺せよ”」
朝凪の視界には、ぐったりと力無く俯せたフユ。
「朝凪、それを渡せ」
フユの上下する肩で分かる、苦しそうで、不規則な呼吸。
―こんなに傷付いているのに。
「お断りします!フユさんは『それ』じゃない!!」
こんな結果にしてしまったのは、他でもない彼岸自身。
「あなた最低です」
―抹殺…
何の解決にもならない。
「ならばお前も反逆者と見なす。“反逆者も消せ”。それも決定の一つだが構わないな?」
彼岸には始めから、解決しようなんて気すらない。
「全部…、なかったことにするつもりですか…」
「お前は私を倒せない。それは理解しているらしいな。
ならばもう一度言うぞ」
―何度も聞きたい言葉じゃない。
「それを渡せ」
―この人は絶対に間違っている。
「…お断りします」
「そうか。ならば消すしかないな」
戦うまでもない戦いだ。
朝凪は弱い。
相手は彼岸の際上層衛隊。彼岸の上層部を護衛するために組織された一員。
戦闘能力上位ランクの選りすぐり。
公に行動するのを見たことがなかったから、その存在が本当にあるのかさえ疑問だった。
だけど暗黙の内に。
いままでもこうやって、彼岸の綻びを無理矢理繕って、馬鹿げた辻褄合わせをしてきたのだろうか。
「先手必勝です!こちらからいきます!!」
朝凪は勝てない。
結果は知れている。
「えい!」
朝凪の手の動きに合わせて、丸い物体が実体化する。
棘に覆われた野球ボールほどの大きさの卵。数えきれない量のそれを次々に黄昏に投げ付ける。
特に避ける様子もなく、黄昏はその卵を見つめる。
これほど殺傷能力のない攻撃もなかなか無い。
黄昏の足下ぎりぎりに落ちたそれにパキッと僅かなヒビが入って、白い煙が立ち上がる。
黄昏にその気があれば、やすやすと踏みつぶされそうな位置で孵ったそれは、むくりと確実に生命体であることを主張して立ち上がる。
目や口は付いているが、体外器官の境目が余りにも曖昧で、総合的にはアメーバに似ていた。
アメーバが口を開く。
「アホー」
「…」
黄昏の指先がぴくりと動く。
「アホー」
「アホー」
「アホー」
次々と孵ったアメーバが、もれなく黄昏に向かって合唱する。
「「「「「アホー」」」」」
ちなみに朝凪のこの術は、対戦相手に物理的なダメージは一切与えない。
かろうじて与えるものがあるとすれば、若干精神面をイラッとさせるくらいだ。
言う間でもないが、朝凪の弱さはこの、術のセレクトの絶望的なセンスの無さにある。
「お前は個人的にも消す…!!!」
元々戦闘を考慮に入れて来た黄昏のモチベーションをより一層助長させ、より一層不利になった朝凪に―それはもちろん自ら招いた不利だが―容赦ない集中砲火が浴びせられる。
「キャー!!逆効果でした!!!」
当然加減などあるはずもなく、彼岸の弾幕が朝凪とフユを襲った。爆音が二人を包む。
際どいところで最低限の常識力だけは発揮した朝凪がバリアを張るが、力の差が明白なこの戦闘ではそれも大した時間稼ぎにならないだろう。
―どっ…どうしましょう。私のバリアにも限界があります…!せめてフユさんだけでも逃が……
朝凪がそこまで思考したところで、フユの手が朝凪の腕を掴んだ。
「オイ…、」
心底うんざりした顔をして、フユが気怠そうに起き上がる。
「フユさん!!気が付いたんですか!?」
「…当たり前だ」
この爆音と振動だ。
「何やってんだテメーこんなとこで。早く逃げろよ」
ごく自然な調子で、取り立ててたじろぐ風でもなくフユは言う。
「あ、ハイ逃げましょう!!フユさん歩けますか!?」
くしゃりと自分の髪を掻き混ぜたフユの振る舞いは、この状況の中にあって些細な日常の一コマのようだ。
「あー…」
欠伸を噛殺す程度の無関心さでフユは呟く。
「俺はいいや…頭いてーし、動きたくねーから」
「え…」
起き上がったとは言っても、椅子に座った状態のフユを朝凪は見下ろす形でいたから、俯いたまま言葉を繋がれてはそのフユがどんな表情をしているのか窺い知ることは出来ない。
「もう、いいから」
フユから静かに零れる言葉が、朝凪の鼓膜を打つ。
「だから、もう、戦うなよ」
その響きは強さとも弱さとも違う次元で放たれた。
「許すから」