三十二、微睡みの絶対値
ギィ。
乱火に教えられた教会は、およそ祝福とは程遠い佇まいをしていた。
壁にはヒビと雨の染みが目立ち、教会を囲む草木は伸び放題。
ここには手入れをする人間が一人もいないようだった。
開けた扉から差した光が、朝凪の影をくすんだ赤の絨毯に落とす。
日の光が微かに届く先で、栗色の柔らかそうな髪が長椅子の端に見えた。
「あ!良かった!フユさ…」
寝そべったフユに朝凪が声をかける。
返事はない。
「…」
上から覗き込むと、フユは瞳を閉じていた。
―寝て…ます!!
「フ…フユさん、すみません、起きてください、…あの、」
肩に手を置いて軽く揺さぶる。
「フユさん、」
「……ん…、」
微睡むように声を漏らしたフユの仕草は、どこか幼い子どものようだった。
―うわぁ、カワイイです…!!
「…だれ…乱火……?」
―フユさん、寝ぼけてます…
「いえ、あの、」
「オマエ、彼岸に帰るのか…」
夢と現実の間で、フユがうとうとと呟く。
「あの…、」
「戦うのか…?」
小さく掠れた声に、不思議と切羽詰まった空気を感じて朝凪が目を見開く。
「どうして…」
寝ぼけていると片付けるには、それは少し痛々しすぎた。
「なぁ…、」
押し殺した感情が、行き場無く滲んでしまったような。
「…嫌だ……」
完全に覚醒していないけれど、完全な夢の中でもない。
左手で瞳を隠したフユが泣いていたのかどうか、朝凪には分からない。
「あの…フユさん……すみません、朝凪です」
とにかく連れ戻さなければいけない。朝凪に過ったのはそれだった。
―なにか…様子が…
余りにも反応が悪いフユに不安を覚える。
肩で息をしているその呼吸のリズムが不規則だ。
「もしかして熱が…?」
彼岸の使いは人間界の温度は分からない。
だから当然、フユの額に触れても熱いのかどうかは判断出来ない。
「…早く、乱火さんたちと合流しましょう!」
一刻も早く連れ戻したいと、朝凪の感情が揺れる。
たとえ連れ戻す先が、彼岸の使いである自分達の元だということが、間違いであったとしても。
朝凪の目に、フユが今にも切れそうな頼りない細い糸で、やっとこの場所に繋ぎ止められているように映る。
数時間前に見たフユの挑発的な笑みは、張り詰めた雰囲気を纏ってはいたが凛として強かった。
あの時不快そうに歪めた表情から窺えたのは、苛立であって孤独ではなかった。
その後のポーカーフェイスから読み解けたのは、誰も立ち入れない領域の存在だった。
不思議と詩月に似た存在感を感じた。
けれどそれはどれも、「弱さ」に結びつくものではなかった。
それなのに今目の前に俯せたフユは、大切に扱わなければ壊れてしまいそうな心許なさがある。
フユは全てを拒絶しているのではない。
全てを拒絶『しようと』しているのだ。
唐突に何か核心に触れた気がして、朝凪はかける言葉を失う。
「合流は、不可能」
気配を感じる間もなく、出し抜けに沈黙を引き裂く声が聞こえた。