二十九、フユ
―最初に彼岸の使いを見たのは小学生の時だった。
錆びれた教会の中で、フユは色褪せた記憶を辿る。太陽の光を薄く遮る塵と埃が、いっそ自分の体も浸食していけばいいのにと彼は思う。それならば思い出も、これから起こるやりきれない予感も、少しは霞んで見えるかもしれない。
ほんの少しでいい。全部から目を逸らせなくてもいい。でもたった少し。
―母親と買い物の帰り道。
瞳を閉じると、脳に残った断片的な古い映像が甦る。
―あらやだ…事故…?―母の声。
―ピーポー……―救急車のサイレン。
―玉突き事故だって―飲酒運転かしら―怖いねぇ…―野次馬のざわめき。
―偶然居合わせた交通事故。
―状況と位置関係を考えれば、生々しい事故現場を自分は見たはずだ。
けれどフユは覚えていない。血の跡も。そこに転がっていたはずの人の姿も。思い出すことが出来ない。
代わりに母にこう尋ねたことを記憶している。
―母さん、あの人なにしてるの。
―え?
母が自分の質問の意味を量りかねていた。
―車の前で、白いふよふよしたもの持ってぼーっと立ってる黒い服の女の人。
事故車の前に立って、かすり傷の一つもない女。左手に何かを持っていた。横顔が笑みを浮かべていた。―それが人間の命の消える瞬間だと気付いたのはそれからずっと後の話だ。
その時は誰にでもその女が見えていると思ったから、自らの発言に疑問を抱かなかった。だが母の顔色がすっと青く引いて、その唇が『そんな人はいない』ときっぱりと言った。
―フユ、そんな人いないわ。気持ち悪いこと言わないで。
母はそれ以上言わなかった。
―俺も黙っていた。
暗黙の内に不思議な隔たりが出来ていった。意識的に「諦める」事を知ったのは、多分この時だ。
それから半年が経って、突然クラスメイトが体を壊した。
見舞いに行ったら『アイツ』がいた。
―あの時の女だ。ベッドの脇に、少し口角を上げて、何かを待つように。
この女の人ダレ
喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。気付かれてはいけない気がした。
入院しているクラスメイトにも、あの女にも。
次の日クラスメイトは死んだ。
―あの女が持って行ったんだ。
そう思った。
中学に上がる頃には、『そいつ等』は『死神』みたいなものだと理解するようになって、『人間』と見分けもつくようになった。
―自分以外に見えていないということも心得た。
―奴らはなんて無感情に命を奪って行くのだろう。
立ち向かうにもその術を知らなくて、なにより一人きりだった。
「フユ、昨日のお笑い見た?」
何も知らない同級生たちの声。
「見てねぇ」
自分は素っ気なく返すだけ。
「えぇなんで?!ちょーおもしろいのに!!」
「次見ろよ!ぜってーハマるって!!」
―ああ、もう。どうしてなんだ。
「俺、興味ねーから。そういうの」
そんな風に返したいと思ってる訳じゃない。それでも口を突いて出るのはそんな言葉だ。
「んだよ、いっつも一人でいるから友達になってやろーとしてんのによ」
「そーだぞ?!何様だよ!」
―頼んでねーよ。
いいね。見えない奴は平和で。
苛ついた。
どうしようもないと思い知るほど。
友達ってなんだよ?分かり合えないんだぜ。
「俺たちも帰ろうぜ。ったくよー、顔良くてもアレじゃなー」
「モテねーよ。もったいねー」
彼等は聞こえよがしに言い捨てて行くけれど、何の価値もない台詞だ。
残念ながら、この容姿はこの世の何にも貢献していない。
―もし俺が
人生って滅茶苦茶あっけなく終わるんだぜ。
って言って、
お前等は応えれんのかよ。
コンビニやファーストフード店みたいに、手軽に奪われてく命を見てんだ。
お笑い見て笑ってる余裕なんかねーんだよ。
消えた命に泣いてる人を見たんだ。
―それでも知らないフリをした。