二、沈黙の森
「…これ。本当は渡したくないんだけど」
溜め息混じりに里雪がくしゃくしゃに丸められた紙を差し出した。ぎくりとする。
「なに」
聞くまでもないのだが動揺を気取られたくないのでつい無愛想に答える。
「その後の詳細は別紙確認の事。…お前が捨てたんだろ」
そうだ。萩原春のその後。シナリオのない人生の経過が淡々と記された用紙。読んでいるうちに頭に来て、丸めて捨てたのだった。里雪がそれを丁寧に広げていく。
「…いらない」
「詩月」
「いらないの」
そんなもの必要ない。
私はハルを死なせるつもりなんてない。
「じゃあ、俺が持ってるから」
里雪が顔を伏せる。私に対する文句は言い尽くせないほどあるだろう。でも彼がそれを言う事はない。私が反論する事が分かっているから。その反論の中に禁句が混じると分かっているから。だから彼は何も言わない。
「こういうの、不用意に捨てるな」
何も言わない筈の彼がそう言って、少しだけ良心が痛んだ。
紙切れといえ、重要書類なのだ。彼岸の使い同士で見られても問題はないが、捨てたと広まればそれ相応の処分が下る。
「別にいいじゃない。いつかばれるわ」
例え良心が痛んでも、私はこんな台詞しか出てこない。
「もう行くわ。ハルに会わなくちゃ」
くしゃくしゃに丸めて捨てたとは言え、内容はインプットされてしまっている。うんざりしながらも記憶は勝手に蘇る。ハルは現在母方の祖母と二人、見るからに不便そうな安アパートに住んでいる。二人と言っても会話は少なく、傍目には他人同士と見えなくもない。それは父の愛人関係、離婚、千秋の死、母―祖母にとっては娘だが―が心を病んだ事が影響している。祖母はその一連の話題を嫌っているらしく、ハルはそれを本能的に感じてしまっている。加え母は父と結婚する時駆け落ち同然だったと聞く。自分の存在そのものも、もしかしたら認められていないのかもしれない。その懸念がハルを律する。
ハルと回帰の契約をしろだなんて。
ハルではなく元の運命通り千秋が生きていたらこんな不幸はなかった。少なくとも「有るべき」だった元のシナリオには母親が心的障害で床に伏す記述はない。母親は千秋を溺愛していたのだ。ハルにも千秋にも意識して同じように接していたが、実際は千秋のウエイトが大きく、千秋が生きていたのなら生きる希望をここまで失いはしなかったのだろう。
無理だ。
用紙の空いたスペースに走り書きされた文字を思い出す。
ハルの祖母、2000.09.01死亡。
明後日。
ハル。あなたが悪いんじゃない。私はあなたの為に必死になるから、だから惑わされないで。
あなたが今どこにいるか知ってる。あなたが傷付いてるって知ってる。だから信じて。償わせて欲しい。回帰の契約の事、本当の運命の事、言わなければいけない。あなたに聞いてもらわなければいけない。だけど私達が正しいんじゃない。なにか一つだけが正しいなんて事は有り得ない。あなたが生きているのは、間違いなんかじゃない。
人間界。薄暗がりの森へ入る。都心の隅の小さな森。少し肌寒く、これが人間には心地よいのだろう。それともこの視界の悪い景色を恐れる者もいるのだろうか。ひっそりとした無音が美しく、ハルに会う前に一眠りしたい衝動に駆られる。勿論そうする気はないし、そもそも眠れる心境でもない。ただ少しでも遅らせたい。出来るならこの小さな森で迷って永遠に会わずにすめばいい。
ハルはこの森の奥にいる。彼女はこの場所を気に入っている。ここは涼しいからだろうか。草木が好きなのだろうか。そうであって欲しくないのだが、誰もいないからなのだろうか。
森の奥は入り口よりもずっと密やかで、何者の侵入も無言の内に拒んでいるようだった。この深い藍色のセキュリティをかい潜れるハルは、やはり生と死の境界線を乗り越えているのかもしれない。
不用意に踏み出した一歩ががさっと音を立てた。闇の中に立って姿勢良く星を見上げていたハルがびくりとこちらを向く。脅かすつもりはなかったのに。
「…だれ…」
淡い茶色の目が私を見ている。それは不審者に向ける目だ。不審者、あながち間違いでもないけれど。
「こんばんは、ハル」
がさっ。ハルが反射的に後ろに下がる。
「…私の名前……」
私に対する不審の度合いが増す。
「あなたのこと、知っているわ」
「だれなの」
「死神って言って信じてくれる?」
一歩ずつハルに近付く。踏み付けた土が柔らかく沈む。
「なに言ってるの…」
「千秋の事も知っているわ」
「…アキ……」
ハルの動揺が伝わってくる。
許して。
「彼、あなたの代わりに死んだの」
「……え
「本当はあなたが死ぬはずだった。手違いがあったのよ」
「なに……」
「だから私は」
許して。
「あなたと回帰の契約を交わしに来たの」