二十七、死神
気が付けば、ハルの家であったそこは、床も空もただひたすらに白いだけの空間へと変わっていた。遮るもののない果てしない白。その色は雪とも雲ともつかない。
もしハルの考える光の概念を密閉出来る入れ物があったら、きっと中身はこんな状態になる。それは総ての集合体であり、同時に無。
この世のあらゆるものを視認出来ないほど細分化して、神の手で攪拌すれば、恐らく新たな何かが生まれるだろう。
パラドックスなドラマもこの白の中でなら魅力的だ。これはそういう光だ。
ハルが咄嗟に抱き寄せたナツメをぎゅっと抱えて呟く。
「…どこ、ここ…」
生命の根源と末路。源と行末。安堵と恐怖。信仰と疑惑。あらゆるものが同レベルで存在する。
「彼岸と人間界の挟間だ。安心しろ、すぐに帰れる」
ハルを『敵』から庇うように立った里雪が振り向きもせず答えた。
「すぐに帰れる?勝利宣言かよ?」
男が嘲る。
「オレを倒さねーとこの空間は消えねーぜ」
瞬間、ハルには男が里雪の背後に立ったように見えた。男の殺意が躊躇いも無く里雪に向かう。
危ないと思うのと、里雪の背中が爆発するのは同時だった。けれどそれを注視したハルが見たのは無意識に予測したものと違う。
神の戦いか天使の戦いか悪魔の戦いか。
傷を負ったのは、黒に赤が混じる髪の、人工的な加工を自身に施した男。
「ち、どういうことだ!?背後を攻撃する余裕は無かったはず!!」
男も自分が傷付いた理由が理解出来なかったようだ。左耳の上から三つ目のピアスが痛みと叫びに合わせて揺れる。
「簡単だ」
里雪の冷静過ぎる声が冷ややかに通る。里雪の背後に殺気だった男、の、背後に里雪。
「つまり『それ』は、」
それ、とは。男が攻撃を仕掛けた『里雪』という名の何か。それ、は。
「ダミー」
ガッッ、と鈍く重い音がした。
小型の稲妻のような鋭い光を右手に、里雪が男に斬り掛かる。ダミーではない、後尾にいる里雪が。そして咄嗟に振り返った男の張った、薄いガラスの膜のような半球に直前で阻まれる。落ち着き払った里雪は低く言う。
「二度目だ。“ストッパーを外せ”」
ストッパー。
彼岸の戦い方など知らないハルにも里雪と男の差は見て取れた。里雪の持つ鋭利な光は、本能的に危険を感じるものだ。あれには間違いなく殺傷能力がある。それに加えて里雪は今相手を傷付けるつもりで扱っている。
どうして戦うの。
「冗談キツイぜ。それでどうして彼岸の下級レベルに甘んじてんだ」
納得出来ないと言うように男が尋ねる。
「それも簡単だ」
ストッパーが何を意味するかは明かされない。
「“素行不良”、―こういうことだ」
里雪の翳した光が爆発した。男をあっけなく巻き込んで。
加減を知らないその爆発に倒れた男を、里雪が感情を持たない瞳で見下ろす。
「悪いな。シールドを張ると攻撃力のコントロールが上手く出来ない」
シールド。
「本気な訳じゃない。力を操れていないだけだ」
シールド。景色が白く変わってから、ハルとナツメを包む透明な球体。男が里雪の攻撃を防ぐ為に生み出した半球のガラス膜。
「は、ゴーグルは…、自分の攻撃からのガードってとこか…?ムカつくぜお前……」
最初この男は何と言った?
―遠隔操作で二人分のシールド張りながら―
ハルとナツメは里雪に守られている…守られている?
ハルにはその矛盾が呑み込めない。死ぬ予定の人間を守る?死ぬ為に生きている人間を守る?
「目的はなんだ。どうして本気を出さない」
里雪が問えば、男が呻くように立ち上がる。この二人は同じ彼岸の使いで、言わば仲間ではないのか?
どうしてたたかうの。
「…ストッパーは外せねぇ。まだ力が必要だからな」
どうしてたたかうの。
「何のために」
男は分かり切った事を聞くなと言うように唇を歪めた。
「へっ、それこそカンタンだぜ」
どうしてたたかうの。
「まだ守らなきゃなんねーもんがあるからだ」
どこから取り出したのか、男が4本の短剣を里雪に向かって投げ付ける。
当然のように上空にジャンプして―ジャンプではないかもしれない。地面とそれ以外の境界線が曖昧で、空間的な感覚が薄らぐこの場所では。実際里雪は重力の負荷を考慮していないようだ―躱した里雪はそのまま短剣の軌道を確認する。
―狙いが甘い。勝つ為の戦いじゃないな……。時間稼ぎか。それとも…。
「くらえ!!」
足場の無い里雪に男が再び短剣を投げる。ギリギリで里雪がヒュッと放った強い光が、短剣に当たってどちらも相殺された。
―俺の力を量っている?
里雪の中でふっと疑念が過る。
―『時間稼ぎ』ならただこの場だけ戦闘不能にすればいい。だが力を量っているならそれだけでは危険だ。
地面に降りた里雪と対峙の相手は一定の間を取って、無言で牽制し合う。
―裏に何かある。吐かせるか?
牽制しながら得策はどれかと思考する。
―いや、コイツはそれに応じるタイプじゃない。…拘束……それも無理だ。場所も人手も足りない。敵がこの男だけだなんて有り得ない。そもそも拘束しても何も吐かないならメリットが無い。彼岸の人質としても機能しないだろう。現時点で彼岸の歴史を覆すほど体裁を無視した暴挙に出ているのだ、今更犠牲を数えることもしないだろう。
黒髪に赤いライン。ブルーのレンズ。セピアのフィルタ。
―再起不能になる程度に負傷させる。
里雪が自分自身で紡いだ選択肢に自嘲する。
―そんなコントロールが出来るか?
出来ないと、言ったばかりだ。
どうしてたたかうの。
里雪がほとんど無防備に屈んで地面に掌を付ける。ぼごっと何かが砕ける音がした。
―時間稼ぎに付き合ってる暇はない。俺のデータが欲しいなら持って行けよ。誰に報告するつもりか知らないが、報告出来る状態で帰れると思っているのなら。
ぼごっ、ぼごっ。
里雪が手を付けたところから、何かが這い出てくる。
天使のペットと呼ぶには生々しい。
里雪を背に乗せて、巨大な獣が地獄を思わせる声で咆哮した。
天使、天使。一見光の化身を思わせる里雪。けれど天使などではない。今地獄の獣を手懐ける、―…。
ああそうだ。ハルは思い出す。
―『死神って言って信じてくれる?』
詩月の言葉を。
死神。詩月。目の前の彼。
「悪いが片づけさせてもらう。死んだら詫びるぜ」
里雪が何でもない事のように言う。
ハルは誰に守られている?
「…殺すの……?」
金髪の彼。天使、死神、誰か。
「やっ……、やめて…!!!」
破壊の音と、濁った白煙がハルを呑み込んだ。……