二十六、何色を映す
「やっぱりセンパイ大好きですっっ!!」
朝凪に抱きつかれる。それを引き剥がしながら思うのだ。戦いが白日に晒される頃には、今のこの瞬間に『平穏』という名前を付けることになるのだろう、きっと。そして思い出すのだ。戦火の中で、あたたかな光を。
彼岸は信じるに値しない。
でも朝凪や里雪の存在を信じたい。
「鬱陶しい…」
そう言って引き剥がしても笑ってくれる朝凪。
信じてくれるから、全部守れるような気がする。
全く馬鹿げているのかもしれない。
二兎を追ってみるのも、悪くないアイデアだ、なんて。
―だけど出来るなら、彼岸と人を。その相容れぬ二兎を両方。
フユが狙われた同じ時刻に、ハルが無事だったとどうやって保証出来るだろう。詩月が不用意に乱火の元を訪れてハルから目を離した間、余りに無防備なハルと、そこに置き去られたナツメの、魂の抜けた体。
闇が深まる地上に、裏腹に強い光を放つ満月。狂い咲いた白い花の輪郭を、冷たい明かりが縁取っている。それはハルの家の裏庭に、祖母が唯一残した見事な百合。気が違いそうになるほど美しく、その光景はどんな絵よりも白々しい。
―随分物わかりの良い花だ。
ちらりと視線を注いだ里雪はそんな事を思って、自分の感想に舌打ちした。
異常な事態に異常な景色。どこかの台本に書いてありそうな胡散臭さじゃないか。謀られたように都会から外れたこの場所は、実際お伽話なんかととても相性が良さそうだ。とはいえ、そういった類の面倒な思考は里雪の好むところではない。考えずとも充分に山積みであるし、そもそも里雪はその面倒を一つ処理しにここへ来たのだ。五万とある問題のたかだか一つ。まるでお笑い草だが、詩月にとって価値があるならそれもいい。
「あんたが、ハルか」
里雪は無断で家に入ったが、ハルはもう彼岸の使いに驚いたりはしなかった。
「…あなたも彼岸の?」
「ああ」
ハルのベッドにナツメが寝かされている。
「…天使みたい、」
ふいにハルが発した言葉に、里雪が目線をハルに戻す。
「なにが」
怪訝そうに聞く里雪にハルは柔らかに答える。
「金髪が、すごくきれい」
里雪の容姿は絵画に描かれる事しばしばの、天使そのものだ。纏う服も、白い。
「…そんなことに意味があるのか?」
返答に迷う里雪に、ハルが穏やかに言う。
「いいえ。だけどきれいです」
―詩月が必死になる理由は、こういうことなのか……?
里雪の中で、明確な言葉にならない感情が疼いた。
しかし答を探ろうとするより早く、処理すべき事態が近付いてきたと悟る。
チャリ、と、付ける必要も無いウォレットチェーンが重なる音。左に三つ、右に二つのピアス。黒に赤くメッシュを入れた髪。度のない、薄くブルーに透ける眼鏡。それらのアイテムは彼岸には存在しないものだが、状況を見て取れば対峙する相手が彼岸の使いであることは明かだ。なによりも、里雪はその相手に憶えがある。
「人間のオモリは大変だな」
挨拶代わりの軽口を叩くその男。初対面の相手にも昔からの知り合いのような態度を取るタイプで、里雪は彼岸で何度か絡まれた記憶がある。記憶があるからと言って再会して喜ばしい相手ではないのは確かだ。100歩譲って『絡まれた』という若干乱暴な表現が、実のところ的確でないと認めたにしろ。
「よ。久しぶり、里雪チャン」
「何しに来た」
抑揚に欠ける調子で里雪が問う。問われた男はもう何時間も前からここで寛いでいたと言うような気安さで口角を上げた。
「んー。ケンカ」
人間に何の愛情も持たないその男は、けれど人間の作り出したアクセサリーを身に付けるのに抵抗がないようだ。果たしてその二つは両立するのかと里雪は考える。作り手を度外視して、個体は個体として認識する……。
―どちらでもいいか。疑問を持ったからと言って解答を探し当てる義務はない。
「そうかよ。わざわざこんなとこまでご苦労だな」
―ケンカしに。
『喧嘩』は『里雪の』目的だ。数秒後に訪れる未来でもある。しかし『ケンカをしに来た』と口にした男の『目的』ではない。その男は『彼岸の保護』が目的であるはずなのだから。突き詰めて言い切るなら、『ハルとナツメを抹消しに』来たのだ。
―こうしてすり変わる。
『正しさ』が、『どちらでもないもの』に。目的が、争いに。里雪は考える。
―なんでか生きてる奴ってのは、戦うのが好きだ。彼岸の使いが生き物のカテゴリに入ればの話だが。
自分は巻き込まれているのか。もしくは望んでここへ来たのか。
―昼寝している方がいい。どちらかと言えば。
そんな言葉に自分自身で騙されているのだろうか。結果論なら同じ穴の狢。ついでに付け加えるのなら、今は恐らく過程より結果が大事だろう。
―何にしても結果をこいつに譲ってやる気はない。
首に引っ掛けていたゴーグルを引き上げる。一瞬で里雪の視界がセピア色に変わる。場違いな感想だが里雪はこの瞬間が嫌いじゃない。懐かしくてリアリティが薄れる褪せた色。里雪ただ一人の中で、世界が染まって行く。
セピアのフィルタの向こうで、もうそれと知れないブルーのレンズ越しに男の目が笑った。
「冷静なのは口先だけ、ってね。里雪チャンがゴーグルすんのって本気の時だろ」
対照的に里雪の涼しい目が、思案するように宙に逸れる。
「どうだか」
「強がんなよ。遠隔操作で二人分のシールド張りながらの戦闘なんて、手加減してたら負けるぜ?」
そういうところが面倒だ、と里雪は思う。こちらの都合に添って何が変わる訳でもない。お互い戦う事に異論がないなら、それで問題ないだろう。勝った方が『勝者』で充分だ。
「さっさと“ストッパー”を外せ。暴れたいんだろ」
里雪が言い捨てると、セピアの世界で軽薄な笑みを浮かべた男の唇が満足そうに動いた。
「上等」