一、始まりは
千秋は二年前に死んだ。私達「彼岸の使い」の一方的な過失によって。生涯は十年と一か月。実際の運命の八分の一だった。
彼岸の使い。それは人間界で悪魔や天使や死神などに分類される、いわゆる存在の曖昧な個体。アイデンティティーは人類の運命の管理。人類が絶えればこちらの存在価値も消失され兼ねないので、せいぜい滅ばない程度に気を配る。表裏一体の異世界を陰ながら視野に入れて来た我々のエゴは、知らず自らの目を濁らせた。
我々は優れている。
異なる世界を比べる事の愚かを口にする者はなく、私達はそんな怠慢から彼を死なせたに違いなかった。
萩原千秋は母と姉と彼の三人で暮らしていた。父は千秋が物心つく前に愛人の元へ走ったらしいが、その辺りの詳細は私の知るところでは無い。恐らくさほど重要ではないのだろう。片親だが母と姉は心有る人間だったため彼は真っ当に育った。素直で礼儀正しい、モラル重視の大人に受けの良い子供に。
そんな魅力的な子育てをした母親も、夫を人間界で一番ドロドロした愛憎の諍いで失い、手塩にかけた息子に先立たれて心を壊したらしい。今はどこか知れない病院で療養中で、「前管理者」代打の私に分かっているのは姉の春の所在だけだった。
ぼんやりと人間界を思いながら、代打要請の旨が書かれた用紙を広げる。それはハガキ程度の大きさで、コピー紙程度の薄さの紙切れ。
―萩原千秋及び春の運命管理者代替について―
105地区G-008所属、詩月に引き継ぎを命じる。これより先「萩原春」と回帰の契約を執り行い、在るべき運命に帰す事を最優先事項とすべし。以下履歴。
1985,03,12 萩原春/日本、静岡に生まれる。
88,09,24 萩原千秋/同上。
89,12,01 両親離婚。以後春、千秋共に父親と再会する事無し。
98,10,25 自宅で火災発生。本来春はここで死ぬべき運命。
前管理者が弟千秋と取り違え誤って生き残る。その後の詳細は別紙確認の事。
目眩がした。通常を装ったさり気なさで渡された紙切れは、余りにも異常だった。
―本来春はここで死ぬべき運命。
―誤って生き残る。
―在るべき運命に帰す事を。
ぐしゃっと紙切れが音を立てた。手に力が入ったらしい。自分の脳は一体何を拒絶しているのだろう。ピンとこないままに、紙のついでに心まで潰れたようだ。
「詩月」
心境に不釣り合いな穏やかな呼び声が聞こえて振り返る。こういう時決まって私の名前を呼ぶのはたった一人。同期の里雪。
「…余計な事考えるな」
里雪は端折れる部分すべてを端折って核心に触れた。その気遣いが逆に私の神経を逆撫でする。
「余計な事って」
突き放す言葉を返す。大人げないとよぎるが抑圧出来る程の余裕がない。普段そういう顔をしない里雪が一瞬困った表情を見せ口を開いたが、何も言わず、代わりに私が続けた。
「はっきり言えばいいじゃない。ハルに入れ込んだって私の立場が悪くなるだけだって」
里雪は無言を守っているが、視線は逸らさない。何を言っても私が噛み付くと悟ったらしく、僅かに目を細めただけだった。
「そもそも関係ないでしょう。口出ししないで」
彼が私の身を案じて声をかけたのは明白で、さすがにこの言い方はマズイと思う。それでも暴言は柔らかなクッションに吸収されたようで、里雪は不快そうな顔もせず、数秒の間の後静かに分かったと呟いた。