十八、過去の言葉
そこは都会の片隅でうっかり荒れ果ててしまったビルで、密やかに屋上に立てば地上の喧騒などどうでもいいように思える。
―廃墟が心地良いなんて、ロクなやつじゃない。
ビルの屋上からぼんやりと地上を見下ろす彼の中で、ふいにそんな感想が持ち上がって、銜えた煙草の隙間から苦笑する息が漏れた。不良めいた人工的な明るすぎるほどの茶髪が、都会特有の乾いた風に乗ってさらさらと揺れる。
彼はまだ長いままの煙草を唇から抜き取って、肺に入った煙を吐き出した。
「…彼岸も地上もたいして変わんねぇ…」
やる気のない呟きも都会の上空に溶けていく。それは誰に聴かせるでもない、けれど言わずにいれない言葉。
「『たいして変わんない』って?言ってくれるね、不良少年」
聴かせる予定の無かった言葉に反応が返る。『不良少年』は、聞き覚えのある声に自然と口角が上がって振り向きもせず答えた。
「少年に見えるかよ。そりゃラッキーだな」
―この世界に換算したら、何年生きてるんだか知れたもんじゃない。
少し沈黙した背後の声が、冷めたトーンで言い放った。
「ただのガキだろ。世界が変わるのを待ってる。テメーは何にもしねーで」
―こいつは。
今度こそ振り向いて声の主を視界に収める。そこにいるのはアイドルと言って通りそうな整った容姿の青年。柔らかな栗色の長めの髪と、瞳を縁取る長い睫毛が中性的なパーツを引き立てて、『綺麗』という言葉が完璧に嵌る顔立ちをしていた。
「…お前、黙ってりゃ美人なのに。薔薇には棘があるって自然の摂理な」
「薔薇だってテメーの為に咲いてんじゃねえ。勘違いすんな」
「……すいません」
下手をすれば同性まで手玉に取れそうな青年だが、本人はその容姿もどこ吹く風で微かな愛想すら浮かべない。
―その原因が彼岸か……。
やりきれない。
「人間に…いるんだな、お前みたいのが。正直ビビった」
―それはいまだに嘘であればと考えてしまうようなこと。
「この世の何も一方通行じゃ成立しねぇ。…自然の摂理だろ」
最期に視線を外した仕草が、綺麗だからこそ余計に痛々しく映る。
「―フユ、」
「乱火、テメーに客が来てる。今朝から目障りなんだ。何とかしろよ」
呼ばれた名前を遮って、『フユ』は吐き捨てる。
「…客?」
乱火がフユの更に背後を伺った。
フユが客と呼んだのは、―私。
「ん?あー…珍しい客だな…詩月」
乱火が私を見て言った。
「ごめん。目立たないように来たつもりだったんだけど」
「そっちじゃねえ、後ろ」
うんざりしたようにフユが吐き出す。
後ろ……閉めた筈のドアが10センチほど開いて、身を隠しながらも隠れきっていないのは、二つ結びの長い金髪の片側。
―朝凪。
「………………目立たないように来たつもりだったんですけど…………」
そろそろと顔を出した朝凪は、黒いキャミソールに十字架のチョーカー、マイクロミニの黒いスカートの上に白い二重ベルトを重ねて、ガーターで吊った網タイツをすらりと覗かせている。
「うん間違ってるわね。テイストとか」
ただでさえ日本には『ブロンド・ブルーアイズ』は居ないっていうのに。
「うわーんセンパイすいません何かよくわかんないんですけどどこか間違ってるみたいでごめんなさいわーんでもセンパイ大好きですうわーん」
バタバタと更に騒々しい…朝凪。
「フユ………目障りって…」
念のために乱火が伺う。
「あれ。すっげー目障り」
もはや『あれ』呼ばわり。
「……返す言葉もございません」
―乱火は『彼岸の使い』で、フユは『人間』で。意味が分からない。
「乱火、今日はもう帰ってくんな。つか一生帰ってくんな。お前たちとは関わりたくねえ」
そう言って身を翻したフユは、そこに本当に存在しているのか疑ってしまうくらいに洗練されていた。去り際に『目障り』だと言いきった朝凪に向かって自分の着ていたパーカーを投げる。
「着とけ。そんなカッコしてる季節じゃねえ」
行動と裏腹にドアを閉める音だけが酷く大きい。もう閉まっているドアに向かって朝凪がキラキラした目を向けた。
「はい!!彼岸の使いは人間界の温度って感じないんですけど御借りします!!ありがとうございます素敵な方!!」
「朝凪、可能性のない恋は止めときなさい」
暴走する朝凪に出来る限りの助言をして、乱火に向き直る。
「乱火、一緒に住んでるの?人間と?」
―今日はもう帰ってくんな。そんな口振りだった。
「うん?俺こっちの身分証明書とか無いからな。世話になってるよ」
普通どこの誰とも知れない人間を家に入れるだろうか。―違う、『彼岸』を知っているような素振りだった。
「まあ、今となっちゃ彼岸の証明書も無いけどな。で、用件は何」
聞きたいことばかり増える。
「その彼岸のことで手を貸して欲しいの」
「無理。他には」
即答される。
「他にはない。一度きりでいいの、お願い」
乱火が慣れた手付きで煙草を取り出し火を付ける。その一連の動作に焦躁感を覚えた。
「お願いされてもなぁ。貸せる手なら貸してやりたいけど、あいにく俺は無力でね」
「私の知ってる中であなた以上に力のある人はいないわ」
吐き出された煙さえ様になる。
「いつの話してんだよ」
彼岸に煙草は存在しない。けれどどこか懐かしい気がした。景色が全て色褪せてしまったように。
「それは、過去だろ」
遠い。
「詩月、俺は必死になるのに嫌気がさしたんだ。
知ってるかよ?人間界では、それをルーザーって呼ぶんだぜ」
ああ、もう。そんな言葉は聞きたくない。