十三、深みに落ちて
「彼岸の使い」を視認出来る人間とは、通常彼岸の側から接触した者に限られる。ハルもその一人。
「彼岸の使い」は、相対した人間に死をもたらすために接触する。どれだけ回りくどいにしても、ハルもその点では決して例外ではない。だからこそ「彼岸の使い」は「死神」と言い変えることが出来る。実際私は「死神」という呼び名の方が明け透けで分かりやすくて、どれだけか気に入っている。
その論理で言って、今ナツメが私たちを見ているのは異常といえる。
普通に生きている普通の少年、ナツメには、『見えない』ことが正しいのだから。
「自分が、何を食べて生きているのかも知らないくせに」
桜が、ナツメに向かって敵意と取れるほどに冷たく言い放つ。私はほとんど無意識に空間を選り分けた。
「黙れ。彼の知ったことじゃない」
空間を選り分けるとは、何も無いように見える場所で、何かを見つけることだ。密度の濃い部分と薄い部分を緻密に合わせれば、どこにでも気流が生まれる。荒れる乱気流で、他者を負傷させることも可能だ。これが人間から見れば、風を操っているように見えるらしい。それに憧れることもあるだろう。だけどこれは、魔法だなんて夢のあるものじゃない。
「このまま魂ごと封じてやる」
桜の周辺をぐるりと覆って空気を歪ませ、そこだけ真空率を上げていく。ただしこちらにダメージがない訳じゃない。「自然な空間」を、自分を媒体にして「不自然」に変換するのだから当然私も消耗していく。それを確認して、風に縛られた桜の唇が綻んだ。
「やだ…息が上がってるわ、詩月」
受けている攻撃を歯牙にもかけない緩やかな声音。
「うるさい。あんたに何が分かる」
上がっていく息の中で雑に応える。私が苦しくて、他の誰が困る。
―たとえ息が止まったとして、それが何だって言う?
「……何も」
私の放った風を宥めるように桜の腕がすっと伸びて、その手はそのまま真っ直ぐに私の首元を掴んだ。
「詩月の不幸を分かち合う義理は無い。彼岸の使いが一時の感情に流されるなんて、」
回らない酸素で風が止まる。
酸素が消えても風だけ残るならそれでもいいのに。
「論外。互角以上になったらかかってらっしゃい」
攻撃が消失して、完全に桜が自由になったと同時に気道を圧迫していた腕は離れた。
「その時は相手になるわ、いくらでも」
咳き込んで息を整える私の耳に、暫く聞こえていなかった「音」が戻ってくる。
「ちょっと、大丈夫!?しっかりして、ねぇ!!」
一刻を争うようなハルの声。
「詩月さん!この子目を開けない!!」
―
「ナツメ!!」
ハルの言葉に振り返り、ぐったりと瞳を閉じた少年の名を思わず叫ぶ。
―名を知っていたということは、彼の存在を把握していたということで。関わるかもしれないと予想はあった。けれど出来過ぎている。
「桜は術を使わなかったのに……どうして…」
桜は私の攻撃を粉砕こそすれ、自ら仕掛ける真似はしなかった。
「そりゃ桜一人じゃねぇってことだろ?」
聞き覚えのある低音が鼓膜に触れる。
「謎でもなんでもねぇ。どうしてもクソもあるか」
振り向けば、腕を組んで壁に凭れ掛かった黒髪の青年。
「華夜……、どうして…」
彼は面倒臭そうに髪を掻きあげる。
「こっちサイドの方が面白そうだったからな。つか、どうしてどうしてうっせーし」
「面白そう…そんな理由で?」
声にならない声で聞き返した私を見て、華夜が小さく笑みを浮かべる。
「ふざけないで」
―どうして誰もかれも。
「そんな下らない理由でハルやナツメがどれだけ傷付くかあなた考えたことあるの!?私たちの存在がどれだけエゴ的なものかあなたは―」
「かわいい」
掴み掛かった私に、華夜はそう言った。
「無神論者は辛いね。自分の存在を認められない」
語る内容がそれでなければ、華夜の笑みは見とれるくらいに綺麗なのに。
「俺たちは神だよ。人間の生死を管理するのは当然だろ」
「…違う…っ」
死神だとして。それで権利があるなんて。
「そんなの……幻想だ…。都合良く解釈するな…っ」
悔しくて落とした視界が霞む。それでも華夜は穏やかに言った。
「それが真実なんだ」
その、幻想こそが。