キエルヒト
いつもの駅。
そう、いつもどおり。
いつも見かけるものは、いつも変わらない。
それは、当たり前の認識。疑問を抱くこと自体が唐突、不穏当ですらある。夕暮れに影法師のない人間を探すようなものだ。
しかし不意に、私は立ち止まっていた。
見知った光景が、ひどく寒々しい、他人の顔をしている。私は、ここを知らない。
在ってはならぬ空隙に、踏み込んでしまったということなのか。
浮遊感。
不変なる「いつも」の一部、いつもの自分が、いない。いや、見当たらない。
――私は、なぜここにいる
――私は、何だ
――いつもの私は何をしているはずだった
浮遊する足は、元来た道を引き返し、新たに降り立った人波をさかのぼり、やがて先程降り立ったホームとは別のホームで止まった。
這い回る線路から際立ち島の様相を呈しているホームの印象ともあいまって、そこはあたかも孤島。
人の気配の薄い方へと進んできた以上当然ではあるのだが、人の集まる時間帯にもかかわらず、出入りする人影は見当たらない。
ホーム同様に閑散とした車内で腰を下ろし、何といった感慨もないまま、窓の彼方を眺めていると、やがて電車は動き出した。
目前から風景が流れ去ってゆく。
来し方を顧みることなく、また行く末を眺めることもなく、視界はただ、網目のように――せせらぎの中へ手を差し入れたときのような、あるいは、すくい上げた砂を指の隙間からこぼしてゆくときのような、そんな感覚。
どこへ向かっているのか、ふと不安を覚えはしたものの、案外、自身はそれを大して気にしていない。
思考の入る余地なき、静謐なる怠惰――。
ただそれは、存外たやすく破られた。
「消えたいって考えたこと、ある?」
がらんとした車内に、それは微かな反響を帯び、溶けてゆく。
とっさのことに、私は数秒ばかり反応が止まっていた。なにしろ、誰もいないと思っていた車内に声がしただけでなく、その主と思しき人物が間近にいるのだから。
二人ずつが向かい合う四人掛けの座席に腰を下ろしている私と、通路をはさんで向かい側、年頃の少女が学校の制服姿で、通路寄りの肘掛に、腰を預けている。
呼吸すら忘れて少女を凝視する私と、その私を見詰める少女と。
必然、沈黙が下りる。
たたん、たたん……たたん、たたん……。律動の中、代わり映えのしない背景が流れてゆく。
自身を映すかのような静寂に圧されてか、私はようやく言語というものを思い出した。
「君は、……何だ」
先の問いに対する答えとしては、大きく的を外している。やはりそれがおかしかったのか、少女は頬を緩めた。
「変なこと気にするね。行き先の判らない電車に乗ってるのに」
現れたとき同様に唐突な言葉だった。なぜそれを知っているのだ。
自身でも知らずに表情を変えていたのだろうか、少女は私の内心を見てとったようにすかさず答えた。
「同病相憐れむ、ってとこかな」
「同病……」
「そ。わたしは時々、なんにもする気が起きなくなって、ふらっとどっかに流れていきたくなる。おじさんを見て、自分こんな顔してるのかな、ってピンときたから」
「なるほど」
その心情を、理解できないことはない。こうして流れてきたことこそ初めてだが、私も時折、今のように、自身に疑念を抱き、日常生活が手につかなくなることがある。
「消える……か。うまい表現だ」
少女の言を思い返し、呟く。
消える。確かにそうだ。日常と隔絶した境地は、日常の側から見れば消失に他ならない。
しかし、初めに投げかけられた少女の言、いざ吟味するとなれば、首肯には躊躇が先立つ。
なぜなら、消失とは即ち不可逆。
私は今、日常を見失ったことによりこの状況下にいるが、さりとて、日常からの完全なる脱却をも望んでいるのか。
――否。
日常の崩壊までは望まない。そんな事態はむしろ恐怖の具象と言えよう。
しかし、凪いだ日常に安住し、その崩壊を恐れながらも、一時は完全な乖離すら望んでいる、とは――何という矛盾。
好奇心から、私は少女に問いを返した。
「君は、消えたいと考えたことがあるのか」
「あるよ」
即答に迷いのよどみはない。
「ま、頭の中で願うだけじゃ叶わないのが世の常ってやつだけど」
「はは、違いない」
わざとらしく顔をしかめ、おどけてみせる少女の表情は、単なる道化として割り切れるものでもないが、私はあえて深く問わなかった。
「親とか先生とか、あと、時々友達。下手すると自分も。何もかも面倒くさくなる気持ち、解らないかな」
「完全でもないだろうがね」
解らないことはない。私自身も、しがらみという面倒なものに取り巻かれて日々を過ごしているのだから。
「学生も楽じゃないわけか」
「学生には学生の悩みがあるよ。おじさんにもあったかもしれないけど、その歳じゃ忘れてそうだし」
少女の視線がわずかに上へ逸れた。その行く手の見当は容易につく。
「的は外れていないが、今見ているものを根拠にした想像よりは若いはずだ」
「……若白髪ってやつ?」
「表現上はそうなるな」
「若いと言えるような顔じゃないもんね」
知らず、深いため息が出る。幼い頃から、実年齢よりも随分と上に見られがちだったものだ。
考えてみると不思議ではある。
先程の少女の言をなぞるようだが、元々私は、何もかもわずらわしく感じてここへと至った。
にもかかわらず、例えなりゆきとはいえ、忌避したはずの対人関係を、いつの間にか楽しんでいる。
結果、空虚に冷めた意識は心なしか温もりを帯び始め、余計な思考の断片を複数置いておく余裕ができた。
そういえば、いつもの私もこうだったのではあるまいか。
元々あったように脳裡に散らばり始めた断片の隙間を、ふと妻や同僚がよぎった。
彼らはどうしているだろうか。
車窓に目を向けると、背景の流れが緩やかになっている。折りよく、電車は停車の態勢に入っていた。
私の変化に気付いたのだろう、少女が私の視線の軌跡をなぞり、問う。
「おじさん、降りるの?」
「ああ」
「ふーん。じゃ、わたしも」
そうして、駅名の看板さえ朽ちた無人駅に降り立った。
往路復路にはさまれた小ぢんまりとしたホーム以外は何もなく、周囲には深緑色の草原が広がっている。
空を見上げること自体が、随分と久しぶりな気がする。傾斜に転じ始めている太陽さえまぶしく見えるのは、午前中をまるごと電車内で過ごしていた報いだろう。
傍らの少女が節をつけて呟いた。
「はるばる来ました、名も無き僻地っ」
そこに、ぐう、とこもった合いの手が一つ。
「そういえば、もう昼下がり通り越してるんだよね」
「そう、だな」
腹の虫が不服を訴えても無理からぬ時刻。かといって、なだめる手段があるわけもなく――と、少女は思い出したように自らの鞄をあさり始め、チョコレート菓子の小箱を取り出した。
「備えあれば憂いなし、って感じ?」
「学校にそんなものを持ち込んでいいのか」
「陰でこっそり食べるし。センセー方の許可なんて必要ないじゃん」
言いながら、塗装のはげたベンチに腰を下ろす。
「そういう理屈もあるものなのか」
「はいはい。花より団子。考えてないで感謝しときなさいって」
二袋あるうちの一袋を渡され、私は少女にならって腰を下ろしながら礼を返した。
「ありがとう」
「はい、おかまいなく」
変わった「昼食」の合間も、手持ち無沙汰ゆえか、話は続く。
「へー、奥さんいたんだ」
「意外だったか」
「まーね。おじさんってヘンに真面目そうだから、物陰でどうでもいいことうじうじ悩んで、横取りされて終わり、って感じ」
「容赦ないな」
そういう経験は確かに多々あったが。そこまで言い当てられてしまうものか。
双方とも菓子を片付け、あらかた話題も尽き、そろってぼんやりと流れる雲を眺めていると、少女が口を開いた。
「ね、おじさん」
「なんだ」
体勢を変えぬまま呼ばれたので、こちらも体勢を変えることはしない。
「さっきさ、なんで電車を降りようって思ったの」
「そのことか」
問われたところで理由らしい理由はない。強いて言語化するならば――
「しがらみを思い出した……、そんなところだ」
「ふーん……」
そう、柵。私にまといつき、取り巻き、定義づける、関係の枠。窮屈なそれはしかし、内容にして前提たる私の存在なくして機能しない。
所詮は局所的なものとはいえ、私が消えてしまった場合、一部としての私の存在を前提とした社会は、維持に支障をきたしてしまうのだ。
「ま、分からないこともないかな」
少女が呟く。
「一時期バイトしてたんだけど、始めるときに思ったっけ。これで自分、歯車の一つになったんだなー、窮屈だなー、って」
「自分の行動に他の人間の都合も直接関わってくる以上、うかつなことはできなくなるからな」
「そうしてわたしも「イイヒト」になってくわけだ。あーやだやだ」
空から視線を戻し、あからさまに厭そうな表情を浮かべてかぶりを振る少女。その横顔を眺めながら、私は先程から思っていたことを口にした。
「君は、なかなか頭がいいな」
「頭ん中に外っ面、何から何まで「ミンナトオナジ」ってのが我慢ならないだけだよ。だいたいさ、えらそうなヒトって、コセイがどうとか言いながら、ミンナトオナジじゃないことは切り捨てるでしょうが」
鋭い。この少女は何と冴えた眼をもっているのだろう。だがそれゆえに、危うい。
怜悧は、真理を見抜くと同時に、見ずともよい、隠されるべき汚濁をも暴き出してしまうことになる。
あえて見ずともよいものにさらされていれば、現実への諦念にもさいなまれよう。現にそうしてこのような果てにいるのだから。
「君はまだ、現在進行形で「消えたい」と思っているんだな」
「返事は保留しとくよ。答えたら、それに縛られるから」
「賢明だな」
しがらみを避けるに越したことはない。
この姿勢、優柔不断と呼ぶこともできるだろう。しかし、選択とは、別の選択肢の抹消であり、改めた選択の余地を残さない。ゆえに、自由と呼ぶこともまたできるのだ。
空が茜を帯び始めた頃、ようやく復路の電車が現れた。どちらからでもなく、無言で乗り込む。
来たとき同様、ぼんやりと揺られながら、残光を眺める。少女と言葉を交わすことはなかった。
車窓からの眺めが人里らしくなってきてしばらくした頃、少女が立ち上がった。
「わたし、ここで降りるよ」
「そうか」
「じゃあね、おじさん」
「ああ」
闇の中に消える制服を見送る。
少女はこれからも様々なものを見ていくのだろう。だが、行く末を考えるのは詮無いことだ。私は彼女ではない。
日付が変わる頃、元の駅に着いた。
足が覚えている道筋をたどり、見飽きたホーム、家路をたどる。
無断欠勤を知った妻の問いを生返事で流し、床に就いた。
――私は、消えなかった
結局のところ、現実のしがらみによって引き戻されたのだ。
吉凶は判らない。
ただ、それ以来、私にはちょっとした癖が身に付いた。気詰まりを感じると、上を見るのだ。
所詮は現実逃避に過ぎない。
だが、時折鮮明に蘇る。私に「消えたいか」と問い掛けた、消えたがりの少女と、言葉を交わした、青と深緑の接するコンクリートのホームが。