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エピローグ

 診療の休憩時間に、患者さんが「土手の桜がもう散っている」と言っていたことを思い出したから、

午後の病院を休みにしました。東京とはいえ田舎ですから、急に少しの間休みにしても、

困ることはないでしょう。歩きなれた道を少し浮ついた気持ちで、だんだん濃くなる川の香りに

私の心は踊っていきました。私には土手に向かう前にいつも決まって寄る場所があります。

近くの家に植えられた青々とした大きな矢竹の前です。家主と軽くあいさつを交わして矢竹の前に

向かいます。ここら辺は雨や雪が多く降るわけではないけれど、川から吹く風が強いから矢竹が

倒れないか心配になってしまうのです。でもいつも私の心配とは裏腹に、どっしりと構えているのです。何本かの大きな矢竹の傍に寄り添う夏の訪れを感じさせる若い葉や低い竹が私のお気に入りです。

「皆さん、お久しぶりですね。元気にしていましたか?」

 矢竹に手をついて私は言葉を続けます。

「桜を見てきます。あとで戻ってきますから。」

 軽く礼をして私は矢竹を後にしました。




 少し経って土手につくと、そこには緑と混じる桜色が広がっていました。私は息を大きく吸い込み、

少し涙ぐみました。涙がこぼれないように空を見上げると薄い空の色に雲が浮かんでいます。

桜の木にもたれるようにして腰を下ろしました。一瞬の大きな風が私の手に残り少ない桜の花びらを

運びます。私はそれを優しく摘まんで空に透かします。

「総司さん。今年も桜が終わるみたいです。…見えますか?」

「…見えているよ。本当に綺麗だね。」そう返事が返ってきたような気がして、言葉を続けます。

「そろそろ夏ですね。夏の空が楽しみです。…総司さんの好きな色ですから。」

 本当はしばらく空を見ていたかったのですが、病院の前を掃除していないことを思い出したので

帰ることにしました。春が終わるとはいえ、夕方になるとまだ少し肌寒さを覚えます。




 病院の前に着くと、扉の前にかけてある箒を手にとって掃除を始めました。そうしていると、

少し前までは新撰組関係者に対する詮議が厳しく、外に出ることができなかったことを思い出します。

詮議が厳しかった時は夜闇に紛れて数十分出かけるのが精一杯で、青い空に浮かぶ桜を見ることの

できないまま、一年が終わることがあったのです。時間が経って時代が変わっても、未だに「新撰組」と

聞くと人々はいい顔をしません。だから私は過去の話も、大好きな人の話も、愛した人の話も

出来ないまま、まだあの時に囚われているのです。きっとそれはずっと続いていくのでしょう。

 そんなことを考えながら道が少し綺麗になった頃、急に声をかけられました。

「…お七さん、お七さんですよね?」

 聞きなれない男性の声に私は警戒心を強くして思わず箒を構えて、振り返ります。

「どなたですか。」

 見てみると、少しあの人に似た少年が立っていました。

「市村鉄之助です。…新撰組…隊士の…。」

 聞いたことがあるような響きに、私は首を傾げて考えます。

「市村…鉄之助…。」

 いまいち思い出せずにいると、少年は言葉を続けました。

「…土方先生の…土方歳三付きの小姓でした。」

 トシさんの名前を聞いたのはいつぶりでしょうか。一気に記憶がつながり、

私は目の前にいる少年をトシさんが手紙でよく話をしてくださっていた「市村鉄之助」であることを

理解しました。

 「ああ!あの!…ご無事だったんですね…良かった。」


 私は鳥羽伏見の戦いが始まってから、新選組の方々からの便りをほとんどもらうことなく過ごして

いました。だからこそ、久しぶりに見た新選組の隊士の方の姿には安堵を覚えました。私は彼が

なぜここに現れたのかを知りたくて、彼の言葉を待ちました。

「江戸に戻ってきて三月ほどになります。今は佐藤様のご好意でさるお宅にご厄介に

なっているのですが…このあたりは官軍の探索が厳しくて…外を歩くこともままならず…

お七さんを探し出すのにずいぶん時間がかかってしまいました。申し訳ありません。」

 彼はとても申し訳なさそうに、そして少し疲れた顔でそういいました。官軍の探索から逃げ続ける

苦しさも、外を歩くことさえできないもどかしさも私にはよくわかります。

「いえ、ずいぶんご苦労なさいましたでしょう。」

「それなりに…。お七さんはあれ以来ずっとこちらに?」

「はい。実家に帰ったのですが…新選組の関係者に対する詮議が厳しくて…今は別の家に世話に

なっています。」

 こちらに帰ってきてからのことは、あまりいい記憶ではありません。家を出る前は優しかった母様も「行き遅れの娘を置いておく気はない」と言わんばかりに冷たく当たるようになり、たとえ新選組の

ことがなかったとしても、あまり長い間実家にいることはできなかったでしょう。

「わかります。…お七さん、これを。」

 彼は手に持っていた包みを私に差し出しました。

突然の出来事に、私は受け取るのを躊躇してしまいます。

「…これは?」


 荷物から顔をあげて彼の目を見たとき、なんとなく伝わる悲しさに、私はその荷物があまりいいもの

ではないとわかりました。

「副長からです。…これを、必ずお七さんに渡すように…と。」

 副長という言葉がトシさんを表していることはわかるのに、頭の中が少しぼんやりします。

理解したくないことを、知りたくなかったことを、彼から突き付けられているからなのでしょう。

ずっと考えないようにしていたのに、私の意思に背いて私の口は動きます。

「…トシさん。…そっか、…もう…。」

 トシさんと過ごした思い出が頭の中を回ります。大好きだったあの笑顔を見ることも、声を

もう聴くことができないのです。しばらく何の言葉も出せずにいたのですが、

はっとして私は顔をあげます。

「ありがとうございました。届けていただいて。…聞いてもいいですか?トシさんの最後のことを。」

そういうと彼は優しく、どこか哀しく口を開きました。


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