第六章
二人は酒を飲み終えると秦由莉が外泊している部屋へと戻っていった。酔いが回ってしまったのか、彼女は頬を薔薇のように染めており呼吸も乱れているように見受けられた。そんな彼女に対して施訂再は優しく微笑む。
「由莉さん、大丈夫ですか?」
「はい……大丈夫ですよ。少しだけ……酔ってしまいましたけれど……でも平気です……」
そう言いながらも足取りはふらついていてとても危なっかしい。施訂再は心配になり彼女の肩を支えながら階段を昇ることにしたのだった。秦由莉が外泊している部屋へと戻るとそのまま寝台に寝かせてあげようとしたのだが……彼女はそれを拒否した。そして施訂再の腕に自分の腕を絡ませて寄りかかってくると甘えるように頭を擦り寄せてくる。そんな秦由莉に彼は優しく微笑みかけるとその頭をそっと撫でた。すると彼女は気持ち良さそうに目を細めてされるがままになっている。その姿を見ていると胸の奥底から愛おしさが込み上げてきて思わず抱きしめそうになる。おまけにお互いの顔が近いうえに秦由莉の唇へ視線が吸い寄せられてしまい……その瑞々しく潤った唇の艶めかしさに施訂再はゴクリと生唾を飲み込むのだった。
「由莉さん、少し休んだ方が良さそうですね」
そう声を掛けると秦由莉は名残惜しそうにしながらもゆっくりと離れてくれたので、ほっと胸を撫で下ろすも束の間だった。今度は彼女の手が自分の袖をしっかりと掴んでいることに気づいたのである。そして上目遣いで見つめられたかと思うと甘えるような声音で囁き始める。
「施訂再様……どうかはしたない女と笑わないでくださいませ……あの……私…」
そう言って瞳を潤ませて切なげな表情を浮かべている秦由莉を見ると施訂再は堪らない気持ちになった。その感情に突き動かされるように彼女の肩を優しく抱き寄せると耳元で囁くように言ったのである。
「由莉さん……」
その声を聞いた途端に秦由莉はビクンッと大きく身を震わせたかと思うと頬を紅潮させながら俯いてしまった。その反応を見ただけでどれほど彼女が緊張しているかわかってしまうが……今の秦由莉の姿を見ているととても愛おしく感じるのだ。だからこそ彼女を安心させたいと思って優しく声をかけてみる。
「由莉さん、御無礼をお許しください……」
彼女を抱きしめたままでそう言うと秦由莉は恐る恐るといった様子でゆっくりと身体を摺り寄せてくる。そしてそのまま施訂再の胸に顔を埋めてくるのだった。
「施訂再様の身体……温かい……」
そんな彼女を見ていると愛おしい想いが膨れ上がっていき、いてもたってもいられなくなってくる。そして気がつけば秦由莉とずっとこうしていたいという情念に思考が支配されていくのを感じた。理性ではまずいとわかっていながらもこの感情を抑えることが出来ずにいるのだ。それどころかどんどん彼女に対する愛情が溢れて止まらなくなってきていることに焦りを感じるものの……もう歯止めが効かない状態となっていた。
(ま、まずい……このままでは情欲に負けてどうにかなってしまいそうだ。な、なんとか、上手くこの状況を切り抜かなければ……!)
まるで彼の心の中で大河が氾濫するかの如く激しく溢れ出す情欲に負けてしまわないように必死に施訂再は堪えるが、秦由莉はそんなことなど露知らず……潤んだ瞳を向けながら施訂再の手を握ってゆっくりと両目を瞑った。
「施訂再様……どうか、このまま……」
「由莉さん、こ、これ以上は……!」
そして二人の唇が重なりそうになったその瞬間、施訂再は自分に対して窓の外から突き刺さるような殺気のこもった視線を感じ、窓を見てみると思わず絶句して心臓が止まりそうになった。
なんと窓の外では江夢沁と秦然忠が鬼のような形相でこちらを睨みつけていたのだ。さらに江夢沁の隣には彼女の父親である江才覚がどうしたものかと困ったようにオロオロしていた。
どうやら彼らは宿の外に植えてある松の木をよじ登って二階にある秦由莉の部屋の中を覗き込んでいたらしい。
「施訂再!貴様ァ!姉上から離れろぉ!!その首、私が叩き斬ってくれる!!!」
もう堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに窓を開けて部屋の中へ飛び込んでくる秦然忠。さらに江夢沁も飛び込んできて剣を抜き放ちながら怒鳴り散らす。
「秦然忠、どきなさい!施訂再の色ボケ野郎をぶっ殺すのはこの私よ!!そいつの首を斬り落として、首から下も原型を留めないほどに八つ裂きにしてやるわ!!!」
などと、物騒極まりない発言をする始末。流石にこれはまずいと思ったのか江才覚が娘を諌めに入る。
「夢沁!落ちつきなさい!男たるもの、一度や二度は妻と決めた女性以外にも気持ちが移ろうことはあろう。ここは一先ず矛を収めて見守りなさいっ」
「は?じゃあ、何?お父様はお母様に黙って一度ならず二度までも浮気してたっていうの!?ふざけたことをほざくようなら施訂再より先にお父様から血祭りにあげるわよ!!」
「うエェェェェッッッッッ!?」
完全に冷静さを欠いた状態の江夢沁に鬼のような形相で一喝されて腰砕けになった江才覚は悲鳴を上げて尻もちをついてしまう。そして秦然忠はそんな江父娘の様子を無視して施訂再に襲い掛かると殴り掛かった。これには完全に面を食らってしまった施訂再だったが、秦由莉に被害が及ばぬように彼女を気遣いながら優しく寝台に寝かせると、寝台から飛び降りた直後に自分の眼前に飛んでくる秦然忠の両拳を自身の両手で受け止める。
「よせ!秦然忠、由莉さんにやましい情念を抱いてしまったのは謝る!すまなかった!!でも、互いに一線は越えたわけじゃないから暴力沙汰だけは勘弁してくれ!!」
施訂再はそう言って謝罪の意思を示すが秦然忠は聞く耳を持たない。
「黙れ!貴様の薄汚い声で姉上の名を呼ぶな!その罪、貴様の死で償え!!」
そして容赦なく拳を振り下ろしてくるのだが……施訂再は全て紙一重で躱していく。そして隙を見ては反撃しようとするのだが……それを察知した秦然忠は距離を取って牽制してくるのだ。
(流石は天賦の才の持ち主……隙がないな……)
そう評価しながらも施訂再はどうやってこの場を切り抜けるべきか必死に思案していた。しかしそんな思考の途中で秦然忠の攻撃の手が緩まった隙を突いて反撃に出る。秦然忠の攻撃をいなそうと足を振り抜いた瞬間に秦然忠は身体を捻って避けると、逆に返す刃の如く蹴りを放ってきて施訂再の脇腹に命中してしまう。その痛みに耐えながらも体勢を整えようとするがそこへ更に追い討ちをかけるように拳による追撃を仕掛けてきた。その素早い動きについていけずに防戦一方となってしまい……遂には床に押し倒されてしまう。そこへ更なる追撃を仕掛けようとしてくる秦然忠だったが……その手を止めた。何故ならば施訂再の背後にはいつの間にか江夢沁が立っていて、剣を振り上げて今まさに斬りかからんとしていたからだ。
「訂再……会ったばかりの由莉さんにこんないやらしいことをするなんて。五年前……私が十一歳の時に初めて会ったときから虎視眈々と私のこともこんな風に手篭めにするつもりだったんでしょうね……?」
「ち、違う!夢沁お嬢さん、それは断じて無い!」
必死に否定する施訂再だったが江夢沁は聞く耳を持たなかった。そして無言のまま剣を振り下ろすと鋭い金属音と共に火花が散る。咄嗟に彼は秦然忠を蹴り飛ばすと横に転がりながら回避行動を取るが江夢沁の振るった剣の切先が掠ってしまい、施訂再の右肩には真一文字の傷が出来てしまった。施訂再は思わず叫んでしまう。
「む……夢沁お嬢さん、早まるな!待ってくれ!」
「訂再……由莉さんみたいにアンタと関係を結んだ女性があと何人居るのか知らないけれど、私は絶対に許さないから!アンタのような汚らわしい不埒者は私の手で成敗してやるわ!!」
完全に錯乱状態で喚き散らす江夢沁。彼女を止めるために施訂再は慌てて制止しようとしたが、既に彼女の怒りは臨界点を超えており……その手を止めることは出来なかった。
(しまった。どんなに俺が弁明したところで、夢沁お嬢さんには見苦しい言い訳にしか聞こえないだろう、この状況はかなりマズい……)
施訂再がそう思った時にはすでに遅く……江夢沁は剣を振り上げて斬りかかる寸前であった。そしてその刃が振り下ろされようとした次の瞬間……彼女は剣を取り落とし、力無く床に崩れ落ちていく。呆然と立ち尽くす施訂再の目の前には……床に倒れ伏して気絶している江夢沁の姿があった。
一体何が起こったのか理解できずに困惑する施訂再だったが……答えはすぐにわかった。床に倒れた江夢沁の傍には江才覚が居たのである。どうやら江夢沁の暴走を見かねて江才覚が彼女を気絶させてくれたらしい。彼は江夢沁が施訂再に斬りかかろうとした頃合いを見計らって相手の急所を指先で突いて体を麻痺させる気功術の一つ、点穴法を用いて江夢沁を気絶させて施訂再を助けてくれたのだ。そして彼は申し訳無さそうに施訂再へと視線を向けると深く頭を下げて謝罪してきた。
「施訂再殿……誠に申し訳ないことをしました」
「いえ……江大人、どうか顔を上げてください。謝らなければならないのは私の方ですから……」
施訂再はそう言って江才覚に向かって頭を下げたのであった。
一方、秦然忠はというと……施訂再を攻撃したことと、宿の中で暴れたことを秦由莉から咎められていた。
「ですから姉上、私が施訂再を攻撃したのはあの暴漢から姉上をお守りするためで……」
「それが余計なお世話だと言っているでしょう。そもそも施訂再様は暴漢ではありませんし、私の恩人です。その恩人を害するということは即ち私を傷付けることと同義であるということを覚えておきなさい」
床に正座させられたままの秦然忠が弁明するが秦由莉は彼を叱責するようにぴしゃりと言い返した。どうやら今回の件に関しては彼女も相当頭に来ているようである。いつもは穏やかな笑みを浮かべていることが多い彼女だが今は明らかに怒りの表情を浮かべており……その迫力に圧された秦然忠は俯いて黙り込むしかなかった。それでも彼にとって施訂再は自分の恋路を邪魔した挙句、姉の貞操を奪おうとした極悪人としか考えていないため、やはり納得出来ない思いが残ってしまうのである。そんな複雑な心境のまま俯いている彼に対し秦由莉は溜息混じりに言う。
「ああ、まったくいいところだったのに……あなたが余計なことをしたせいで興醒めだわ」
彼女が呆れたように呟くと秦然忠はムッとした顔をして言い返す。
「……姉上はあの男と接吻しようとしましたね。それって男女の契りを交わそうとしたということですよね?」
秦然忠の言葉に秦由莉は悪びれた様子もなく頷く。
「ええ。それが何か?」
さらっと答える秦由莉に秦然忠はさらに眉間に皺を寄せる。
「その行為の意味を理解しているのですか!?婚約していない男女がこのような淫らな行為をするなど破廉恥にも程があるでしょう!もしあの男と一線を越えていたらどうするおつもりですか!!」
「あら、あなたにしては随分と生々しいことを言うのね。でも心配いらないわ。私と施訂再様はもう婚約している間柄ですもの」
そう言って秦由莉はニッコリと笑う。そんな姉の様子を見て秦然忠は言葉を失ってしまった。
「ま、まさか……あ、姉上、奴と赤婚酌交の儀を……?」
秦然忠はあまりのことに血の気が引いたような青ざめた表情で秦由莉の顔を見つめた。すると彼女は当然のことのように頷く。
「ええ。先程夕食を共にした時にね」
秦由莉は頬を赤く染めながら、先程施訂再と酌み交わしたあの赤い盃を革袋から取り出して微笑んだ。赤婚酌交の儀とは北方に伝わる婚約の儀式のことで、儀式に用いる赤い盃に酒を注いで二人で飲むことで相手を生涯の伴侶として誓い合うのである。その事実に秦然忠は血相を変えて慌てふためく。
「な、なんということを……姉上はあの不埒者と結婚なさるおつもりですか!?私は……それだけは、それだけは絶対に認めませんよ!!」
「認める、認めない以前の問題なのよ。私達は既に夫婦の契りを交わしているのだから」
「姉上はあの不埒者の毒牙にかけられているんです!正気に戻って下さい!」
「然忠……あなた、施訂再様のことが気に入らないからと言って私を侮辱するつもり?」
秦由莉は怒りの籠った目で弟を睨みつけるが、彼は怯まずに言い返す。
「私は姉上を心配して申し上げているだけです!あの男は信用なりません!きっと何か企んでいるに違いないのです!!」
「まあ……私の夫になる殿方を悪く言うなんて、あなたはいつからそんなに不躾な子になってしまったのかしら?そんな子に育てた覚えはないのだけれど……」
秦由莉はそう言って仙女のように美しい顔に青筋を立てながらも……笑みを消さずに言い放った。
「姉上はあの男に騙されているんですよ!?お願いですから目を覚まして下さい!!」
「騙されている?私が施訂再様に?」
秦然忠の言葉に秦由莉は冷笑を浮かべて首を傾げた。薄く紅を塗った唇は笑みを浮かべたように弧を描いているが……その瞳は一切笑っておらず、まるで凍てつくような冷たい視線で弟を見つめ返している。その迫力に思わずたじろぐ秦然忠だったがそれでも必死に姉を説得しようとした。
「ええ!姉上はあの男の本性を知らないのです!!あの男は女性を見れば見境無く手篭めにしようとする獣のような男なのですよ!?」
しかしその言葉にも秦由莉は全く動じなかった。それどころか逆に呆れたようにため息をつくと諭すように言ったのである。
「まったく……あなたという子は本当に何もわかっていないのね」
「えっ……?」
秦然忠が不思議そうな表情を浮かべると、彼女はさらに続けた。
「施訂再様は私が夫と見込んだ殿方よ。だからこそあの人がどのような人物なのかは私が一番良くわかっているわ。それにね……あの人は決してあなたが考えているような卑劣な方ではないわ。あの人はとても素晴らしい男性なの。勿論、あなたよりもずっとね」
「なっ!?そ、そんなはずはありません!あんな不埒者が……」
秦然忠が反論しようとするがその前に秦由莉はキッパリと言い切る。
「まだわからないようね。施訂再様はあなたが思っているような不埒者ではないわ。あの方の武芸の腕前は荒河でも評判だし……それに誰に対しても優しいわ。さっきあなたが施訂再様に殴りかかっていた時、夢沁さんによる攻撃を受ける直前にあなたを蹴り飛ばして庇ってくださったことにも気づいていないのでしょう?」
秦由莉に問い詰められて秦然忠はギクリとした様子を見せたがすぐに取り繕うように言い返す。
「しかし姉上!奴は姉上の他にも、江夢沁にも手を出しています!それは紛れもない事実なのですよ!」
秦然忠の言葉に秦由莉は再び呆れたように肩を竦めた。そして彼をじっと見つめると静かな声で言う。
「あのね、然忠……確かに施訂再様はこれまで何人もの女性と親密な仲になったかもしれないわ。だけどそれは……施訂再様に限った話ではないのよ」
「……………は?」
秦然忠は姉の言っている意味がよく理解できなかったようで呆気に取られる。その様子を見て秦由莉は苦笑しながら続きを話し始めた。
「あなたが想像しているより世の中は広くて深いのよ。それに男女の縁というのはね……不思議なもので……運命的なものを感じることもあるの。例えば私と施訂再様の出会いもそうだったようにね」
秦由莉はそう言うと、施訂再という運命の人と巡り会えた喜びを噛みしめるように微笑んだ。そんな姉の幸せそうな姿に秦然忠は何とも言えない表情を浮かべていたがやがて諦めたように小さく呟く。
「わかりました……確かに姉上の仰ることはもっともですし……私の方が浅慮でした。しかし姉上があの男と婚姻を結ぶというのでしたら私も覚悟を決めます。もしも、姉上があの男に裏切られるようなことがあれば……私はあの男を許しません。必ず報復します」
秦然忠の決意の籠もった言葉に秦由莉は少し驚いたように目を見開くがすぐに嬉しそうに笑う。
「ふふっ、安心なさい。私と施訂再様の縁は既に赤婚酌交の儀によって結ばれているの。他の誰かに引き離されることなどありえないわ。それにあの人は絶対に裏切るような真似はしないと信じているから」
秦由莉は自信満々にそう言ってのけると胸に手を当てて続ける。
「だから大丈夫よ。あなたは余計な心配をしないで自分のことだけを考えていればいいのだから」
そんな彼女の言葉を聞いて秦然忠は小さく舌打ちをすると踵を返して部屋から出て行ってしまう。その後ろ姿を微笑ましく眺めながら秦由莉は満足そうな表情を浮かべて施訂再と気絶した江夢沁を背負った江才覚へ向き直ると深々と頭を下げた。
「施訂再様、江大人、私が至らないばかりにご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。然忠には厳しく言って聞かせますのでどうかお許しください」
そう言って謝罪する彼女に対し施訂再は慌てて手を振る。
「いやいや、そんな……私の方こそ申し訳なかったと思っているんです。由莉さんに迷惑をかけるつもりはなかったのですが……結果的にこういう事態になってしまったのは事実ですから……」
秦由莉は施訂再の謝罪の言葉を聞くと小さく首を横に振る。そして優しい笑みを浮かべながら言った。
「施訂再様、そのように気になさらないでください。今回の件は全面的に私に非がありますし……それに私と施訂再様の間には確かな絆が生まれましたから」
そう言う彼女の表情からは一切の憂いも迷いも感じられなかった。むしろどこか晴れやかな表情をしているように見えるくらいだ。秦由莉の言葉に嘘偽りはなく、本当に心の底から感謝しているのだとわかる。その言葉と態度にそう思わされるものがあったので施訂再は自然と安堵の息を漏らすのであった。
(良かった……とにかく由莉さんは怒っていないようだ……)
そんなことを内心で考えていると、江才覚が申し訳なさそうに施訂再の方へ視線を向けて話しかけてきた。
「施訂再殿、我が娘の無礼を心から謝罪致します。あの子は昔から思い込みが激しい上に気性の荒いところがあるものでしてな……本当に申し訳ないことをしました」
そう言って深々と頭を下げる江才覚に施訂再は慌てたように言った。
「いえ!むしろ私の方こそ申し訳ありませんでした!!その……夢沁お嬢さんを傷つけてしまったのではないかと……」
そう言って頭を下げる施訂再に対し江才覚は穏やかな笑みを浮かべると優しく語りかけてくれた。
「それについては何も問題ありませんよ。夢沁も年頃の娘ですから多少感情的になることもあるでしょう。ですのでどうかお気になさらず」
江才覚はそう言うと安心させるように微笑んだのである。彼の気遣いのお陰で少し落ち着きを取り戻した施訂再はホッと安堵したように息を吐くと改めて江夢沁の様子を見た。どうやら江才覚が気絶させた際に怪我をしなかったようでありとりあえず一安心といったところか……。施訂再は胸を撫で下ろすと同時に改めて江才覚へ礼を述べた。
「ありがとうございます。江大人の機転のお陰で夢沁お嬢さんが無事だったことに深く感謝します」
施訂再がそう言うと江才覚もまた微笑んで頷く。
「いえいえ……これくらいのことなど些細なことですのでお気になさらず。それよりも、娘が施訂再殿に怪我をさせたことのほうが重大です。すぐに手当てしましょう」
言うが早いか、江才覚は水筒を取り出すと施訂再の右肩の傷に水をふりかけて、傷口を洗ってから摩り下ろした薬草を含ませた包帯を巻いてくれた。するとジンジンとした痛みが引いていくのがわかったので施訂再は素直に感謝の言葉を伝えた。
「痛みが楽になりました。江大人、ありがとうございます」
すると江才覚は施訂再の右肩に手を当てて軽く擦っててくれた。彼の温かい手に包まれて不思議と右肩の痛みが和らいでいくのを感じる。
「これで良し……施訂再殿、応急処置しかできず申し訳ないのですが、どうかご容赦ください」
「いえ、十分過ぎます!江大人のおかげでだいぶ楽になりましたから。本当に感謝します!」
施訂再はペコリと頭を下げると心からの感謝を言葉にして伝えることにした。そんな彼に対して江才覚も穏やかな笑みを浮かべつつ無言で頷く。それから少しして二人は秦由莉が外泊している部屋を退出していった。そうして施訂再は江才覚たちを宿屋の玄関まで見送ると自分が外泊している部屋へと戻るのだった……。




