第五章
龍登山荘を後にした施訂再は秦由莉に江夢沁と共に留まるように指示すると、秀斗町へと繰り出してゆく。それから三日が経過した。今日も秦然忠は秀斗町の商店街をうろつきながら江夢沁を探しているようであった。施訂再は建物の影に隠れながら慎重に尾行していくと彼は露店の前で物色しているようで……商品を見定める為に品物を手に取ったり離したりしている姿が見て取れる。その様子を見る限りでは特に怪しい動きはしていないようだった。
(さてと……問題はここからだな)
施訂再は秦然忠の行動を観察しながら頭の中で思考を巡らせていく。これから彼を捕獲する為の罠を仕掛けなければいけないのだが果たしてうまくいくだろうか?一抹の不安はあるものの、やるしかないと覚悟を決めると意を決して行動に出たのである。
「おい!秦然忠!!」
施訂再の呼びかけに反応した秦然忠。彼は露店から離れるとこちらに近づいてくる。
「なんだ?貴様は先日の下郎ではないか。もしや、またこの前の続きでもしようというのか?」
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら挑発的な言葉を投げかけてくるが今の施訂再には通用しなかった。むしろこの状況を利用してやろうと思っていたくらいだ。それどころか……逆に相手を挑発するようなことを口にしてみたりする。
「へへっ!そう身構えなさんなって。今日は特別に夢沁お嬢さんがあんたに手料理をふるまってくださるそうだ。良かったな?」
施訂再は挑発するような口調で秦然忠に告げた。その瞬間に彼の表情が驚愕に歪むのがわかった。やはり江夢沁の手料理という言葉は効果抜群のようだ。彼にとって江夢沁の存在はそれほどまでに大きいのだろう。そんな秦然忠の表情の変化を見て取った施訂再はさらに畳みかけていくように言葉を続けた。
「ただし……条件があるんだがな。まずは……」
その言葉に秦然忠はゴクリと喉を鳴らす。それから施訂再は条件を提示したのである。
「まず一つ目は……秀斗町で暴れるのをやめること。二つ目は……夢沁お嬢さんに危害を加えないこと。三つ目は……今から出す料理をちゃんと完食すること。これだけだ、簡単だろう?
ただし、この条件を呑めないというなら潔く夢沁お嬢さんのことはあきらめて霊峰白蛇山へ帰ってもらうぜ。さぁ、どうする?」
秦然忠はしばらくの間考え込むように黙っていたがやがて絞り出すような声で答えた。
「……承知した」
その言葉を聞いた瞬間……施訂再の胸中に安堵感が広がると同時に、してやったりという気分にもなっていた。しかし油断するにはまだ早い。施訂再はすぐに冷静さを取り戻すと再び秦然忠に語りかけた。
「よし!それじゃあ、案内してやるよ!」
そう言って施訂再は秦然忠を連れて歩き始める。そしてしばらく歩いたところで江夢沁が待機している建
物に到着すると彼は足を止めて振り返った。
「さぁ着いたぜ!ここが目的地だ!」
施訂再が指し示す場所に目を向けるとそこには一軒の店があった。看板には『白雲亭』と書かれており店内には数人の客がいたが皆楽しそうに談笑している。どうやら酒楼のようだが……店内の様子は賑やかというよりも穏やかな雰囲気に包まれていた。
「……なんだ、ここは?」
秦然忠が怪訝な表情を浮かべるのも無理もない話だろう。彼が今まで訪れたことのないような風変わりな店なのだ。それもそのはず……この白雲亭は秦然忠が秀斗町を騒がせている事件を解決するために施訂再が臨時で借りた空き家を改装したものだからだ。しかし彼はそれをおくびにも出さず飄々とした態度を貫いている。その姿を見た秦然忠はますます疑念を深めていくのだが……それと同時に何かを感じ取ったようでもあった。
「まぁ、細かいことは気にしなさんな!とにかく中に入ればわかるさ」
そう言って強引に背中を押すと秦然忠を店内へ入らせた。中に入ると江夢沁が両手に食材が入った籠を持って出迎えてくれたのだが、彼女の手にした籠の中身を見た秦然忠は思わず目を見開いて
一歩後ずさってしまった。その籠の中に大嫌いな椎茸が山ほど入っていたからだ。
「む、夢沁……何故、椎茸をそんなに……?」
青ざめた表情で問う秦然忠に江夢沁はにこやかな笑顔で応える。
「何故って……豚肉と筍と椎茸の炒め煮でも作ってあげようかな〜って思っただけだけど?」
「なっ……!?」
江夢沁の言葉に秦然忠は絶望の表情を浮かべるが……その直後に何かが風を斬る音が聞こえ、自分に向かって飛んできた何かを掴む。
「こ、これは……蛇捉鞭!?もしや……」
秦然忠が掴んだものは蛇の皮を複数の鉄の輪で繋いだ長い鞭だった。それは紛れもなく彼の生家である大秦覇蛇館で修練に使われている蛇捉鞭だ。それを手に取って感触を確かめてみると……間違いなく本物だった。
(ど、どういうことだ……?これは一体誰が……?)
困惑する秦然忠だったが……次の瞬間、店内に甲高い女性の声が響き渡った。
「然忠!貴方の悪事もこれまでです!今すぐ大人しく縛に就きなさい!!」
その声の主は秦由莉だった。彼女は秦然忠の姿を見つけた瞬間に怒りが爆発したらしく目を吊り上げながら怒鳴り散らしている。その声を聞いて秦然忠は我に帰ると思わず身構えた。
「姉上!これは一体何の真似ですか!?何故このようなことを……!?」
「簡単なことです!私は貴方を更生させるためにここへやってきたのです!」
秦由莉はそう叫ぶとさらに言葉を続ける。
「いいですか、よく聞きなさい!貴方は今まで多くの人に迷惑をかけてきました。そして今も尚、秀斗町の人々を苦しめています。それは決して許されることではありません!ですから私が直々に指導してあげようというのです」
彼女はそう言うと蛇捉鞭を構えたまま引っぱり上げると、先端部分を掴んでいる秦然忠の身体がふわりと空中へ浮かび上がった瞬間、彼の頭が店の天井に思い切り叩きつけられてそのままの勢いで窓の方へと弾き飛ばされながら店外へと吹き飛んでいった。
「ぐっ!ぐああああああッ!!」
天井に叩きつけられ、店の外へと吹き飛ばされた痛みで苦悶する秦然忠。そんな彼に秦由莉は厳しく言い放った。
「弟よ、立ちなさい!あなたの悪行のためにお父様やお母様、大秦覇蛇館の門弟の皆がどれほど心を痛めているかわからないのですか!?だからこそ、今ここで心を入れ替えるべきなのです。わかりましたか?」
「ぐっ……!ぐぬうッ……!!」
秦然忠は歯噛みして悔しがるものの……何も言い返せない。秦然忠は唇を嚙み締めながらも渋々と立ち上がった。その目には怒りよりも親に叱られている子供のような不安げな色が浮かんでいるようにも見えた。しかしそれでも秦然忠は諦めず再び立ち上がり、剣を抜こうとする。そんな彼の前に施訂再が立ちはだかる。
「そこまでだ。無駄な抵抗はよせ、秦然忠!これ以上争っても何にもならないだろう!!」
「黙れ!貴様などに何がわかる!?大秦覇蛇館の型にはまった、ままごとのような武術など今や時代遅れの遺物でしかない!それを私が実戦向きに改良し、新たな型を生み出してやったのだ!!そうしなければ大秦覇蛇館はいずれ廃れていく運命なのだぞ!?」
秦然忠は興奮した様子で叫ぶが、秦由莉は凛とした声で反論した。
「いいえ、たとえ大秦覇蛇館の武術は途絶えたとしても……先人たちの築き上げたその力を世のため人のために使うという教えと精神は次代へと受け継がれてゆきます。あなたはそれに泥を塗るつもりですか?」
「ぐ……!しかし……」
秦由莉の言葉に秦然忠は再び反論しようとするものの……上手い言葉が出てこなかったのか口籠ってしまった。しかし……しばらくしてようやく言葉を絞り出すことができたようだ。
「くっ……父上や母上だけでなく、姉上まで私を否定しようというのか!?たとえ今の地位を築き上げた先祖の顔に泥を塗ることになろうとも、大秦覇蛇館は存続させねばならん!『世のため人のため』などというきれいごとに囚われたままでは大秦覇蛇館は永遠に衰退の一途を辿っていくだけだ!!」
「あなたは何もわかっていないのですね。お父様やお母様も、私も、大秦覇蛇館を権威付けようなどとは思っていません。武術が権力と化してしまえば『弱きを助け強きを挫く』という侠の精神を捨て去った卑劣漢と成り果てるのと同じではないですか!そんなことは決してあってはならないのです!!」
秦由莉の説得に秦然忠は悔しげに歯噛みする。そんな彼の姿を見て施訂再は憐憫の情を抱いていた。秦然忠と初めて会った時には彼の持つ傲慢な態度に反感を覚えたものだが……今こうして対峙してみると何となく理解できてくるものもある気がした。きっと彼は生まれつき傲慢な性格ではなく、幼い頃から優れた能力を持ち、共に切磋琢磨するような相手がいなかったために他人を見下すような歪んだ人格に成長してしまったのではないかと思ったのだ。そう考えると秦然忠が哀れで不憫に思えて仕方がなかった。彼がこんな風になってしまったのは彼自身にも責任はあるにせよ、周囲の大人達にも責任があるはずである。もっと早く彼の孤独に気づいていれば少しは違った結果になっていたのではないか。そんな想いに駆られる程に秦然忠の姿は痛々しく思えた。
「秦然忠!お前は今自分が何をやっているかわかっているのか!?お前の行動が自分自身を陥れる行為だと自覚しているのか!?」
「黙れ!貴様如き下郎に私の気持ちがわかって堪るか!いいか!?我が秦家は代々名家として栄華を極めてきた一族だ。その名を地に落としたくなければ大秦覇蛇館の武芸を復活させるしかないのだ!!」
施訂再は必死になって説得しようとするものの秦然忠は聞く耳を持たない。そればかりかますます逆上していくばかりであった。しかし施訂再はそれでも諦めずに言葉を続けていく。
「秦然忠!よく聞け!確かに秦家は名家として知られていて、大秦覇蛇館は多くの武芸者たちから尊敬を集めている。だがな、今のお前は秦家の跡取り息子である以前に一人の人間でもある。己の野心のために周りの人間を危険に晒すことがどれだけ愚かな行為であるかわかるか!?」
「ぐっ……!余計なお世話だと言っているだろう!そんなことは百も承知の上でやっているのだ!!」
「だったらなぜこんな馬鹿なことを続けているんだ!?今のお前がしていることは単なる自己満足に過ぎない。それは本当に秦家を救うことになっていると思うのか!?」
「……ッ!!」
施訂再の言葉を受けて秦然忠は押し黙る。そしてしばらくの間沈黙が流れたあと、突然彼は大声を上げて笑い出した。まるで何かが壊れたかのように哄笑すると剣を収め……唐突にその場から立ち去ろうとした。その背中に向かって秦由莉が最後の呼びかけをする。
「待ちなさい!あなたにまだ言っておかなければならないことがあります!」
「ふん!今さら何だと言うのですか、姉上?」
振り向くこともせず吐き捨てるように言い放つ秦然忠。そんな彼に対し秦由莉は毅然とした態度でこう告げたのである。
「然忠がどう思おうと、あなたは私のただ一人の弟でありお父様やお母様、そして大秦覇蛇館の門弟たちを含めて私の大切な家族です。どうかそれを忘れないでください」
「……」
秦然忠は何も答えない。ただ黙って立ち尽くしていた。そんな彼に対して秦由莉はなおも語りかける。
「私はあなたが大秦覇蛇館の門徒として、そして私の弟として誇りに思っています。だからこそ……あなた自身の幸せを掴むためにも、どうかその歪んだ心を正してください。お願いします」
そう言って頭を下げる秦由莉の姿に秦然忠はようやく振り返る。その表情には困惑の色が見て取れたがやがてゆっくりと口を開いた。
「姉上……姉上も父上も母上も、大秦覇蛇館の門弟たちもそうやって私に情けをかけようとしましたが、
結局誰一人として私の気持ちを理解してくれる者はいませんでした。父上も母上も自分の考えを押し付けるばかりで私の意見に耳を傾けようとしなかった……。私は父上の跡を継ぎ大秦覇蛇館の当主になりたいと言っても私の編み出した剣法を受け入れてくれませんでした。私はただ純粋に力を求めていただけなのに……どうしてそれがいけないことなのでしょうか?私が力に固執すればするほどみんな離れていく……誰も私を理解してくれない……」
秦然忠は秦由莉に訴えかける。そんな彼を見て秦由莉は痛々しく思ったのか慰めるように言った。
「然忠……あなたがどれほど努力を重ねても報われることはなかったのでしょう。だからといって全てを
失う必要なんてないのですよ。あなたはただ道を踏み外しているだけ。まだやり直すことができます。私はいつでもあなたの味方ですからね?」
「姉上……父上と母上には体を大事にするようお伝えください。私は自分の信じる道を行きます」
秦然忠はそう言い残すと立ち去ろうとする。しかしそこで再び秦由莉に呼び止められた。
「待ってください。然忠……あなたがこれからどこに行こうとあなたの人生です。あなたの思うままに生きていけばいいのです。そしていつか必ず戻ってきてくださいね。私もお父様もお母様も、皆でずっと待っていますから」
「……考えておきましょう」
そう言い残して立ち去っていく秦然忠の後ろ姿を見ながら、施訂再と江夢沁は複雑な気持ちを抱いていた。秦然忠が自身の成長のために修行して強くなることを望んでいるのであればそれを応援してやりたいという気持ちもあるのだが、彼がこの先、改心して更生することが出来るかどうかもわからないのだ。それはとても困難なことであり、仮にそれが成功したとしても秦然忠がこれまでに犯してきた罪は決して消えはしないのだから。秦然忠を救う方法はないものだろうか。いや、そもそもどうすれば秦然忠が自らの非を認め反省し、正しい道に立ち返ってくれるのかすらわからないのだ。
「はぁ……あの様子じゃあ、やっぱり無理でしょうねぇ……」
ぽつりと呟く江夢沁の声には失望が含まれているように感じられる。そんな彼女を施訂再は励ますように言った。
「今は辛い時期かもしれないが……いつか良い方向に転じていくのではないかな」
「そう上手くいくかしら……」
「確証はないが、きっと上手くいくさ」
飄々と答える施訂再だが彼自身も半信半疑だった。だが今は秦然忠のために祈ることしかできない。それならば信じてやることが一番だと判断したのだ。そう考えていると秦由莉がこちらに歩いてきて、
施訂再と江夢沁に深々と頭を下げて言った。
「夢沁さん、施訂再様、この度はお力添えいただきありがとうございました。愚弟を我が家へ連れ帰ることは叶いませんでしたが、それでもあなた方のお力添えがあったからこそ少しは良い方向へと進んでくれたのではないかと思います。本当に感謝しております」
「いえ、そんな……私たちは何もしてませんし……」
江夢沁が恐縮しながら言うと秦由莉は微笑みながら首を振った。そして再び施訂再の方に向き直ると、
「それから施訂再様、この度は弟の不始末に巻き込んでしまい大変申し訳ありませんでした。また何かありましたらご連絡させていただきますのでその時はどうかよろしくお願いいたします」
そう言って深々と頭を下げたのだった。それに対して施訂再はさわやかに微笑みながら秦由莉に告げる。
「由莉さん、私で良ければいつでもお力添えしますよ。どうかご自分を責めないでください、由莉さんの想いは秦然忠にもきっと届いているはずですから。それに、きっともう大丈夫でしょう。彼は少々短慮で粗野なところがありますが根は善良だと思います。今はまだ素直になれなくて意地を張ってしまっているかもしれませんが……そのうち自分の過ちに気づいて改心してくれるはずです」
施訂再はそう言って秦由莉を励ますのだった。
「施訂再様……ありがとうございます……。そう言っていただけるだけで、とても心強いです」
秦由莉は瞳に涙を浮かべながら感謝の言葉を伝えると施訂再の胸元に顔を埋めて泣き始めた。そんな彼女を施訂再は優しく抱きしめると、その背中を優しくぽんと叩いたりして落ち着かせようとするのだった。
秦由莉が落ち着いた頃合いを見計らってから施訂再は言った。
「さあ、今日はもう帰りましょう。そろそろ暗くなってくる頃合いですし、夜道は物騒ですから一緒に帰った方がいいですね」
「はい……何から何までご迷惑をおかけして申し訳ありません」
そう言って頭を下げる秦由莉を施訂再は宥めつつ三人で連れ立ってその場を後にしたのであった。江夢沁を龍登山荘へ送り届けた後、施訂再は自分が外泊している宿屋へと秦由莉と共に帰って行った。
「施訂再様……今日は弟の件で助けていただき、何から何まで本当にありがとうございました」
部屋の前で感謝の言葉を述べる秦由莉に対し施訂再は首を横に振ると困ったように笑いながら言った。
「いえいえ、お礼を言われるほどのことじゃありませんよ。私は由莉さんのお手伝いをしただけですから」
「ですが……もしも施訂再様が仲裁に入ってくださらなければあのまま決闘になっていたかもしれません。そうなったらどちらか一方が傷つくか……最悪の場合死人が出ていた可能性もあります。そうなっていたら……私はどうすればよいのか……」
秦由莉の声が微かに震える。その姿は大人びた女性と言うよりも、まるで怯える少女のようで……庇護欲を刺激されるような可愛らしい姿に施訂再はドキリとするものを感じた。思わず彼女に手を伸ばしそうになったがすんでのところで抑え込むと咳払いをしてから平静を装いながら秦由莉に尋ねた。
「確かにそうなっていたかもしれませんね……ところで、由莉さんはこの後どうされます?やはり御実家へ戻られるんですか?」
「ええ……一旦家に戻り、お父様やお母様に弟のことをお話しようと思っています。その後は……戻ってから考えようと思います」
そう言って伺うように視線を向けてくる秦由莉に施訂再は微笑むと快く了承した。
「そういうことであれば遠慮せず好きなだけ居てくださって結構ですよ。それに……由莉さんがここに居てくれれば私も安心できますしね」
「……え!?」
秦由莉は驚いた様子を見せたがすぐに嬉しそうに微笑んだ。その姿に施訂再は思わず見惚れてしまう。頬が熱くなるのを感じながら誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「えっと……それで、何か必要なものとかあれば買い出しに行ってきますけど……」
「いえ、特に必要なものはありません。……そうだ、よろしければご一緒にお食事しませんか?」
「えっ……よろしいんですか?」
思わず聞き返すと彼女はこくりと頷きながら言った。
「はい。今日のお礼と言っては何ですが……私と夕食をご一緒にしていただければ嬉しいのですが……いかがでしょうか……?」
少し恥ずかしそうな様子で提案してきた秦由莉に施訂再は一瞬面食らったがすぐに笑顔になって答えた。
「はい!喜んでご一緒させていただきます」
施訂再が快諾すると秦由莉は花が咲いたような笑顔を浮かべたのだった……。
その後二人は一緒に夕食を共にした。食事中、秦由莉は終始上機嫌で施訂再に話しかけてくる。そんな彼女の笑顔を見ているだけで自然と幸せな気分になれる気がした。そして食後……二人並んでお茶を飲んでいると不意に秦由莉が口を開いた。
「施訂再様……一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。どうされましたか?」
突然の問い掛けに戸惑いつつも聞き返すと秦由莉は少し躊躇った様子を見せたが……やがて意を決したように口を開いた。
「あの……施訂再様は夢沁さんとはどのようなご関係なのでしょう?お二人共、親しげにお話していらっしゃったので気になってしまって……」
「ああ、夢沁お嬢さんとは五年前に御父上の江才覚殿と知己を得てからの付き合いなんです。江才覚殿と出会ったのは旅先の酒場で飲み比べをしている時でした。そこで意気投合しましてね。それ以来彼が主催する懇親会によく参加するようになったんですよ。夢沁お嬢さんとも一緒に剣術の修練をしたり、料理を作ってくれるようになったりして……初めてあった時はまだ小さかったのに、立派に成長されたなぁと感じるようになりまして。まあ要するに兄妹のように仲のいい友人関係と言ったところでしょうか。別にこれといって洒落た関係じゃあありませんよ」
そう言って爽やかに答える施訂再に秦由莉は安堵したような表情を浮かべていたが……それも束の間のことだった。今度は心配そうな声音で尋ねてきたのである。
「本当にそれだけの関係なのですか?」
その言葉に施訂再は一瞬ドキリとするが、すぐに笑顔を作って答えた。
「勿論ですよ!私と夢沁お嬢さんはあくまでも友人同士という関係ですから」
しかし秦由莉は納得していない様子で疑るように視線を向けてくる。その瞳には不安の色が濃く表れており……まるで捨てられた子犬のような眼差しを向けてくるのだ。そしてその表情のまま問い掛けてきたのである。
「それなら……私が施訂再様と親しくなったとしても問題ありませんよね?」
その言葉に施訂再は目を見開いて驚いた後……苦笑いを浮かべた。どうやら本気で言っているわけではないだろうと思い、胸を撫で下ろす。しかし同時に冗談でもそんな質問をするということは多少なりとも気にしているのだろうと考えて慎重に言葉を選ぼうとしているうちに秦由莉の方から再び口を開いた。
「あの……もし宜しければこの後、施訂再様のお時間を頂戴することは可能でしょうか?その……実は折り入ってお願いしたいことがあるのですが……」
施訂再は少し考えた後……了承したのであった。
「わかりました。私も暇ですし付き合いましょう」
そう答えると秦由莉は嬉しそうに微笑んでから手元に置いてある盃を手にとって言った。
「施訂再様、こちらの器でお酒を飲みながら少しお話致しませんか?私の郷里ではこういう習慣がありまして……」
「酒席での儀式みたいなものですかね?面白いですね……是非ともご相伴に預かりたいです」
そう言うと秦由莉は微笑んで答えた後、施訂再の隣に腰掛ける。そしてお互いに赤い盃を持つと秦由莉が酒を注いでくれた。赤い盃に注がれた透明な液体の中に浮かぶ月明かりが幻想的に輝きを放つ光景に思わず見惚れてしまったが慌てて我に帰ると頭を振って気を取り直すことにした。そして二人揃って盃を傾け……喉越しの良い冷たい感触とともに香り高い液体が流れ込んできたかと思うと身体の中へと染み渡っていく感覚が心地良かった。その後再び盃を交わすと今度は互いに杯を干すのだった。そんなことを繰り返すこと数回……いつしか二人は打ち解け始めていた。そして徐々に酔いが回ってきたのか……秦由莉の瞳が蕩けるように潤み始めている。それを見た施訂再は内心焦っていたのだが……ここで引くわけにはいかなかった。なぜなら……今まで誰にも触れられることのなかったであろう、秦由莉の心の扉を開こうとしているのだから……。




