第三章
『今宵、龍登山荘に江湖龍昇剣の奥義書と宝剣・龍臨剣を頂戴に参上する。万が一抵抗するようであれば江夢沁お嬢様の命は保証できないのでご了承願いたい』
その手紙を読み終えた施訂再は絶句すると共に深いため息をついた。
(まさか……手紙の差出人は江の旦那の使者を名乗っていたあの男なのか?夢沁お嬢さんを人質にするだけでなく龍臨剣までも狙っているとなると、目的は江湖龍昇剣の奥義書と宝剣を奪うこと……か?それにしても何故……こんなことを……)
そう考えつつも施訂再はすぐに思考を切り替える。江才覚は沈痛な面持ちで眉間に深い皺を寄せながら頭を抱えていた。
「なんてことだ……よりによって一番最悪な事態になってしまった……」
江才覚の嘆きの声に武芸者たちは皆一様に暗い表情を浮かべる。
「この件について何かご存じなのでしょうか?江大人」
施訂再の問いかけに江才覚は俯きながら答えた。
「……実は江湖龍昇剣の奥義書は曰くつきの代物なのです。大昔からその奥義書を巡って血で血を洗う殺し合いが起きたとか、その奥義書を得た者が荒河で名声を得られると言われておりまして……江湖龍昇剣の奥義書が世に出ると荒河と静湖の均衡が崩れてしまうと言われておりました。故に我が高祖父が師から奥義書を譲られてからここ、
龍登山荘に厳重に封印をして一子相伝の剣法として代々受け継がれてきたのです」
彼の話を聞いているうちに施訂再はある推測を立て始めていた。江才覚の言葉を信じるのであれば江湖龍昇剣の奥義書が外部に流出することは本来ならばあってはならないものであり、もしもその奥義書が奪われるとなると荒河と静湖との関係性に大きな亀裂が走る可能性がある。さらに奥義書を得た者が荒河で猛威を振るうことになれば、荒河全体を巻き込んだ抗争が勃発してしまうかもしれない……。
(だが……もし本当にそんな大事になれば夢沁お嬢さんの身柄が危険に晒される。なんとしても止めなければ……)
そう考えるも施訂再はどうすればいいのか判断がつかない。そこで江才覚に提案することにした。
「江大人……もうこの際ですから夢沁お嬢さんが仮病だということを明かしてしまいましょう。
そうすれば今晩起こりうる騒動を最小限に食い止めることができるかもしれません」
江才覚は少し驚いたような顔をして言った。
「気づいておいででしたか、施訂再殿……し、しかし……それだと夢沁の誇りを傷つけることになりませぬか?父親として娘の心に傷つけるわけにはいきませぬ……」
「ご息女の誇りを守ろうとする気持ちはよくわかります。でも今の状況を考えると……夢沁お嬢さんの身の安全を第一に考えるべきではありませんか?それに今晩中に事を起こさなければ夢沁お嬢さん自身が
危険に晒されることになりますよ」
その言葉を聞いて江才覚は何か一計を思いついたのか首を横に振った。
「いや……ここはあえて敵の目を欺くため、夢沁には病に臥せっているふりを続けさせます。そうすれば敵は油断して隙を生みやすくなりましょう。そこで私が敵を迎え撃とうと……」
江才覚の言葉に施訂再は怪訝そうな眼差しを向ける。
「江大人御自ら危険を冒す必要があるとは思いませんが……」
「いや……私自身が行かなければならない理由があるのですよ。そもそも江湖龍昇剣の奥義書の所在を知っている者は私を含めて数えるほどしか存在しないですからな……」
江才覚と施訂再が互いに小声で話していると、周囲の武芸者たちは一体何事かとざわめき始めた。施訂再は咄嵯にごまかそうとする。
「皆さん!ちょっとした問題が起きただけです。江大人が対処してくれますので安心してください」
武芸者たちはまだ不安げにしていたが彼の言葉を聞いて一旦は落ち着きを取り戻したようだった。彼らは口々に「そうか」と安堵の表情を浮かべる中でただ一人だけこちらを見つめている人物がいた。その人物は長剣を背負った年配の男性で群青色の上着を羽織り、灰色の袴を履いている。髪は白髪混じりの長髪に顔に刻まれた皺や顎に蓄えた髭からは老齢を感じさせるが、その眼光は鋭く獲物を狙う鷹のような印象を与える人物であった。彼は厳しい視線で施訂再と江才覚の方を見ていたのだった。
(ん……?あの人の眼光……ただものじゃないぞ)
施訂再の直感がそう告げている。するとその男はすぐに柔和な笑顔を浮かべると口を開いた。
「お主が施訂再殿か?これはまた珍しい方がいるものですな。まさかこんなところでお会いできようとは……」
年配の男性はそう言うとニコニコしながら二人の元へ歩み寄ってくる。その態度からは友好的な雰囲気が漂っていたものの彼の全身から放たれる威圧感は凄まじくとても一介の武芸者のものではないことが分かる程であった。
「あっ……あの、どちら様でしょうか……?」
初対面の相手に不躾ではないか、と思うより先に口を開いてしまった施訂再だったが江才覚がにこやかに応対した。
「これは淵兄者。遠路はるばるご足労いただき、まことに感謝致します」
「うむ、賢弟よ。此度は夢沁が病に臥せっておると聞いたのでな。儂も様子を見に来たのだが……」
江才覚の言葉にその男は大きく頷きながら答えた。さらに江才覚は言葉を続ける。
「兄者。ご心配には及びません。施訂再殿が夢沁を見舞ってくださりましてね……きっと、元気になってくれるでしょう」
江才覚の言葉を聞くと彼は安心したように微笑んだ。
「おお、そうか。それは何よりじゃな……善哉、善哉」
二人の会話を聞いていた施訂再が年配の男性について江才覚に聞くと彼は上機嫌で紹介してくれた。
「施訂再殿は淵兄者とお会いするのは初めてでしたな、こちらは回天山に居を構える門派『剣狼回天門』の重鎮、天狼八剣士の一人であらせられる薛淵元殿です」
「最近は賢弟の懇親会に出席できていなかったので、施訂再殿のようなお若い方が懇親会に呼ばれるようになったことはそれだけ荒河に有望な新しい世代が現れている証拠ともいえよう。
なんせ賢弟の料理を味わえるのは天下に十人いるかどうかじゃからな……いやぁ誇らしい限りじゃよ」
「薛老師……お会いすることができて大変光栄です。お初にお目にかかります。施訂再と申します」
施訂再は丁寧な口調で挨拶をすると拱手し礼をする。薛淵元という老年の武人に対して敬意を示すつもりで行ったのだが彼は首を横に振った。
「よいよい。儂のことは淵爺さんとでも呼んでくだされ。賢弟の知己でしかも夢沁の婿候補の若者ならば、もう家族みたいなもんじゃからな」
薛淵元は呵々大笑しながら快活に語る。だが、それを狸寝入りをしながら聞いている江夢沁は心中穏やかではなかった。
(ちょっと!なんでよりにもよって施訂再の奴が私の婿候補なのよ!!薛の伯父様はあの馬鹿男を買いかぶりすぎよ!!!)
そう怒鳴りたい衝動に駆られてしまう江夢沁だったが、ここで寝台から起き上がって怒鳴り散らしてしまっては仮病であることがバレてしまうため、歯を食いしばりながらじっと耐えるほかなかった。
「いえ、さすがにお会いしたばかりのご年配の方に馴れ馴れしい態度で応対するわけにはいきませんので、どうか薛老師と呼ばせていただくことをご容赦ください」
一方の施訂再は薛淵元に対して最大限の敬意を示していた。本来、施訂再は江夢沁のような親しい間柄の友人には歯に衣を着せぬ言葉で接する人物だが、相手が高齢の人物でしかも一門派の重鎮ともなれば話が変わる。年配の人に対して慇懃無礼な態度をとってしまうわけにはいかないという、良識はきちんと持ち合わせているのである。
「うむ、宜しい。お主のような若者が荒河で活躍してくれることを期待しておるぞ」
薛淵元は満足そうに頷いた。
「薛老師のお心遣いに感謝致します。でも、私のような若輩が夢沁お嬢さんの婿候補というのは買いかぶりですよ。私は所詮一介の剣士に過ぎませんから……」
施訂再は謙遜して言うが本音であった。事実として彼には妻帯する予定もなく天涯孤独の身である以上、嫁を迎えるつもりはないのである。薛淵元は施訂再の言葉に苦笑しながら言った。
「ほほう……お主は謙虚な若者じゃな。まあそのことについては追々話すこととしよう」
そう言って施訂再に微笑みかける薛淵元の瞳には温かい光が宿っていた。施訂再は薛淵元の寛大な態度を見て感謝するばかりである。そうして二人の会話が一段落すると今度は江才覚が両手を叩きながら江夢沁の私室に集まった武芸者たちに呼びかけた。
「お集まりくださった皆様!本日は娘のためにご足労いただき誠にありがとうございます。残念ながら娘の病はすぐには完治致しませぬ故、この場はこれでお開きにさせていただきます」
「そうですな……」
「夢沁嬢の体調も優れないようですし……」
「ここは潔く引き下がると致そう」
集まった武芸者たちは一様に納得すると言葉を返す。彼らの多くは目上の武芸者たちの同伴者であり、
江才覚とは少なからず面識がある。そのため彼の判断に素直に従ったのであった。
「皆様お気遣いのほど感謝いたします。しかし、せっかくご足労いただいたのに無碍にお帰りいただくというのも申し訳ありませぬ。そこで今日は我が家にて宴席をご用意しておりますので是非とも皆様ご参加ください。そして施訂再殿、貴方にもぜひご出席いただきたいと思っております」
そう言うと江才覚は施訂再を誘ってきた。彼としては龍登山荘の主である江才覚からの誘いを断る理由がないため喜んで承諾する。一方で江夢沁は布団の中で悔しさと羞恥に打ち震えていた。
(こん畜生!施訂再の大馬鹿野郎!!もう少しであいつをとっちめてやれたのに、余計な邪魔が入ったせいでそれもできなくなってしまったじゃない!それに、こんなの私に対する挑戦としか思えないわ……!こうなったらなんとしてもアイツへの雪辱を晴らしてやるしかないわね!)
そう意気込む江夢沁だったが、自分が施訂再に手玉に取られているという自覚があるのか、無いのか本人にはわからないのだった。さらにずっと狸寝入りしていたので龍登山荘に届いた脅迫状についてもまったく知らない上に、何故か自分自身が命を狙われていることについても知らない有様である。ほぼ蚊帳の外と言っても良い状態であるにもかかわらず強気な態度を崩さない彼女もなかなか剛毅な性格をしていると言えるのだが……こうして江夢沁の部屋での一悶着があった後、施訂再と江才覚は宴会の準備のために別室へと移っていった。別室へと移動した後、江才覚は使用人たちに宴席の準備をさせるために指示を飛ばす。龍登山荘では今まで小規模な宴席を催してきたが、百人近い大人数の客を招いての宴席を行うのは今回が初めてであるため手順が分からず混乱しているようだった。江才覚は使用人たちに指示を出してから施訂再に声をかける。
「申し訳ございませぬ施訂再殿……本日は娘のわがままに付き合っていただいたうえに、脅迫状まで届いてしまい……」
「いえ、お気になさらず。私も夢沁お嬢さんとは仲良くさせていただいてますし、いつもご馳走になっておりますから」
江才覚の謝罪の言葉に対して施訂再は笑顔で応じた。だが内心では彼の心中は決して穏やかなものではなかったのである。何故なら彼は脅迫状が届いたのには何らかの裏があることを確信していたからである。
(薛老師がこの場に現れたのも偶然とは思えない……きっとこの宴席で何かが起こるはずだ)
そう考えたからこそ、彼はあえて江夢沁の私室で行われた話し合いの内容を全て把握しておくことにしたのだ。そうすることで何かあった時に迅速に対応できるようにしておくためである。
(しかし……何故今日になって突然脅迫状が届いたんだろうか。脅迫状を出した犯人が龍登山荘の内情をある程度知っている人物だとすると……)
施訂再がそう考えた時だった。彼はふとあることに気が付いた。
「そういえば江大人……薛老師のことでひとつ聞きたいことがあるんですが……」
施訂再がそう口にすると江才覚は僅かに顔色を変えたがすぐに平静を取り戻し質問を促す。
「何でございましょうか?」
「薛老師が剣狼回天門の重鎮って仰ってましたよね。剣狼回天門といえば天下に轟く名門正派。それなのにどうして江大人や夢沁お嬢さんと交友があるんですか?」
「ああ……それはですね……」
江才覚は少し逡巡すると口を開いた。
「実は私の高祖父は回天山の麓にある小さな町の出身でして……幼少の頃より祖父の実家に遊びに行く度に祖父や父から江湖龍昇剣の稽古をつけてもらっていたのですが、暇を見て剣狼回天門の門弟の方々と交流することも多かったのです。その時に知り合ったのが薛淵元殿でしてな。年齢は私よりも上でしたがよく遊びにも連れて行ってくれて、祖父や父が急逝して江家商会の当主になった時も何かと助けていただきました。ですから私にとって頼れる兄のような存在なのですよ」
「なるほど……そういうことだったんですね」
施訂再は納得したように頷く。だが彼には依然として腑に落ちないことがあった。それは江才覚の使者を名乗っていたあの中年の男であった。
(それにしても妙なのは江の旦那の使者を名乗り、姿を消したあの男だ。一体何処に消えたんだ?)
江才覚の使者を名乗って龍登山荘まで自分を呼び出したあの男は何者なのか?差出人不明の脅迫状を送ってきたのも彼なのだろうか?施訂再の頭の中で疑問が渦巻く。だが今は考えても答えが出ないため彼は一旦考えるのをやめた。それからしばらく経った頃、使用人によって宴席の準備が整ったと連絡があり彼は江才覚と共に宴席へと向かうことにしたのであった。
宴会場となった大広間に入ると既に多くの客人たちが集まっており和やかな空気に包まれていた。その中央では薛淵元が豪快に笑いながら酒を飲んでいる。彼の周りにはたくさんの客人が集まっており皆楽しそうに談笑していた。そして彼は江才覚の姿を見つけると、手招きする。
「ほれ、賢弟よ。久しぶりに来たのだぞ、早く儂の隣へと来い!」
薛淵元の隣に座った江才覚は少し照れたようにはにかんだ。
「兄者……あまり飲みすぎてはお身体に毒ですよ」
「何を言っておるか……儂から見ればお主などまだまだ青二才よ!儂が回天山で修業していた時のことを覚えておるだろう。お主ときたら毎日のように我が門派を訪れては町中の子供たちを集めて剣の稽古をしたりしておったではないか」
「あれは兄者と一緒になって遊んでいただけで……」
「全く……口だけは達者になったものよ。だが、お主が儂に稽古をつけてくれとせがみに来た時は嬉しかったぞ。あの小さかった賢弟が今や天下の江家商会を背負って立つ当主なのだからなぁ」
「兄者は大袈裟ですよ……私はただ父や祖父から受け継いだものを後世に残したいだけなんですから」
「そう謙遜するでない。お主は立派にやっておるよ。この龍登山荘をここまで大きくしたのは紛れもなく賢弟の力によるものじゃからな」
「いえ……私などまだまだ未熟です。それに兄者は剣狼回天門の門弟の方々から尊敬を集めておいでではないですか。私の剣法を伝授できたのは娘の夢沁だけですから大勢の御弟子様がおられる兄者が羨ましいですよ」
「ハッハッハ!そう言われると悪い気はせんな!だがな賢弟よ。儂も決して楽な道を通ってきたわけではないぞ?お主も知っておろう、我が剣狼回天門の門弟は誰もが強い信念を持って修行に励んでおる。彼らの支えがあってこそ儂はここまでやってこれたのだからな。そうして皆が力を合わせて今の剣狼回天門を築き上げてきたわけじゃ」
「そうでしたな。兄者が常に先頭に立ち導いてくださるからこそ剣狼回天門は発展していったのでしょう」
二人は顔を見合わせて笑った後で盃を片手に乾杯をする。二人のやり取りを聞きながら施訂再は感嘆する他なかった。普段はひかえめで紳士的な態度を見せている江才覚が実に屈託なく笑っている姿を見るのは初めてだったからだ。一方の薛淵元も江才覚に向ける眼差しは親愛に満ち溢れており、かつて兄弟同然に育った間柄であったことが伺えた。そこへ三人の男性が手に料理の盛り付けられた皿を持ちながら現れて薛淵元と江才覚の前に跪いて言った。
「師父、酒の肴に合う料理を持って参りました。蒸し鶏に叉焼とガチョウの燻製をどうぞお召し上がりください。江大人、本日は我々のような末端の門弟まで宴席にお呼びいただきましてまことにありがとうございます」
彼らは剣狼回天門の門弟で三人共揃いの武道着を身にまとっていたので一目で薛淵元の弟子たちだとわかった。薛淵元は笑顔で彼らを迎え入れる。
「おお、気が利くのう。ありがたくいただくとしよう。賢弟、この者たちはわしの弟子たちで背の高いのが朱定越、老けて見えるのが鉄当景、真面目そうなのが鐘満じゃ。三人共わしが手塩にかけて鍛え上げた手練揃いじゃ。賢弟にも紹介しておこう」
薛淵元の紹介を受けて三人はそれぞれ自己紹介を行う。最初に声をかけてきた青年は背丈は高く体格もがっしりとしており精悍な顔つきの持ち主だった。次に挨拶してきた青年は巨漢で筋肉隆々の体型をしている反面、どこか温和な雰囲気を持っている人物だった。最後に自己紹介した青年もやはり屈強な肉体をしていたが他の二人とは異なり、痩せ型の体型に物静かで聡明そうな顔つきをしている。
(この人達が剣狼回天門の門弟か……さすがに強い覇気を纏っている。俺でも勝てるかどうかわからないくらい強いだろうな……)
施訂再は一目見るだけで剣狼回天門の門弟たちが尋常ではない実力の持ち主であると察知することができた。特に薛淵元の左右に控える朱定越、鉄当景はまるで歴戦の猛者を思わせる風格を漂わせており、並の武芸者ではないことが容易に想像できるのであった。薛淵元は三人を見回すと彼らに言う。
「さてお前たちよ。儂はこれから江賢弟と旧交を温める故、お前たちも大いに飲み食いせよ」
「はい!お言葉に甘えて、そうさせていただきたいと存じます」
朱定越が代表して返事をすると三人は深く頭を下げて退出していった。三人の姿が見えなくなると今度は二人の男性が顔を覗かせた。一人は帽子を頭にかぶり、赤い着物を身にまといながら大きな筆を腰に下げている。もう一人の男性は黄色い着物の上に黒色の外套を羽織りながら腰には鞘に収まった剣を佩いており、凛とした雰囲気を醸し出していた。二人は江才覚を見て恭しく礼をする。
「失礼致します。我らは粹虚山にて武芸を学ぶ者にございます……貧道は劉天達と申します。こちらの者は我が弟弟子、趙担修。以後お見知り置きください」
そう挨拶すると劉天達と名乗った男は頭を垂れた。
(この人たちが粹虚山の天修双道か)
施訂再は二人の顔を見つめながら思う。粹虚山といえば大陸南部に位置する山岳地帯に存在するという
道教寺院『虚心宮』の聖地である。粹虚山は古くより修行の場として有名であり虚心宮の道士たちの中には優れた武芸に精通している者も少なくないという。その中でも劉天達と趙担修は特に優秀な人物であり、二人の通り名である『天修双道』は荒河では知らぬ者がいないほど有名な道士たちなのであった。
「これはこれは……お初にお目にかかります。江才覚と申します。御二人のご高名はかねてより耳にしております」
江才覚は二人に拱手しながら丁寧に挨拶を返す。
「そんな……恐れ多いことです。荒河におかれましては江湖龍昇剣は名高い剣法とされており、
あなた様を知らぬ者はおりませぬ。我らは一介の道士に過ぎず江大人の足元にも及びません……」
劉天達はそう謙遜しながら首を横に振る。そしてそのまま続ける。
「しかし今日は我々のような者まで宴席にお招きいただきありがとうございました。本来であれば我々はこのような場にはふさわしくないのですが……」
「いえいえ……お気遣い感謝いたします。それに御二人は夢沁の見舞いに来てくださったではありませんか。あなた方のような尊い方々に来ていただけただけで光栄の至りでございます」
江才覚は心底嬉しそうに微笑む。すると劉天達は安堵した表情を見せた後で言った。
「ではありがたく御厚意に甘えることに致しましょう。弟弟子ともどもよろしくお願いします」
そして趙担修と共に去っていくのだった。彼らの後ろ姿を見送った後で施訂再は江才覚に尋ねる。
「それにしても……まさか粹虚山の天修双道まで来られているとは意外でしたね」
「ええ……私もここまで大事になってしまうとは思わなかったもので……」
江才覚は苦笑しながら内心冷や汗をかいていた。娘の雪辱戦のために施訂再を龍登山荘に呼び寄せて果たし合いをさせようと彼女が仮病を使ったものの、まさか虚心宮の高弟『天修双道』まで見舞いにやってくるとは夢にも思わなかったのだ。
(これは……本当に厄介なことになったぞ。よもや、ここまで大事になってしまうとは思わなんだ……)
彼の表情からは明らかに焦燥の色が見て取れた。本来なら自分の娘が仮病を使ってまで行う悪ふざけの結果であるが、ここまで来てしまった以上最早後戻りはできないだろう。そう悟ると同時にこの状況をどうやって収拾すべきか悩み始めたのであった。そんな時だった……突如として大広間に大声が響き渡る。
「これは、これは……荒河の英雄豪傑が一堂に会することになろうとは、夢にも思わなかったぞ!これは何かの祭りか?」
突然聞こえてきた声のする方を全員が見やるとそこには白装束を身にまとった銀髪の青年が拍手しながら立っていた。腰の帯に白銀の長剣を差していて全身から放つ闘気は凄まじいものだった。青年の右手には三匹の蛇が巻き付いているような腕輪を身に着けていて、神経質そうな表情には冷ややかな笑みを浮かべており目には鋭い眼光を宿らせている。その眼光は鋭利な刃物を思わせる鋭さを持ち、見る者を怯えさせる威圧感を放っていた。青年が持つ長剣と三匹の蛇の腕輪は青年の放つ覇気の影響を受け妖気のような禍々しい気を纏っていて周囲の人間は息苦しさを感じるほどである。青年の風貌に一同は緊張感を抱いてしまう。だが施訂再は平然とした様子で言った。
「秦然忠!霊峰白蛇山の変人が何の要件でここへ来た?」
「ふん……用件だと?貴様には分かっているだろう」
秦然忠と呼ばれた青年は不敵に微笑みながら答える。
「私の未来の妻、江夢沁が病に倒れたという噂を耳にしたのでこうして見舞いに来たまでだ。彼女が病に臥せっているのをいいことに辱めようとする不定の輩も成敗できれば好都合なのだがな」
秦然忠は辺りを見渡しながら言った。その視線と口調にはどこか嘲りのようなものが含まれており、それが周囲の武芸者達の神経を逆撫でする。特に施訂再の顔には明らかな怒気が見て取れ、剣呑な雰囲気が漂い始めた。
「生憎だったな。ここにはお前が言うような不定の輩などいるわけないだろう、お前の方こそ夢沁お嬢さんに無理やり結婚を迫ってふられたのを諦めずに来るなんて……恥を知ったらどうだ?」
施訂再の辛辣な言葉に秦然忠の顔からにやけた薄ら笑いが消えた。代わりに憤怒の形相を浮かべて叫ぶ。
「なんだと貴様!私に向かってよくもそんな口を利けたものだ!私と夢沁の愛の絆の深さを知らない癖に図に乗るなよ?」
秦然忠は長剣の柄に手をかけ施訂再に向けて構える。それを受けて施訂再も剣の柄を握り構えを取る。
一触即発の状況に陥り宴会場は緊迫した空気に包まれた。
秦然忠。彼は大陸の北方にあるという霊峰白蛇山に居を構える武術の名門『大秦覇蛇館』の現当主である秦等顧の嫡男で優れた剣術の遣い手であるために次期当主として期待を寄せられているが、性格は傲慢かつ横暴で口が悪く常に他人を見下した態度をとるために問題児扱いされている。江夢沁に以前から求婚していたが袖にされ続けており、彼女から嫌われていることを無視しながら諦めきれずにこうして訪ねてきてしまうあたりに彼の歪んだ性根が現れていた。
(あーあ……こいつ、まぁだ夢沁お嬢さんのことを諦めてなかったのかよ。
いくら何でも節操がなさすぎだろう……)
施訂再は心の中で悪態をつく。そう、あれは確か一年半ほど前のことだった………。
作中の用語解説
※賢弟…年下の男性に対する敬称。
※道士…中国土着の宗教、道教の修行者。
※貧道…「道を求めて修行をする貧しい身の者」という意味で、自分自身を謙遜して指す
一人称。




