終章
こうして、江湖龍昇剣の奥義書を巡る戦いは幕を閉じた。だが、今回の一件で剣狼回天門の天狼八剣士の一人である薛淵元が江湖龍昇剣の奥義書を求めて暗躍していたこと、そして剣狼回天門と荒河各派における江湖龍昇剣の奥義書に対する危惧や脅威の認識に大きな隔たりがあるという事実を知った施訂再、江夢沁、江才覚は今後の荒河の行く末について考えを巡らすのであった。秀斗町にて龍登山荘の主、江才覚が江湖龍昇剣の奥義書の破棄を公表した五日後……施訂再は龍登山荘で怪我の療養をしていた。薛淵元との戦いで左肩を長剣で貫かれたうえにあばら骨も数本骨折していたので、暫く安静にする必要があったからだ。
「施訂再様、調子はいかがですか?」
「小蓮ちゃん、だいぶ良くなってきたよ。まだ完治には時間が必要だけどね……」
江夢沁と一緒に施訂再の看病をしているのは方虚空こと小蓮だ。彼女は普段は龍登山荘の使用人の仕事をしつつも、江家の客人である施訂再の怪我の具合を気にかけていた。ちなみに彼女は怪盗である自身の正体を明かした後も江家の使用人として働き続けることに決めたのである。
「小蓮ちゃん、毎日付き添いしてもらって悪いね。休む暇はあるのかい?」
「大丈夫ですよ。命の恩人である施訂再様の身の回りのお世話も私の役目ですから、
気遣いは要りません♪」
小蓮は明るい笑顔で答える。彼女が言うには十二代目・方虚空の名を受け継いで以来、ずっと様々な武術家や富商といった相手の元へ潜入し続けてきたとのこと。そのため彼女は人との接し方も心得ていたので、施訂再の看病も慣れたものであった。
「小蓮ちゃんはすごいね。俺がもし君と同じ立場なら、こんなに上手くはできないかもしれないよ」
「私が特別なわけではありません。それに旦那様に使用人として雇っていただけなかったら、きっと今頃、私はどこかで野垂れ死んでいたでしょうね」
「そうか。小蓮ちゃんが方虚空の正体だって聞いた時は驚いたけど、君は謙虚で義理堅いんだな」
「うふふ、お上手ですね。施訂再様って褒め上手でいらっしゃいます♡」
施訂再の言葉に小蓮は嬉しそうに微笑みを浮かべる。すると、そこに江夢沁が姿を現した。
「夢沁お嬢さん、おはよう」
「おはよう、訂再。今日も元気そうでよかったわ。あと小蓮、あなたいつの間に起きていたのよ?」
「先程目が覚めましたよ~お嬢様」
「彼の部屋に入る前に着替えくらいしたらどうなの?」
江夢沁はジト目で小蓮を睨み付ける。彼女は寝間着姿で、艶やかな長い黒髪が無造作に垂れ下がってい る。
「大丈夫です、施訂再様は紳士ですから……ねぇ?」
「え、あ……ああ……そうだな……」
施訂再は困惑気味に返事をするが寝間着姿の小蓮に若干ドキッとする。彼女は小柄ながらもその美貌と洗練された体つきは、年齢を感じさせない永遠の少女のような若々しさを持っていたのだ。
「フフッ、施訂再様は優しくて面白い御方ですね。お嬢様が貴方様に夢中になるのが分かった気がします」
「ちょっと、小蓮!何を言ってるのよ!」
「だってお嬢様は施訂再様の事がお好きなのでしょう?それも、恋愛対象として♡」
小蓮は目配せしながら、江夢沁に問い掛ける。それを聞いた施訂再は耳まで真っ赤になった。
「な、何を言っているんだ小蓮ちゃん!俺なんかが夢沁お嬢さんに相応しいわけないだろ!」
「小蓮……貴女って本当に配慮の欠片もないわね!」
江夢沁まで顔を赤く染め、ぷるぷると身体を震わせながら小蓮を睨み付ける。だが当人は気にも留めずにニヤニヤとした笑顔を浮かべていた。
「まあまあ、そう怒らないでくださいませ、お嬢様。それで、施訂再様はお嬢様のことをどう思われているんです?」
「えぇっ!?いや、小蓮ちゃん、いきなりそんなこと言われてもだな……夢沁お嬢さんにはもっとふさわしい相手がいるんじゃないかな〜って思うんだが、例えば……そう!どこかの御曹司みたいにさ……」
施訂再はしどろもどろになりながら、江夢沁を避けようとするが、彼女はそれを許さなかった。
「誤魔化さないで答えてちょうだい、訂再!」
江夢沁は頬を膨らませてぷんぷんと怒り出す。
「あー、その……俺は……俺は……夢沁お嬢さんのこと……」
施訂再はしどろもどろになりながら必死に考える。
「ああん、もうじれった〜い!施訂再様ったら仕方ないですねぇ……」
そんな状況を見るに見かねたのか小蓮は施訂再にそっと顔を近づけると、両手で彼の頬を挟んでおもむろに唇を重ねるのだった。施訂再は突然の出来事に思考停止し、しばし放心状態に陥ってしまう。江夢沁は小蓮の暴挙に対して口をぽかんと開けたまま呆然としていた。
「施訂再様、私、貴方様に命を救っていただいた時から……ううん、十二代目・方虚空として正体を明かす前からずっとお慕いしておりました……!お嬢様と添い遂げたくないのであれば、
私と結ばれましょう♡」
小蓮は頬を紅潮させながら熱っぽい眼差しで施訂再を見つめる。一方、江夢沁は我に帰ると小蓮に掴みかかり、両手で彼女の胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「小蓮!貴女、いったいどういうつもりなの!?」
「え〜?お嬢様、私はただ正直に好意を伝えただけですよ〜」
「だからって、いきなり訂再に接吻するのはおかしいじゃない!」
「お嬢様だって、施訂再様といつも一緒になって仲良くされてるじゃないですかぁ。だったら別におかしくないでしょ〜?」
小蓮は悪戯っぽく微笑むと舌をペロッと出して見せる。その態度に江夢沁は激昂し、額に青筋を立てて彼女を怒鳴りつけた。
「お嬢様はお慕いしている男性に対して積極的に訴えない性格のようですので、少しばかりお節介を
焼こうかと……」
「……小蓮、今からお仕置き決定ね」
江夢沁はゴゴゴ、という効果音が出そうな勢いで拳を震わせるが小蓮は平然としている。そして施訂再は自分が少女二人の取り合いになっている状況に戸惑いを隠せない。
「あのう……夢沁お嬢さん?俺って実は意外とモテる男なのかもしれな……あっ、痛い痛い痛い!!?」
「訂再は黙ってなさい!」
「いだだだだっ!ごめんなさい!」
施訂再は江夢沁に頭を両手で思い切り握られ、ミシミシと音を立てている。彼の苦悶の声と小蓮の楽しげな笑い声が室内に響き渡る中、部屋の外からその光景を見ていた江才覚は思わず笑みを浮かべていた。爽やかな秋の風が吹く九月の朝、龍登山の上に広がる青い空はどこまでも澄み渡り、雲ひとつない快晴の日を迎えた……。




