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第十一章

「そっ……そんな馬鹿な!?」


朱定越(しゅていえつ)だけでなく、鉄当景(てつとうけい)鐘満(しょうまん)も同時に叫んでいた。突然起きた不可解な出来事に三人の門弟(もんてい)たちは唖然(あぜん)とするばかりだ。それは江才覚(こうさいかく)江夢沁(こうむしん)施訂再(していさい)も同様だった。


「どうして……江湖龍(こうこりゅう)昇剣(しょうけん)奥義書(おうぎしょ)が……!?」


「奥義書はどこに……?」


「これはいったい……?」


三者は困惑しながらも辺りを見回す。するとその場に居た全員が突如、上空を(あお)ぎ見た。


「まさか……?そんな……!」


「そんな……あり得ない……!」


朱定越、鉄当景、鐘満は驚愕のあまり口を開きっぱなしになっている。彼らの目に映ったのは猿轡(さるぐつわ)()まされ、縛られていたはずの小蓮(しょうれん)であった。彼女は三人の頭上の木の枝の上に悠然と立っていたのだ。その口元には猿轡などなく、身体を縛っていた縄も消えていた。小蓮は微笑(ほほえ)みながら右手に江湖龍昇剣の奥義書を手にしている。


「なっ……何故じゃ!?小娘……いったいどうしたと言うのじゃ!?それに奥義書をどうやって……?」


薛淵元(せつえんげん)焦燥(しょうそう)に駆られながら、小蓮に向かって問いかける。しかし

彼女は優雅な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと口を開いた。


「奥義書を欲したのは(せつ)のお爺さんだけでは無いみたいですね、私もこの奥義書は是非手に入れたいと思

いまして……薛のお爺さんが施訂再様(していさいさま)やお嬢様たちと戦い始めた隙に猿轡と縄を解いて逃げ出したんですよ」


「おのれ……(たばか)ったな!小娘が……」


「まあ、そんな怖い顔をしないでください。私はただこの奥義書を欲しかっただけですから……」


小蓮は微笑みながら言うと、奥義書を胸に抱いた。江才覚は彼女が持つ奥義書を見た瞬間、反射的に声を張り上げていた。


「小蓮、それは危険な物なんだ!どうかこちらに渡してくれ……」


「嫌です」


「何故じゃ?貴様に何の得があるというのじゃ!?」


江才覚の懇願に対して小蓮はあっさりと拒絶すると彼女が着込んでいた使用人の制服を脱ぎ捨てる。すると彼女の肢体を包んでいたのは盗賊(とうぞく)が着るような黒装束(くろしょうぞく)の衣装だった。そして小蓮はにっこりと笑いながら薛淵元の問いに答えた。


「得って……そんなの決まってるじゃないですか。お金になるからですよ」


「なん……だと?」


小蓮の予想外の回答に江才覚は目を見開いたまま硬直する。一方の小蓮は笑顔を崩すことなく言葉を続けた。


「そうですよね、奥義書に記されているのは江湖龍昇剣の奥義……これを売れば大儲け間違い無しです。それに私、金銭の為に行動するのが好きなので……」


「小蓮ッ、待ちなさい!!」


江才覚は小蓮に詰め寄ろうとするが、その前に薛淵元が彼を制止する。そして再び彼女の方へ目を向けると、険しい表情で睨みつけた。


小娘(こむすめ)が……盗賊の分際で儂に盾突こうというのか……?儂は荒河一(こうがいち)名門正派(めいもんせいは)剣狼回天門(けんろうかいてんもん)天狼八剣士(てんろうはちけんし)の一人じゃぞ!?身の程を知るがよいわ……!」


「あれぇ?薛のお爺さんの本性が出ちゃいましたねぇ。それが本当のお姿なんですか?そうやって傲慢(ごうまん)な態度で人に接していたんでしょうか?」


小蓮はニヤニヤと楽しげに微笑む。薛淵元は怒りに身を任せるように、彼女に飛び掛かろうとした瞬間、彼女は薛淵元に奥義書を投げ付けた。


「それは……!?」


「あっ……これ、間違(まちが)えました~。私が欲しかったのはこれじゃないです。本当に欲しいのは別の物なので~」


そう言って小蓮は木の上から飛び降りると、施訂再と江夢沁の前に着地する。その風の中を舞い踊るような仕草に施訂再は見覚えがあった。


「小蓮ちゃん、君の身のこなしはどこかで……?」


「嫌ですねぇ、施訂再様……いくら本当の姿でお会いしたからって、私のことを忘れてしまうだなんて悲しいです……」


小蓮の言葉に驚愕する施訂再と江夢沁。小蓮は彼らの反応を見ながら言葉を続ける。


龍登山荘(りゅうとうさんそう)の使用人の小蓮は世を忍ぶ仮の姿……その実体は化姿空蝉(かしくうせん)方虚空(ほうこくう)……なんです♪」


小蓮は悪戯(いたずら)っぽく微笑みながら舌を出しつつおどけた姿勢で自己紹介すると、くるっと一回転した後に二人に目配(めくば)せして見せた。


「え……化姿空蝉の、方虚空って……」

「小蓮……嘘、よね?」


施訂再と江夢沁は驚愕に目を見開いて口を開けたまま立ち尽くしてしまう。化姿空蝉の方虚空……変幻自在(へんげんじざい)神出鬼没(しんしゅつきぼつ)な盗賊であり、年齢や背格好は勿論、性別すらも変えることができるとも言われており、化姿空蝉という異名は(せみ)が成虫になる際に抜け殻を残すかの如く全く別の姿に変身してしまうという能力に(ちな)んでいるという。方虚空に関する噂は百年、いや……二、三百年は(さかのぼ)ると言われているがその正体を知る者は誰もいない。その伝説の盗賊の正体が龍登山荘でずっと働いていた使用人の少女に擬態(ぎたい)していたなど想像できる訳がない。小蓮は可笑(おか)しそうにくすくすと笑うと二人に向かって答える。


「そう、嘘だったら良かったんですけどね~。私が化姿空蝉の方虚空ですよ」


「本当に方虚空なのか……?」


「そうですよ。でも、龍登山荘では使用人の皆様の御世話になりましたので、どうか内緒にしてもらえると助かるなぁって思います」


小蓮……(いな)、方虚空はぺこりと頭を下げて挨拶すると再び二人に向き直った。江才覚もその話は信じ(がた)いのか、眉間に深い(しわ)を寄せて額に汗を浮かべながら方虚空を見つめる。


「小蓮……いや、方虚空殿(ほうこくうどの)……どうしてあなたほどの御方(おかた)が我が家の使用人として働いていたのです?」


「答えは簡単。江湖龍昇剣の奥義書と旦那様(だんなさま)の家系について興味があったからです、私って()(しょう)なので気になることがあるとつい調べたくなっちゃうんですよ~」


方虚空は茶目(ちゃめ)()たっぷりな表情を浮かべながら言うと、再び三人に向き直る。そして施訂再は彼女が江家(こうけ)の歴史について詳しく教えてくれたことを思い返していた。


『風の噂に聞いた話では、江千水殿(こうせんすいどの)退門(たいもん)したのは彼の師父(しふ)宋雲霞老師(そううんかろうし)が持っていた江湖龍昇剣の奥義書を盗み出して我が物とするためだったというものです。そしてその後江千水殿は祖先によって設立された江家商会(こうけしょうかい)()いだ後に商売で成功して莫大(ばくだい)な富を得たうえで龍登山荘を建設し、江湖龍昇剣の奥義を一子相伝の剣法として継承していったのではないかと……私はそう推理しています』


(江の旦那の高祖父(こうそふ)の江千水殿や家庭事情にも詳しかったのは方虚空が使用人の小蓮ちゃんとしてずっと働きながら情報を集めていたからか……)


施訂再は脳内で方虚空の話を思い出しながら、彼女の鋭い洞察力と推理力に感服していた。一方、方虚空はその視線に気付いて彼に目配せすると再び話し始める。


「施訂再様が考えていることが何となく分かりましたよ。私のこの姿が方虚空の擬態と思われているのかもしれませんが、正真正銘(しょうしんしょうめい)これが私の……十二代目・方虚空の本当の姿なんです」


「十二代目?どうゆうことだ?」


施訂再は思わず聞き返してしまう。方虚空はニコッと笑みを見せると自分の過去について話し始めた。


「私は代々、方虚空という異名を受け継ぐ家系の生まれなんです。そして私の父も十一代目・方虚空だったんです。私の父……十一代目・方虚空は十年ほど前に亡くなってしまいました。事故に()って死んだとか、毒に(おか)されて死んだとか色々と噂になっていましたけど……本当はどうなのか私には分かりません。そんなわけで私は六歳の時に十二代目・方虚空の名を継ぎ、以来ずっと名前や姿を変えて生きてきました」


「そうだったのか……」


施訂再と江夢沁は方虚空の言葉を聞いて、神妙な面持ちになると押し黙ってしまう。そんな二人の様子を見た江才覚は、気まずそうに咳払(せきばら)いすると話題を変えた。


「それで、君はこれからどうするつもりだ?正体を明かしたということは江家からの離脱を考えているのか?」


「そうですね……確かにそのつもりではありますが、もし(よろ)しければこれまでお世話になったご恩返しに助太刀(すけだち)できればなぁと思いまして……」


「助太刀するというのか?」


江才覚は驚きの表情を浮かべて聞き返すと、方虚空は大きく頷いた。そして彼女は自分の黒髪を両手で()き上げて背中の方へ落とす。すると彼女の右手には短刀が握られていた。


「ええ。まぁ、少し足止めするくらいしか出来ないかもしれませんけどね……」


方虚空がそう呟きながら短刀を握りしめると、彼女は素早く身を(ひるがえ)して薛淵元と剣狼回天門の門弟たちと対峙する。薛淵元は彼女が投げてきた江湖龍昇剣の奥義書を広げてパラパラと(めく)っていた。


「ふん、どうやら本物らしいな。しかし、この奥義書は随分と字が多いのう……少々読みづらいではないか……」


薛淵元が愚痴を(こぼ)している間、方虚空は両脚を僅かに開いて身体全体を沈み込ませながら構えた。そして、右脚(みぎあし)を斜め前方に踏み込んで右掌(うしょう)を正面に突き出すと同時に左脚(ひだりあし)で地面を蹴る。すると彼女は瞬時に薛淵元との間合いを詰めていた。その一瞬の動きを目視できたのは江才覚、施訂再、江夢沁のみである。


「あの瞬発力(しゅんぱつりょく)、尋常ではない……」


江才覚は彼女が放つ速度に驚きの声を()らす。彼女はそのまま右手で握った短刀を斜め下から斬り上げると、それはまるで雷光のように閃いて薛淵元の眼前を通過し、彼の襟巻きに刻まれた剣狼回天門の(おおかみ)の紋章を斬り裂いた。


「なにっ!?」


「薛のお爺さん、よそ見してちゃ危ないですよ〜?」


方虚空はおどけながら言うと、身体を(ひね)って一回転し、足を宙に浮かせると左手を地面に触れさせる。そして両脚を開いて体勢を整えると、素早く立ち上がって身構えた。薛淵元は襟巻きの紋章が裂かれてしまったのを見て怒りを露わにした。


「小娘……我が門派の紋章を斬るとは、許さん!」


「フフッ、どう許さないのか教えてくださいよぉ」


「き、貴様ぁぁ!!」


方虚空は挑発的な口調で薛淵元を(あお)り立てる。そんな彼女を追うように薛淵元は地を蹴って彼女の元へと迫り来る。その瞬間、方虚空は薛淵元の手元を鋭く蹴り上げた。その蹴りは薛淵元の手ではなく、彼が持っていた江湖龍昇剣の奥義書に命中して彼女の後方へと吹き飛ばされていった。


「し、しまった!」


気づいた時には既に遅かった。飛ばされた奥義書は施訂再たちのところへと落下しはじめる。


「大変!すぐに奥義書を確保しないと!」


江夢沁は慌てて奥義書を拾いに向かおうとするが、左肩を負傷している施訂再の治療に専念しており、動くことが出来ない。江才覚は薛淵元への注意を(おこた)らずに、奥義書の落下地点へと駆け寄っていった。奥義書は地面に落ちる寸前のところで江才覚がギリギリのところで掴み取る。だが、そこへ朱定越、鉄当景、鐘満が剣を振り上げて襲いかかった。


「奥義書を横取りされてなるものか!」


「まずい!夢沁、頼む!」


思わず江夢沁へ奥義書を投げ渡してしまった江才覚だが、施訂再の治療に専念している彼女が動けないことを失念していた。


「お父様!いきなり危ないじゃない!」


「あ……しまった!」


「もう……しっかりしてよ!」


江夢沁は慌てて奥義書を掴み取るが、鉄当景はその隙を見逃さずに斬撃(ざんげき)を放つ。


「もらったあ!」


鉄当景が放ったその斬撃は剣狼回天門の武術、天狼剣(てんろうけん)第二式(だいにしき)地駆咆狼(ちくほうろう)』と呼ばれる(かた)でこれは地上を疾駆(しっく)しながら遠吠(とおぼ)えをする狼の姿になぞらえて編み出されたという逸話がある。狼の咆哮のようなその鋭く荒々しい斬撃は確実に江夢沁に命中すると思われたが、その斬撃が彼女の身体に触れる直前にその攻撃は(さえぎ)られた。江夢沁に地駆咆狼が命中する瞬間、施訂再が右手に持った剣から斬撃(ざんげき)を放ち、相殺(そうさい)したのだ。しかし、斬撃同士がぶつかりあった衝撃で江夢沁は吹き飛ばされてしまう。


「きゃああああああああああッ!」


「夢沁お嬢さん!」


施訂再は吹き飛ばされた江夢沁を受け止めようとするが、左肩の傷の痛みにより膝を地についてしまう。そこへ朱定越が地面を蹴って近くにあった木を駆け上がり、江夢沁を空中で捕らえてしまった。


「ちょっ!?離しなさいよ!」


「黙れ!奥義書を渡せ!!」


朱定越は暴れる江夢沁を押さえつけながら奥義書を催促(さいそく)するが、彼女は渡すまいと懸命に抵抗し続ける。一方、施訂再は自身が放った斬撃による反動で後方に倒れ込んでしまっていた。


「くそッ!立ち上がれない……」


「訂再、しっかりして!」


江夢沁は彼女を捕らえたまま地面へ着地した朱定越や鉄当景、鐘満の三人に押さえつけられながらも、必死に手を動かして施訂再へ江湖龍昇剣の奥義書を投げ渡した。


「こいつ……余計なことをするな!」


それに痺れを切らした鐘満は江夢沁の首筋に人差し指と中指を押し当てる。すると彼女は全身が麻痺(まひ)したように動けなくなると同時に声も出せなくなってしまった。


(しまった……穴道(けつどう)(ふさ)がれてしまうなんて……!)


江夢沁は鐘満の点穴法(てんけつほう)によって声と身体の自由を封じられてしまう。


「よくやったぞ、鐘満!江才覚、施訂再。娘を返してほしくばここから西にある絶龍崖(ぜつりゅうがい)へ江湖龍昇剣の奥義書を持ってこい!そこで娘と交換しようではないか」


その様子を方虚空と戦いながら眺めていた薛淵元がほくそ笑みながら言うと、江才覚は苦渋の表情を浮かべる。彼らは悔しさを滲ませながらも朱定越が容赦なく放つ地駆咆狼を防ぐのに精一杯だった。二人とも朱定越の斬撃を防ぎながらも踏みとどまり、薛淵元と朱定越たちを追撃しようとする。だが、薛淵元は方虚空からの妨害を受けつつ彼女から距離を置き、自身の身体を守るように身を構える。


「そうはさせませんよ!」


方虚空は握りしめた短刀で刺突(しとつ)を放つが、薛淵元の長剣による横薙ぎの一閃でその攻撃を弾かれてしまう。


小賢(こざか)しい!貴様のすばしっこいだけの攻撃など通じぬわ!」


薛淵元はそう言いながら(そで)の下から煙玉(けむりだま)を取り出すと方虚空へ投げつける。同時に煙玉から霧状(きりじょう)煙幕(えんまく)が噴出され、方虚空はその煙の中に包まれていった。


「ゲホッ、ゴホッ!?これは……?」


「小娘、よく聞け!我ら剣狼回天門に喧嘩を売ったことを後悔させてやろう」


方虚空は()せ返りながら目を(こす)りつつ周囲を見渡す。すると先程まで近くにいたはずの薛淵元や剣狼回天門の門弟たちの姿が見えなくなった。薛淵元の気配を頼りに探そうとするが、まったく痕跡(こんせき)すら残っていなかった。


(嘘……どうして!?)


方虚空は狼狽(うろた)えると同時に江才覚や施訂再たちの様子を探ろうとするが、江夢沁を捕虜(ほりょ)として連れ去られたためか施訂再は激昂して地面を蹴り上げていた。


「くそッ!卑怯なことを!」

「大丈夫です、施訂再殿……夢沁は必ず我々の手で救出致しましょうぞ」


激怒する施訂再を(なだ)めながら、江才覚は冷静に状況を見極めている。彼は方虚空へ目配せすると彼女の耳元で小声で話しかけた。


「助太刀、感謝致(かんしゃいた)す。私はすぐに娘を取り戻しに行くが、君はどうする?」


勿論(もちろん)、お嬢様を助けに参ります。六年前、旦那様が素性の知れない私を使用人として雇ってくださったことへのご恩返しをまだ果たしていないので!」


方虚空はきっぱりと言い切ると江才覚は彼女の心意気を称賛(しょうさん)した。


「君の気持ちに感謝する。しかし、夢沁のことで君が責任を負う必要などどこにもない……だから自分の身の安全だけを考えてくれていいのだぞ」


「そうしたいのは山々ですが……これはお嬢様の窮地(きゅうち)なのです。江家の使用人として働いてきた以上、見過ごせません!」


「方虚空殿……どうか(よろ)しくお願い申し上げる!」


「小蓮で構いません、今宵(こよい)は江家の使用人として誠心誠意務めさせていただきます!」


方虚空……いや、小蓮は深々と頭を下げて一礼をすると江才覚の案内で施訂再と共に急いで絶龍崖(ぜつりゅうがい)へと向かった。絶龍崖とは龍登山の西にある断崖絶壁の峡谷(きょうこく)で、遥か(いにしえ)の時代より(おのれ)の死期を悟った龍が自身の墓場としてこの峡谷を選ぶ伝説があることから名付けられたという。さらに断崖絶壁の(ふもと)には無数の洞窟があり、その内部には道半ばで命を落とした武人たちの遺骨が幾つも安置されているという伝承もあるため、秀斗町(しゅうとちょう)一帯(いったい)では絶龍崖は『龍の墓場』とも呼ばれ畏怖(いふ)されていた。絶龍崖へ近づくにつれ、施訂再は緊張を隠せず固唾を呑み込んだ。


(この先に薛淵元……そして夢沁お嬢さんが……)


絶龍崖の入り口である狭い岩陰を潜ると、前方に火の(あか)りがチラついていた。それは焚き火によるもので、その火は周囲を赤く照らして威圧しているように見えた。三人はその焚き火を目指して歩を進めると、そこには薛淵元と剣狼回天門の門弟たちが待っていた。そして彼らの中心には縄で拘束された江夢沁が倒れていた。


「夢沁お嬢さん!」


施訂再は彼女の元へ駆け寄ろうとするが、薛淵元は左手で彼を制止する。


「施訂再!江才覚!約束通り来たようじゃな。それで……江湖龍昇剣の奥義書は持って来たか?」


「……」


施訂再は答えることなく黙り込み、薛淵元を睨みつけた。その様子を見て彼は高笑いをあげた。


「ククッ、図星か?まあ良い、さっさと奥義書を渡すがいい!」


「奥義書を渡す前に夢沁お嬢さんを解放してもらおう」


視線を反らすことなく、真っ直ぐに見据えてくる施訂再に薛淵元は苦々しそうに毒づいた。


「小生意気な若造だ。貴様のような輩は気に食わんが……良いだろう、この娘の拘束を解いてやる。ただ

し条件がある……奥義書を先に渡せ!」


「貴方は悪党だが、名門正派の人間。どんな卑劣な(さく)(ろう)しても、武人としての誇りがあるなら人質など取りはしないはず。そうやって卑怯な手段を使って恥ずかしくはないのか?」


「恥ずかしいと思う者が荒河(こうが)で生き残れるわけがなかろう。そんなことも知らずによくぞ今まで生きてこれたものだな」


施訂再殿(していさいどの)、交渉はここまでにしましょう。これ以上は何を言っても無駄だ……」


江才覚が苦渋の表情で施訂再を窘めるが、その様子を見て彼の意志は固かった。施訂再は深呼吸をして心を落ち着かせると薛淵元の提案を受け入れた。


「分かった。奥義書はこちらにある……夢沁お嬢さんと交換だ」


施訂再は(ふところ)から江湖龍昇剣の奥義書を取り出すと薛淵元に差し出す。それを受け取った彼は奥義書を掴んだまま朱定越の方を向いて指示を出す。すると、彼は江夢沁の両手足の拘束を解くと彼女を無理矢理立ち上がらせて江才覚たちの方へと押しやった。


「ふん、約束は果たしたぞ」


「小蓮ちゃん、夢沁お嬢さんを頼む!」


「了解です」


施訂再の指示を受けた小蓮は彼女のもとへ走り寄り、その身体を抱き起こすと(かつ)ぎ上げて後方へと退避する。江夢沁はまだ意識が朦朧(もうろう)としており、焦点が定まっていない様子だった。その様子を見た薛淵元は得意げに笑みを浮かべながら奥義書をひらひらと振りながら言った。


「ハッハァッ!これで江湖龍昇剣の奥義書は儂の物となった!これより儂は奥義書に記された江湖龍昇剣の奥義を修得し、そして天下一の剣客として荒河を統べる存在となる!」


「そうはさせるか!」


感極まった様子で笑い声を上げる薛淵元に施訂再は袖の中から何かを飛ばした。


暗器(あんき)か!」


警戒しつつ、身構える薛淵元。しかし、施訂再が投げたのは刃物ではなく一本の釣り糸だった。その太い釣り糸の片方の先端部分は施訂再の人差し指に結ばれていて、それは素早い動きで薛淵元が持っている奥義書に絡みつくと器用に巻取(まきと)り、彼の手を離れて施訂再の手に戻っていく……!


「な、なんじゃとぉ~っ!?そんな馬鹿な!」


「形勢逆転ですな、薛老師。最早これ以上の争いは無用、江湖龍昇剣の奥義書は私どもが破棄致しますのでここは退いてください」


その様子を見ていた江才覚は淡々と告げるが、悔しそうに歯ぎしりをしながら地団駄を踏む薛淵元は聞く耳持たない。


「おのれッ!おのれえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!よくもこの儂を謀ってくれたな、こうなったからには我が奥義で貴様らを葬り去ってくれよう!!」


鬼のような形相で怒り狂う薛淵元は両腕を素早く動かし腰を沈めながら深呼吸しつつ、声を低く唸り始める。それはまるで地の底から響き渡る獣のような声だった。そして徐々に大きくなっていく唸り声は徐々にその音量を増していき、やがて巨大な咆哮へと変わっていく。


「うおおおおッッッッ!!!!」


薛淵元は雄叫びを上げながら、両腕から凄まじい闘気と衝撃波を放つ。それは複数の(おおかみ)の頭を模した気の(かたまり)と化し、周囲にある岩を牙で噛み砕くかのように粉々に吹き飛ばした。施訂再は咄嵯(とっさ)の判断で後方に跳んで(かわ)すが、足場にしていた岩盤(がんばん)を大きく削り取られたので、体勢を崩してしまいそうになる。だが、なんとか体勢を立て直して地面に着地すると、江才覚や小蓮、江才覚によって点穴法を解除されて身体を動かせるようになった江夢沁と共に距離を取って薛淵元との戦いに備える。


「お、お待ちください師父(しふ)幻狼喝暴破(げんろうかつばくは)を使われたら我々まで……」


酷く怯えた様子の朱定越は狼狽しながら薛淵元に大声で呼びかけようとする。するとあろうことか一つの気の塊が彼の顔面目掛けて襲いかかった。次の瞬間、狼の頭を模した気の塊の直撃を受けた朱定越の頭部は粉々に砕け散ってしまう。そのあまりにも(むご)い死に様はまるで頭を巨大な(けもの)()み砕かれたかのようで、江夢沁と小蓮を気功(きこう)で作り上げた障壁(しょうへき)(まも)りながらその様子を見ていた江才覚は息を吞む。


「これが薛淵元の奥義……」


「なんて恐ろしい技だ……」


冷や汗を垂らしながら、戦慄(せんりつ)する施訂再。『幻狼喝暴破(げんろうかつばくは)』とは剣狼回天門に伝わる一種の発勁(はっけい)技法(ぎほう)で自身の丹田(たんでん)に溜めた気を放出して敵に当てることで攻撃するというもの。しかし、彼が使うこの奥義は通常の発勁とは違い、狼の頭の形をした気が飛び出て行くという独特なものとなっている。


「そ、そんな……!朱師兄(しゅしけい)が……ひっ……ひいぃぃっ!」


「な……なんということだ……!」


あまりにも惨たらしい光景に鐘満や鉄当景も震えあがってしまい、それぞれ後退りした。しかしそんなことは気にすることなく、薛淵元はゆっくりと歩みを進めながら更なる猛攻を加えてくる。


「どいつもこいつも死ねぇえぇぇぇッッ!!」


薛淵元の掛け声と共に、またもや狼の頭を模した気の塊が無数に発射される。それを見た施訂再はすぐさま反撃に出る。


江大人(こうたいじん)、夢沁お嬢さんと小蓮ちゃんをお願いします。私が薛淵元の足止めをして

時間を稼ぎますから……!」


「施訂再殿、無茶だ!今の彼は自分の弟子の命すら度外視する危険な状態です。不用意に近づくと命に関わる!」


「ご心配には及びません、私がなんとかしてみせます……!」


そう言うと施訂再は江湖龍昇剣の奥義書を江夢沁に預けて剣を構えて薛淵元の懐に潜り込むと、目にも留まらぬ速さで斬りつけた。しかし、薛淵元は即座に迎え撃つ。


「甘いわ!愚か者め!!」


「うわっ!?」


突如として襲ってきた衝撃で施訂再は大きく吹き飛ばされる。彼はなんとか受け身を取りながら着地するが、その口から血を吐いてしまう。


「ガフッ!ぐっ……あばら骨を何本かやられた……だが、このまま終わるつもりはない……」


施訂再は重傷を負いながらも、江才覚や江夢沁、小蓮を守ろうと再び立ち上がりながら薛淵元と対峙する。


「ふん、若造め。最早貴様など眼中に無いわ!」


薛淵元の掌から放たれた気の塊が江才覚が張り巡らせていた気の障壁を破壊し、彼を吹き飛ばすと同時に江夢沁、小蓮の二人を捕らえてしまう。


「しまっ……(いや)あぁぁぁぁぁぁ!」


「何という力……!?このままじゃ……」


江夢沁と小蓮は薛淵元の放った気によって捕らえられ、彼の元へと引きずられていってしまう。江夢沁の手には江湖龍昇剣の奥義書が握られたままだ。施訂再はなんとかして救出しようと駆け出すが、薛淵元の両手が江夢沁と小蓮の首をそれぞれ鷲掴(わしづか)みしてしまった。


「くっ……あ……!?」


「うっ……うう……!」


二人は首を絞められながらか細い悲鳴を上げる。薛淵元は二人の少女の首を両手で締め上げながら楽しそうに目を細めた。


「くかかか……この儂を謀った報いじゃ。どのように始末してくれよぅぅぅぅぅ〜」


その形相からは彼が、名門正派の重鎮ではなく荒河でも類を見ない大悪党であるように物語っていた。

施訂再は恐怖と憤りが混ざった表情で怒りに震えながら叫ぶ。


「貴様!彼女たちに……手を出すなぁ!!」


施訂再は怒りに身を任せ、剣を構えて薛淵元目掛けて走り出す。だがその時、薛淵元は不気味な笑みを浮かべたまま口を開いた。


「若造……貴様にとって大事なのはこの娘たちか?それとも江湖龍昇剣の奥義書か?試してやろう!!」


なんと薛淵元は絶龍崖の崖下へ江湖龍昇剣の奥義書を手に持ったままの江夢沁と小蓮を投げ捨てたのだ!


「夢沁お嬢さん!小蓮ちゃん!」


施訂再は我を忘れて、絶龍崖の崖下へと飛び降りると同時に放り投げられた江夢沁と小蓮を抱きしめるように空中で受け止めた。


訂再(ていさい)!」


施訂再様(していさいさま)!」


「二人とも無事か!?こうなったら軽身功(けいしんこう)で崖を駆け上がるしかない、俺にしっかり(つか)まっているんだ!」


崖下へ落下している状態で施訂再は二人に呼びかけつつ抱きしめたまま、目の前の崖を()り上げる。同時に彼は深呼吸して全身の気を巡らせながら気の流れを調整して体内の気功、(すなわ)内功(ないこう)を制御することで、身体を羽のように軽くして空中での活動を可能とする軽身功を発動させた。


「訂再?いったい何を……?」


「軽身功でこの崖を登るんだ。軽身功なら身体の重さを軽くして空を飛ぶように飛び上がることが出来る、安心して任せてくれ!」


「分かりました。お願いします……」


二人の身体を支えながら、施訂再は折れたあばら骨の痛みに耐えながら静かに……だが着実に絶龍崖の岩肌を蹴り上げて駆け上がっていく。するとすぐに江才覚と薛淵元の姿が見えた。江才覚は薛淵元と激しい斬り合いを演じていたが、やがて軽身功を駆使して駆け上がってくる施訂再たちに気付き、驚愕する。


「施訂再殿……!?これは……」


「江大人、夢沁お嬢さんと小蓮ちゃんの救助を完了しました!すぐに避難してください!」


「あ、ありがとうございます。よくぞ夢沁を……そして小蓮を助け出し……」


江才覚は嬉し涙を流しながら、感謝の言葉を述べようとした時だった。薛淵元が彼を無視して施訂再たちへと飛びかかる!


「奥義書をよこせえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


「きゃっ……!」


江夢沁はあまりの恐怖から思わず江湖龍昇剣の奥義書をその手から離してしまう。その刹那(せつな)、今度は薛淵元が絶龍崖の崖下へと飛び降りていく。彼は軽身功を使って崖の上へ駆け上がることをせずに、無我夢中で奥義書を握りしめたままだった。


「これで……これで、江湖龍昇剣の奥義書は儂の物じゃ。ヒヒヒッ、もう誰にも渡さん……ヒヒヒ……

イ〜ヒッヒッヒィィィィィ〜!」


薛淵元は不気味な笑い声をあげながら絶龍崖の崖を下へ、下へと落ちていく。やがてその姿はだんだん、だんだん小さくなって見えなくなり、ほどなくしてグシャリ、という何かが(つぶ)れる音と共に暗い闇の底と錯覚してしまいそうな文字通り奈落の底へと吸い込まれていった……。


「これで……終わったのでしょうか?」


小蓮が不安そうに呟くと、江才覚は険しい顔つきで絶龍崖の崖下を覗き込みながら答える。


「この高さだ。もう助かるまい……淵兄者(えんあにじゃ)……いや、薛淵元は江湖龍昇剣の奥義書と

運命を共にし、その命を散らしたのだろう……」


「お父様……薛の伯父様も江湖龍昇剣の奥義書も失われて、これで本当に良かったのかしら……」


江夢沁が俯いて呟くと、施訂再が彼女の肩にポンと軽く手を置いた。


「夢沁お嬢さん、これで良かったんだ。江湖龍昇剣の奥義書は元々(もともと)、君のご先祖様が封印し、江大人が破棄しようとしていた曰く付きの代物なんだから、終わり良ければ全て良しという奴だよ」


「そうよね……ありがとう、訂再……」


施訂再の言葉を聞いた江夢沁は少しずつ気持ちが楽になり、微笑みを浮かべる。


「お嬢様、施訂再様……喜ぶのはまだ早いようです……!」


突然、小蓮が警戒しながら呟くと彼らの前に薛淵元の弟子の鉄当景と鐘満が姿を現した。鉄当景は両腕に薛淵元の幻狼喝暴破によって頭を砕かれて命を落とした朱定越の遺体を抱きかかえていたが、施訂再たちに対する敵意は感じられなかった。鉄当景は施訂再たちに一礼してから静かに口を開いた。


「江大人……施訂再殿……我々は力への渇望(かつぼう)によって江湖龍昇剣の奥義書を欲するあまり、取り返しのつかない(あやま)ちを犯してしまいました。師父や同門の朱定越までもが命を落とし、最早(もはや)、我らに生きる価値などありません……。この度の愚行に対する贖罪(しょくざい)は我らの命を以て償いましょう……」


鉄当景は悲痛な面持ちで訴える。彼らは自分たちの愚行を省みて自害して(つぐな)おうと考えているらしい。


「待ってくれ、鉄当景殿(てつとうけいどの)鐘満殿(しょうまんどの)。だからといって貴方がたが死んで()びる必要など……!」


「「御免(ごめん)!」」


鉄当景と鐘満は同時に叫ぶと朱定越の遺体を抱きかかえたまま、崖下へと身を投げた。その行動を

目の当たりにした施訂再と江夢沁、小蓮は呆然とした表情で彼らを見送る。


「彼らは最期(さいご)まで剣狼回天門の門弟として矜持(きょうじ)を保とうとした。だからこそ、このような結末を選ばざるを得なかったのだろう……」


江才覚はそう言うと彼らが飛び降りた場所を静かに見つめ、哀悼(あいとう)の意を表したのだった……。

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