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第十章

江才覚(こうさいかく)の姿を認めた朱定越(しゅていえつ)たちは身構えるが、彼は両手を上げて

非戦(ひせん)の意思を示す。


「そう慌てないでください。私はあなた方と争うつもりはありません……」


江才覚の言葉を聞いてもなお三人の刺客たちは警戒を怠らない。一方で施訂再(していさい)は安堵の息を漏らした。


(良かった……。これで朱定越たちに奥義書(おうぎしょ)宝剣(ほうけん)を渡さずに済む。

江の旦那がいれば奴らも下手に手を出すことはないだろう)


施訂再が胸を撫で下ろしていると、江才覚は朱定越たちに話しかける。


宋雲霞老師(そううんかろうし)の筆跡の手紙については私も存じております。ですが、高祖父が奥義書と宝剣を奪った事実はございません」


「ほざけッ!その言葉が本当かどうか、実際に奥義書と龍臨剣(りゅうりんけん)を見せれば真偽(しんぎ)の程は明らかとなるであろうが!」


朱定越が挑発するように言うと、江才覚はゆっくりと言葉を紡いだ。


「承知致しました。では、地下にある宝物庫までおいでください。江湖龍(こうこりゅう)昇剣(しょうけん)の奥義書と龍臨剣をお見せ致しましょう」


「ほほう……?」


朱定越が興味深そうに呟く。すると鉄当景(てつとうけい)鐘満(しょうまん)(うなず)いて同意した。


「よかろう……我らをそこまで案内しろ。ただし妙な真似は慎むことだ」


「はい。心得ております」


江才覚が了承すると、三人の刺客と江夢沁(こうむしん)、施訂再を含めた五人は江才覚の先導により龍登山荘(りゅうとうさんそう)の奥の院へと向かった。江才覚が鍵を使って扉を開けると、そこには地下へと続く螺旋階段(らせんかいだん)があった。江才覚を先頭に一行は階段を下りていく。そして最深部まで到着すると、江才覚は手に持っていた提灯(ちょうちん)で前方を照らした。


此方(こちら)になります。さあ、中へどうぞ」


そう(うなが)されて入室した一行の目に映ったのは、四方の壁を埋め尽くす本棚だった。その全てが剣術に関するものであり、武術書(ぶじゅつしょ)だけでなく医学書(いがくしょ)薬学(やくがく)に関する資料もある。中央には長方形の机があり、その上にも多くの書物が積み重ねられていた。その光景に圧倒される施訂再だったが、すぐ我に返ると江才覚に尋ねる。


「これが……江湖龍昇剣の奥義書なのですか?」


「いいえ……こちらの書物は私が趣味で集めた物です、江湖龍昇剣の奥義書と龍臨剣はこの奥にあります」


施訂再が室内を見渡していると、江才覚はそう答えながら部屋の一角にある書架(しょか)に近づいた。そして、一番上の棚から一冊の書物を取り出すと、その表紙には『江湖龍昇剣』という文字が記されていた。施訂再と江夢沁はその表紙を食い入るように見つめると、江才覚は書物を差し出して説明する。


「この書物が江湖龍昇剣の奥義書になります……。そして……」


そう言って、彼が指差したのは机の上に置かれた一振りの剣であった。その剣には(さや)がなく、それどころか剣身(けんしん)すらなかった。剣を握るための()以外存在していないのだ。


「おい、これはどういうことだ?龍臨剣の剣身が無いぞ?」


朱定越が怪訝(けげん)な表情を浮かべるが、江才覚は無言で首を横に振る。そして剣の柄の下に挟んであった古い書簡(しょかん)を彼に差し出した。


「この書簡は宋雲霞老師が我が高祖父(こうそふ)江千水(こうせんすい)()てたものになります。詳細はこの書簡をお読みいただければわかることでしょう」


江才覚の言葉に従って朱定越は書簡を受け取ると、書簡を開いて中身を確認する。そこに書かれた文章を見て目を見張ると、江才覚はその反応を見計らって口を開いた。


「確かに……宋雲霞老師は江湖龍昇剣の奥義書と龍臨剣を我が高祖父に委ねました。しかしそれは奥義書の内容が知れ渡り、江湖龍昇剣の奥義を悪用しようとする者が現れないようにする(ため)でした。宋雲霞老師は御自身で龍臨剣の剣身を(くだ)いて、江湖龍昇剣の奥義書と一緒に江家に預けたのです」


そう言って江才覚は更に詳しく事情を話し始めた。


宋雲霞(そううんか)は若い頃から江湖龍昇剣を(みが)き上げ、荒河(こうが)において一大勢力を築くのに貢献した傑出(けっしゅつ)した剣士だったが、江湖龍昇剣の奥義書にはあらゆる武術を超える究極の奥義が記されていた。その奥義は江湖龍昇剣の奥義よりも(はる)かに強力である代わりに、使用者には尋常ではない苦しみを与える禁忌(きんき)の技だった。江湖龍昇剣の奥義を使うためには人体構造を理解した上で肉体と精神を極限まで鍛え抜く必要があるが、禁忌の奥義を使いこなすには普通の人間では到底辿り着けない領域に到達しなければならない。その域に至った剣士はこれまで一人として現れることはなかった。宋雲霞は己の知識と経験から奥義の力の危険性を悟ると江湖龍昇剣の奥義書を封印し、二度と奥義を使用できないようにした上で弟子の江千水(こうせんすい)(たく)したのである。江湖龍昇剣には十六式(じゅうろくしき)(かた)が存在したが、宋雲霞が江千水に託す際に奥義書の第十式(だいじゅっしき)から第十六式(だいじゅうろくしき)の型が記された記述を全て破いて捨ててから奥義書を渡したのだった。


「我らは剣狼回天門の門弟でありながら、奥義書の在処さえ知ることができなかった。宋雲霞老師の御英断を無視して、禁断の技を習得しようとする輩は現れたが誰一人として奥義書を見つけることは叶わなかった……。しかし貴様は知っていたのだな、奥義書の在処を……。そして貴様の高祖父はそれを利用して江湖龍昇剣の奥義書を独占した……」


朱定越は険しい顔つきで江才覚を問い詰めるが、彼は穏やかに首を振った後で口を開く。


「いいえ……奥義書を独占したというのは誤解ですよ。私は江湖龍昇剣の奥義書を他の武芸者の手に渡ればいずれ世に災いをもたらす可能性があると考えていましたから、我が祖先の意志を尊重して江湖龍昇剣の奥義書を守護する責任があったのです」


「責任だと?笑わせるな!」


朱定越は怒りを(あら)わにしながら叫んだ。彼は江才覚に詰め寄ろうとしたが、施訂再がそれを(さえぎ)った。


「江大人の話には筋が通っていると思うが?それに朱定越殿たちは江家が奥義書を独占している証拠は持っていないはずだ。つまり今の状況ではどちらの主張が正しいか決められないのではないのか?」


「くっ……それは……」


朱定越は口籠(くちごも)ると、視線を泳がせながら考え込む素振りを見せる。すると突然、周囲に凄まじい威圧感と共に不気味な笑い声が響き渡った。


「ククク……カハハハッ!なるほどのう、そういうことであったか……これは一杯食わされたわい」


その声にいち早く反応したのは朱定越、鉄当景、鐘満の剣狼回天門(けんろうかいてんもん)門弟(もんてい)たちだった。彼らは即座に声が聞こえた方向に(ひざまず)きながら叫んだ。


師父(しふ)……!お越しになられましたか!」


「この声……まさか、淵兄者(えんあにじゃ)が……?」


江才覚もその声に反応する。そして姿を現したその人物は長剣を背負った年配の男性で群青色(ぐんじょういろ)の上着を羽織り灰色の(はかま)を着て、髪は白髪混じりの長髪に顔に刻まれた(しわ)(あご)(たくわ)えた(ひげ)からは老齢(ろうれい)を感じさせるが眼光は鋭く獲物を狙う(たか)のような印象を与える人物……それは三人の刺客の師にして、江才覚が兄として(した)う親友……剣狼回天門は天狼八剣士(てんろうはちけんし)の一人、薛淵元(せつえんげん)であった。


薛老師(せつろうし)……!」


「薛の伯父様(おじさま)、どうして……?」


施訂再は何かを確信したかのように薛淵元を見据(みす)え、江夢沁は驚愕した表情で呟く。そして

薛淵元は悠然と室内に入り込むと、施訂再たちの前に立って口を開いた。


「宋雲霞によって江湖龍昇剣の奥義書の第十式から第十六式の型が記された記述は全て焼き捨てられ、

龍臨剣はその剣身を砕かれていた……先代の天狼八剣士たちが言っていた通りじゃ」


「師父、それはいったいどういうことでしょうか?」


朱定越、鉄当景、鐘満の剣狼回天門の門弟たちは口を揃えて薛淵元に問いかける。彼は悪意と憎悪と愉悦が入り混じった不気味な表情を浮かべながら口を開いた。


「知れたことよ。江湖龍昇剣という史上稀(しじょうまれ)に見る素晴らしい剣術を封印しようとした愚か者の宋雲霞を先代の天狼八剣士たちが誅伐(ちゅうばつ)して江千水が宋雲霞を殺害し、江湖龍昇剣の奥義書と龍臨剣を強奪したことにして奥義書と龍臨剣を奪う算段をしておったというのが真相じゃ」


「なんと!?では我らが代々教えられてきたことは全て(うそ)であったとおっしゃるのですか!?」


朱定越は驚愕のあまり声を荒げる。薛淵元は冷たい視線を彼らに浴びせかけながら答えた。


「何を驚いておる、嘘も方便という奴じゃろうが。(わし)も半信半疑じゃったが、江賢弟(こうけんてい)の話を聞いて確信に至った……先代の天狼八剣士たちは江湖龍昇剣の奥義書の力を独占するために宋雲霞を謀殺(ぼうさつ)し、奥義書と龍臨剣を奪い取ろうと考えた。しかし、肝心の奥義書と龍臨剣は奴の弟子である江千水によって持ち去られておったというわけじゃ」


「では……我らが信じていた話は真っ赤な嘘だったということですか?」


「その通りじゃ……。お前達が信じておったものは全て虚構に過ぎなかったということじゃ」


「なんと……」


「まさか……そんな……!」


朱定越、鉄当景、鐘満は絶望したように項垂(うなだ)れるが、そんな彼らを無視して薛淵元は言葉を続けた。


「まあ良い……お前達にも江家の娘にも用はない、儂が欲しいのは奥義書だけじゃ。そこの奥義書を渡して貰おうか」


「伯父様……」


「淵兄者、おやめください!既に江湖龍昇剣の奥義は失われております。それにもしこの奥義が世に出てしまえば荒河(こうが)静湖(せいこ)の秩序は崩壊し、江湖龍昇剣を独占しようとする者たちによって世は荒れ果て……」


「黙れッ!!」


薛淵元は苛立(いらだ)たし()に叫びながら江才覚を睨みつける。その眼差しは先程までの温和な物ではなく、まるで獲物を狩る獣のような凶暴な気配を(ただよ)わせていた。江才覚はその視線を受けて思わず(すく)み上がるが、それでも尚毅然(なおきぜん)とした態度を保ちつつ薛淵元に告げた。


「淵兄者……どうかお考え直し下さい……」


「知るか!貴様の意見など聞かぬわ!」


薛淵元はそう言って背中の長剣を抜いて構えると、江才覚に斬り掛かろうとする。だが、彼の前に立ちはだかるように施訂再が立ちはだかった。


「邪魔じゃ、どけッ!」


「そういう訳にはいかない。薛老師は江湖龍昇剣の奥義書と龍臨剣を奪うために俺の大恩人……いや、この場にいる皆にとっての大恩人である江大人に危害を加えようというのですか?そのような暴挙を見過ごすわけには参りません」


若造(わかぞう)が知った風な口を利くな!貴様とて荒河の(なら)わしは知っておろう、荒河の武芸者に()いて最も尊ばれるのは他者より強く、敗者を蹴落とし勝利した者のみ!それを愚か者の宋雲霞や貴様が大層尊敬している江才覚が(さまた)げようとしたのじゃ!ならば、この儂がその(あやま)ちを正さねばなるまいて!!」


薛淵元は激昂(げっこう)しながら施訂再を押し退けようとするが、施訂再は微動だにせず正面から

薛淵元と対峙し続けた。


「勝手な理屈を並べるな!自分より弱い相手を虐げるなど……それがどれだけ卑怯な行いなのかわかっておられますか!」


「お前如きに言われたくないわッ!奥義書の第十式から第十六式の型の記述を焼き捨て、龍臨剣の剣身を砕くなど、愚の骨頂も(はなは)だしい!」


「薛老師、あんたは何を言ってるんだ!?江湖龍昇剣の奥義はこの世にあってはならない物……だから

江千水殿は江湖龍昇剣の奥義書と龍臨剣を封印するという宋雲霞老師の願いを継承したんじゃないのか!?」


「ふんっ!その江湖龍昇剣の奥義がどれ程のものか一度試してみなければわかるまい、試す価値もない程度の技であったとしても破り捨てて良い理由にはならんじゃろう!!」


「それこそ勝手な理屈だろう!あんたは自分の欲望のために罪の無い大勢の人を不幸にしようとしてるんだぞ!?」


「やかましいッ!貴様のような小童に何がわかる!!」


薛淵元は声を荒げると共に怒りと殺意を剥き出しにして、叫ぶ。それは兄弟同然に育った江才覚も薛淵元を伯父と慕う江夢沁も初めて見る狂気に満ち溢れた姿だった。薛淵元の気迫に圧倒されながらも施訂再は臆することなく言い返した。


「少なくとも、あんたみたいな自分の欲望を満たすために他人の犠牲も(いと)わない外道(げどう)の考え方を理解しようとは思わない!」


「若造が……口の利き方がなっとらんな……じゃが、アレを見ろ!」


薛淵元はそう言うなり、背後の壁を指差す。するとそこには小蓮(しょうれん)が手を後ろ手に縛られて猿轡(さるぐつわ)()まされた状態で立たされていた。



「小蓮……!?」


「くうっ……なんということを!」


江夢沁と江才覚は思わず悲痛な声を上げる。それを見て薛淵元は(あざけ)り混じりに(わら)いながら告げた。


「フン……貴様らが大人しく奥義書を渡さんなら、あの小娘の命は無いと思え!!」


「そのようなことをすれば、天狼八剣士の一人としての沽券(こけん)に関わるんじゃないのか?

あんたは剣狼回天門の重鎮(じゅうちん)でありながら、女子供(おんなこども)を殺害するような卑劣(ひれつ)な行為を()ずべきものと思っていないのか?」


施訂再は必死に抵抗を(こころ)みるも、薛淵元は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)といった態度を変えずニヤニヤと不愉快な笑みを浮かべたまま答えた。


「卑劣か……それは負け惜しみにしか聞こえんな。儂とて出来ることならそうしたいところだがなぁ……儂は常に高みを目指したいのじゃよ。そして幼い頃より江湖龍昇剣を修錬(しゅうれん)しておった江才覚の奴が(うらや)ましかった!江湖龍昇剣は本来、剣狼回天門の剣士が生み出した剣術……ならば、その門弟である儂こそが使い手にふさわしいじゃろうが!!」


「そんな理由であんたは江大人(こうたいじん)を裏切って、江湖龍昇剣の奥義書をも奪おうというのか!?」


「そうじゃとも!!江湖龍昇剣の奥義書があれば儂は荒河において名を馳せることができるじゃろう!

それどころか無敵の剣客(けんかく)として薛淵元の名は永遠に語り継がれる(はず)じゃ!!」


「馬鹿野郎が……!そんな身勝手な理由で奥義書を狙っていただなんて……!」


施訂再は怒りに任せて罵声(ばせい)を浴びせるも、薛淵元は(すず)しい顔で受け流して笑っている。そうした中で江才覚は彼に必死な表情を浮かべて訴える。


「淵兄者、私は幼い頃より江湖龍昇剣を修錬しておりましたがその剣術は第九式(だいきゅうしき)までしか使えません。そして娘の夢沁も第七式(だいななしき)までしか修得していないのです。我々親娘は江湖龍昇剣の奥義書の基礎しか学んでおりません」


「江大人……」


施訂再が意外そうな声を上げると、江才覚は真剣な表情を浮かべて話を続ける。


「私はこの世に災禍(さいか)をもたらす危険があると判断した時点で江湖龍昇剣の奥義を破棄しなくてはいけないと考えていました。故に私はその時を待っていました……」


江才覚はそこで一旦言葉を区切ると、目を(つむ)ってから再び口を開いた。


「ですが、淵兄者……あなたが江湖龍昇剣の奥義を手に入れて荒河の覇者になろうとするなど決して許せることではありません!夢沁(むしん)や小蓮を傷つけようとするのなら、私が相手となりましょう。たとえこの命を()してでもです!!」


「ほほう……言うようになったではないか、江才覚!ならば儂についてこい!」

う言って薛淵元は(しば)られて動けない小蓮を肩に担ぎ上げると軽身功(けいしんこう)を使って素早く飛び上がり、地上へと続く螺旋階段を信じられない速度で駆け上がると龍登山荘の外へと飛び出していった。江才覚も軽身功を使ってその後を追う。


「二人とも何て身のこなしだ……!」


訂再(ていさい)、私達も追いましょう!」


二人の神速(しんそく)の如き素早さに圧倒されつつも、施訂再と江夢沁は彼らを追って行った。

その場に残された朱定越、鉄当景、鐘満の三人はただ呆然と立ち尽くしながらこれからどうすべきかと思案する。


朱師兄(しゅしけい)、我々はこれからどうすれば……?」


「どうするかだと?そんなことは最初から決まっている……!」


鐘満の問いに朱定越は決意に満ちた目で背後を振り返る。その視線の先には江湖龍昇剣の奥義書があった。




暗い夜の森の中を二つの人影が駆け抜けていく。一つは小蓮を肩に担ぎ上げた薛淵元、もう一つはそんな彼を追う江才覚だ。二人は軽身功を駆使して縦横無尽に龍登山(りゅうとうさん)山中(さんちゅう)を駆け回っていた。


(なつ)かしいのう、昔はよくお主や門派(もんぱ)弟弟子(おとうとでし)たちを連れて回天山(かいてんざん)の山中を駆け回ったりしたものじゃ。まあ、弟弟子たちは体力不足で早々に脱落したがな、じゃが、お主と儂はいつも張り合って競争していたものじゃったな」


薛淵元は足を止めて江才覚を振り返りながら言った。彼は追いついて来た江才覚に話しかけたが、江才覚は険しい表情のまま何も答えなかった。


「ふむ……愛想(あいそ)がないのう、昔のお主はもっと愛嬌(あいきょう)のある子供じゃった筈じゃが、今はまるで別人のようじゃ。昔は儂との勝負に勝ったら嬉しそうに飛び跳ねて喜んでおったものを……」


「昔話をする余裕があるのですか、薛老師?


薛淵元の言葉に対して江才覚は冷たく切り返す。それに対し、薛淵元は楽しげに笑ってみせた。


「そう怖い顔をするでない、儂とお主は旧友(きゅうゆう)間柄(あいだがら)じゃろうて」


今更(いまさら)……旧友などとは笑わせる。あなたが江湖龍昇剣の奥義書を奪い、その奥義を我が物にしようと(たくら)んでいたと知った時は……我が目を疑った……」


「ハハッ、流石に悟ったか。しかしお主は奥義書を守らず、ましてや奥義書そのものを破棄しようとすら考えていたとは……」


「当然です……江湖龍昇剣の奥義は世に出してはならない物……」


「それを言うならお主も同じではないか?江湖龍昇剣は我が剣狼回天門が生み出した剣術、お主が使う資格などない筈じゃ」


「………………」


江才覚は何も答えなかった。彼は黙ったまま薛淵元を睨みつけるだけで何も喋ろうとしない。


「答える気はないか……まあよい、どうせ今宵(こよい)でお主と会うのも最後じゃ、お主が江湖龍昇剣を(おさ)めておったとしても所詮は第九式までじゃろう」


「………………」


江才覚は何も言い返さず黙って薛淵元を見つめる。彼は一瞬たりとも気を(ゆる)ませず警戒心を高めながら、いつでも戦闘態勢に入れるように身構えていた。


「ほう、なかなか良い構えじゃな。昔より随分と腕を上げたようじゃが、それでもまだまだぬるいわ!」


薛淵元は小蓮を抱えたまま長剣を鞘から引き抜くと、その刃先を江才覚へと向ける。その動作は素早く一切の無駄がなかった。


「その()を離してください……!」


「離す?阿呆が!この(むすめ)は人質じゃ、奥義書と交換すると言っておる!お主が江湖龍昇剣の奥義書を渡さねばこの娘を殺すと言ったらどうする?さあ、どうするつもりか言ってみろ!!」


江才覚は唇を噛み締め、拳を握りしめる。その身体は怒りのあまり震えていた。


「小蓮に危害を加えるつもりならば……あなたをここで斬ります……」


「ほほう?面白いことを言うではないか。ならばやってみよ!」


「はぁぁぁぁぁ!」


江才覚は気合を入れると同時に地面を蹴って前に飛び出した。そして一瞬にして距離を詰めると、袈裟懸(けさが)けに斬り掛かる。だが、その斬撃は容易く避けられてしまった。


「甘い!」


「ぬうっ!?」


江才覚の剣を(かわ)した薛淵元は素早い動きで背後を取ると、その背中を思い切り蹴り飛ばす。

江才覚はその衝撃に耐えきれず吹き飛ばされるも、空中で態勢を立て直し着地するとすぐさま振り返った。


「まだじゃ!」


「くぅ……」


江才覚は苦悶の表情を浮かべながら再び攻撃を仕掛けようとするも、今度は薛淵元の方が速かった。彼は江才覚に向かって高速で駆け寄ると、その胴体に回し蹴りを叩き込む。


「ぐふっ!?」


「まだまだじゃ!!」


今度は江才覚の腹に強烈な肘打ちが命中した。江才覚は吐血しながらよろめくと膝をつくが、それでも立ち上がり再び構えようとする。


「往生際の悪い奴め、さっさと奥義書を渡すがよい!!」


「何とでも言うがいい……私は江湖龍昇剣の奥義書を渡すくらいならばあなたと刺し違えるまでです!」


世迷(よま)(ごと)を抜かしおって……!」


薛淵元は鼻で笑うと、背中に背負っていた鞘から長剣を引き抜いた。そして江才覚に向けて鋭い刺突(しとつ)を放つ。


「くっ……!」


江才覚は咄嵯(とっさ)に反応して身を(ひるがえ)すと、辛うじて回避したものの体勢を崩してしまう。そこへ畳み掛けるように薛淵元の斬撃が襲いかかろうとしたその刹那(せつな)、二つの人影(ひとかげ)がそれを(はば)むように姿を現した。


「江大人!」


「お父様、大丈夫!?」


人影の正体は施訂再と江夢沁であった。施訂再は腰の帯から剣を抜くと同時に斬撃を放って薛淵元の斬撃を受け流す。その間に江夢沁は江才覚へ駆け寄り、彼に肩を貸して支える。


「二人とも……来てくれたのか……」


「あたりまえよ!お父様に何かあったら、私……どうすればいいか分からないもの!」


江夢沁は涙を浮かべながら江才覚に語りかける。その姿を見て彼もまた目に涙を(にじ)ませた。


「夢沁……済まない……」


「江大人、謝るのは後です。まずは目の前の危機を乗り越えないといけません」


「そうよね、訂再の言う通りよ。お父様は休んでいて。あとは私達が何とかするから……」


「儂らの間に水を差すとは……許せん!」


薛淵元は憤慨した様子で叫ぶと同時に長剣を大きく振るうと、前方に居る江親娘へと襲い掛かっていく。


「させるか!」


その瞬間、施訂再は地面を蹴って跳躍すると江夢沁と入れ替わるように前に出た。そして手に持つ剣を構え、薛淵元の放つ斬撃を迎え撃つ。


「邪魔をするなぁぁ!!」


「うおぉぉぉ!!」


二人の激突により衝撃が広がり、木々が揺れ動き、その枝葉を吹き飛ばしてゆく。その威力は凄まじく、周囲の空気が震えているようだった。


「ほう……中々やるではないか。じゃが、こんなものでは儂を止めることはできん!」


「くそっ……」


剣を振り終えた二人は再び距離を取って睨み合う。すると今度は江夢沁が飛び出し、薛淵元の背後から襲い掛かった。


「この程度か、夢沁!そんな太刀筋(たちすじ)では儂を斬れんわ!」


「はあぁ!」


しかし、薛淵元は冷静に後ろに振り向くと、片手で彼女の剣を受け止めてしまう。そしてそのまま押し返して吹き飛ばすと、空中で体勢を整えた江夢沁に向かって再び剣を振るう。


「させない!」


江夢沁は咄嗟に身を屈め、滑り込むようにしてその斬撃を避けると、すぐに立ち上がって体勢を立て直す。そして剣を構え直すと薛淵元に突進する。彼は余裕の表情を浮かべつつ迎撃しようと剣を構えたが次の瞬間、背後に迫る殺気を感じ取って咄嗟に背後を振り返る。そこには既に剣を振り上げていた施訂再がいた。


「もらった!」


「ちぃ……!」


薛淵元は咄嗟に地面を蹴って跳び退くと、施訂再の剣を紙一重で回避する。だが、それこそが彼らの狙いだった。


「夢沁お嬢さん!」


「任せて!」


施訂再の合図に応えるように、江夢沁は先程と同様の動作で薛淵元に肉薄すると、その横合いから斬りかかる。彼は剣を横に薙いで防ごうとするも、江夢沁はそれを読んでいたように急停止してその場で跳躍すると江湖龍(こうこりゅう)昇剣(しょうけん)第一式(だいいっしき)水蹴跳鯉(すいしゅうちょうり)』の(かた)を使い、高く飛び上がりつつ、剣を斜め上方から斬り下ろす。そして、薛淵元が思わず頭上を見上げた隙に、施訂再が側面から接近して剣を振り下ろす。双方から同時攻撃を仕掛けられた彼は、それを(さば)ききれず袈裟懸けに斬られてしまう。


「ぐわぁっ!?」


彼は苦悶(くもん)の声を上げながら大きく()()ると、よろめきながら後退する。その間に江夢沁と施訂再は再び距離を取り、背中合わせになって警戒した様子で身構えた。


(妙だ……いくら薛淵元が高齢とはいえ、剣狼回天門の天狼八剣士の一人がこんなにあっけなくやられる筈がない……)


施訂再は倒れる薛淵元を鋭い眼差(まなざ)しで睨みつける。そんな彼に江夢沁は不安げな表情を浮かべつつ声を掛けた。


「訂再、大丈夫?」


「ああ、これぐらいへっちゃらさ……それよりどう思う?この状況」


「え?どうって……」


「確かに薛淵元は強いが俺たち二人がかりでここまで追い詰められていることに違和感は無いか?まるで手を抜いているような感じがする」


「そう言われると確かに変だけど……」


二人は顔を見合わせて首を(かし)げる。その様子を見た薛淵元は嘲笑するように高笑いを上げた。


「ククク……ようやく気付いたか……いや、遅すぎる位じゃな。お主らの実力程度ならばこの程度の力で

十分ということよ!」


「くっ……やはりか……」


施訂再は歯噛みすると、江夢沁と共に武器を構え直して臨戦態勢に入る。その様子を見た薛淵元は嘲笑を浮かべたまま二人の前に立ちはだかった。


「さてと……儂も暇ではないのでな、そろそろ終わらせることにするか!我が天狼剣(てんろうけん)餌食(えじき)にしてくれよう!!」


「夢沁お嬢さん、俺の後ろに……」


施訂再が江夢沁へ振り向いた瞬間。その一瞬の隙に彼の左肩は薛淵元の長剣によって(つらぬ)かれていた。


「ぐっ!?があぁっぁぁぁぁぁ!!」


「カハハッ!見たか、これぞ天狼剣の第四式(だいよんしき)狼影穿牙(ろうえいせんが)じゃ」


左肩を貫かれた施訂再は激痛のあまり悲鳴を上げる。『狼影穿牙(ろうえいせんが)』の型とは剣狼回天門の武術、天狼剣の第四式(だいよんしき)でその鋭い刺突の速さは飛ぶ鳥すら落とすと言われている。


「訂再……!」


江夢沁は慌てて彼の名を呼ぶが、その声に答える余裕は施訂再には無かった。薛淵元は勝ち誇ったように哄笑(こうしょう)を響かせると、傷口を(えぐ)るように長剣を(ひね)って抜く。そして血塗(ちまみ)れとなった剣先を振り払うと、今度は江夢沁の方へ向けた。


「次は貴様の番じゃ!覚悟せい!」


「くっ……」


江夢沁は唇を噛み締めながら、恐怖心を(こら)えつつ薛淵元に向き直る。すると突然、彼の背後に立ち塞がるように人影が現れた。それは江才覚だった。


「お父様……!」


「夢沁、下がっていなさい。ここは私が相手をしよう」


「無駄なことじゃ。死にぞこないめ、邪魔をするな!」


薛淵元は鬱陶(うっとう)しそうに叫ぶと、再び剣を構えて襲いかかろうとする。しかし、その時には既に江才覚は動いており、薛淵元の斬撃と江才覚の剣がぶつかり合う。


「流石は天狼八剣士に名を連ねることはある……!」


「貴様如きに儂を破れなどせぬわぁッッッッッ!」


江才覚は薛淵元に賛辞を送りながらも江湖龍昇剣の第三式(だいさんしき)飛空雲龍(ひくううんりゅう)』の型を放とうとする。飛空雲龍とは第一式の水蹴跳鯉とは異なり、地を蹴って跳躍しながら攻撃するだけでなく、その(つか)い手はまるで雲の中を飛ぶ龍の如く壁や木を蹴り上げながら宙を舞うように斬り付けるという特徴を持っている。

しかし、江才覚の剣が届く前に薛淵元は素早い足捌(あしさば)きで間合いを詰め、彼の剣を弾くと、そのまま(ふところ)に入り込んで強烈な刺突を繰り出す。江才覚は咄嵯の判断で身を捻って回避するものの完全には避けきれず、左腕に(かす)ってしまう。それでも彼は(ひる)むことなく逆に剣を(ひるがえ)すと、薛淵元の頭上に目掛けて振り下ろす。彼はその攻撃を受け止めようと防御の構えを取ろうとするが間に合わず、弾かれてしまった。その隙に江才覚は一気に距離を詰めて間合いを制すると、薛淵元の首筋に剣を突き付けて牽制(けんせい)しつつ、薛淵元を睨みつける。


「淵兄者……最早、これまでです。小蓮を解放してください」


「ふん、貴様ごときが儂に勝てると思っていたのか?笑止千万(しょうしせんばん)じゃ、愚か者め……」


「どうかお願いします……どうか……」


「勝負はまだついておらん。それに……貴様に指図される覚えはない!」


江才覚と薛淵元が睨み合う最中(さなか)、江夢沁は左肩を貫かれた施訂再の止血(しけつ)のために薬草を巻いた包帯を患部に巻き、布切れで施訂再の身体を縛って固定した。


「ありがとう、夢沁お嬢さん……」


「大丈夫?少しは痛みが治まったかしら?」


「ああ、おかげさまで楽になったよ」


施訂再は小さく微笑むと立ち上がる。江夢沁はその様子を見ながら小さく溜息(ためいき)()くと、彼の腕を掴んで自分の方へと引き寄せた。


「ちょっ……いきなり何を……」


「うーん……やっぱり凄く熱いわね。相当出血してるみたいだし、このままじゃ危ないかも……」


「そうかな?俺は結構大丈夫だと思うけど……」


施訂再は苦笑いを浮かべながら、冗談めかして答える。だが、江夢沁は真剣な眼差しで彼を見つめていた。


「ダメよ、安静にしないと。すぐに助けを呼ばないと……」


「でも、江大人と薛淵元の戦いを放っておくわけにはいかないだろ……?」


「そ、それはそうだけど……」


江夢沁は困ったような表情を浮かべながら言葉を(にご)す。そんな彼女を見て、施訂再は安心させるように微笑みかけて言った。


「心配はいらないよ。必ず生きて帰ろう……」


「うん……分かったわ」


江夢沁は小さく頷くと、彼から離れようとする。すると突然、何者かが大声で薛淵元に呼びかける声が響いた。


「師父、江湖龍昇剣の奥義書を持って参りました!」


それは剣狼回天門の門弟、朱定越の声だった。彼の傍らには鉄当景と鐘満もいた。彼らは龍登山荘(りゅうとうさんそう)の地下から江湖龍昇剣の奥義書を持ち出してきたのだ。


「おおっ、ようやったぞ我が弟子たちよ!これで奥義は儂の物……」


薛淵元が大喜びで朱定越に振り向いたその時、一陣(いちじん)の風が吹いた。その風は一瞬にして吹き抜け、そして朱定越が握りしめていた江湖龍昇剣の奥義書は跡形(あとかた)もなく消えていた。

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