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第一章

今より(はる)か昔のこと。度重(たびかさ)なる分裂と統一を繰り返していた武術界(ぶじゅつかい)は衰退の一途(いっと)辿(たど)り、善と悪、正と邪の戦いは混迷を(きわ)めた。

そうした一般社会とは異なる武術界に身を置くのは武術家だけに留まらずに武者修行をする旅人や芸術を愛する風流人(ふうりゅうじん)だけでなく、盗賊や通り魔などの犯罪者も身を潜めるようになってしまった。正と邪が入り乱れ、争乱を繰り返す武術界を一般社会の人々はまるで荒れ狂う河のようだとして、いつしか「荒河(こうが)」と呼ぶようになった。武術界に身を置く者たちも一般社会を静かなる湖に例え、「静湖(せいこ)」と呼んだ。


今よりも混沌としていた荒河(こうが)の時代を生き抜いた武術家たちは、ある者は戦いの中で命を落とし、ある者は病で命を落とし、またある者は武者修行の途中で消息を絶った。戦いの中で命を落とすことを(いと)わず、「戦いの中に死するは武人の本懐(ほんかい)」と言い切る者。己が命よりも名を重んじる者。戦乱の世を嫌い、争いの無い土地を求めて放浪する者。荒河に生きる武術家たちの人生は様々で、それぞれの流儀に従ってひっそりと暮らしているという。中には歴史の表舞台に名を残す武術家もいるが、そのほとんどは知る人ぞ知る存在である。

そんな武術家たちの存在を静湖(せいこ)の人々は幽霊(ゆうれい)妖怪変化(ようかいへんげ)が出てくるような怪談と混同したりして面白おかしく、時には恐れながら子供たちに話して聞かせた。


今回話す物語は決して怪談ではないが、とある女性がついた嘘がきっかけで荒河(こうが)に一騒動起こる、他愛も無い(うそ)から始まった奇妙な小話(こばなし)である。舞台は夏の終わりが近づき、秋の足音が聞こえ始めた頃のこと。貴族や豪商(ごうしょう)たちが優雅に暮らす花街(はなまち)から離れた秀斗町(しゅうとちょう)、その小路(こみち)の一角に(たたず)む小さな宿がある。板張りの床には色褪(いろあ)せた木材が敷き詰められていて、客用の寝台(しんだい)(ベッド)と鏡台(きょうだい)が置かれているだけの質素な部屋だ。その部屋に一人の人物が宿泊していた。その人物を青年と呼ぶには顔は幼さと若々しさが同居しているので少年と言った方がいいだろう。しかし少年と呼ぶには落ち着き払っていて雰囲気が大人びているので青年の方がしっくりくるかもしれない。つまり彼は少年とも青年とも言えないなんとも奇妙な男性なのである。


「さて、どうしたものかな」


寝間着姿(ねまきすがた)の彼は腕組みをして考え事をしながら部屋の中をぐるぐると歩いている。眉間にしわを寄せて首を(かし)げる様はまるで難問を前にした学者のような風情(ふぜい)だが、実際はそうでもない。細身の四肢には筋肉がしっかりとついており引き締まった体つきをしている。しかし全体的に華奢(きゃしゃ)な印象が強く、顔立ちも整っていることから女形(おんながた)を思わせる線の細い美青年といった感じである。宿場町にある小ぢんまりとした宿屋の一室で思案に(ふけ)っている彼の姓名は施訂再(していさい)。年齢不詳でありながら一流の剣士である。剣の腕前もさることながら頭の回転も早く勘が鋭く、洞察力にも優れていて、相手のちょっとした仕草や表情の変化を見逃さずに真意を読み取ることができる。また(かん)もいい方で先読みの力があり事前に危険を察知できるのだった。こういった特技を生かして今まで様々な事件を解決してきた彼だが、そんな施訂再が考え事を巡らせるのには理由があった。元来、彼は夏の終りになると毎年のように秀斗町を訪れてはこの宿に泊まっていた。それというのも秀斗町には『龍潜湖(りゅうせんこ)』という大きな湖と『影龍川(えいりゅうせん)』という川があり、川魚をはじめとした山と川の幸が豊富に採れるためである。さらにこの付近は肥沃(ひよく)な土壌のお陰で農作物の生育が良く、米どころとしても有名であった。そのため秀斗町は古くから人々が集まる商業都市として栄えてきたのだ。そんな秀斗町を訪れた施訂再は数日間かけて釣りを堪能し尽くすのが恒例行事になっている。さらにもう一つの楽しみとなっているのが旬の味覚である大ナマズの煮付けである。


一口に大ナマズの煮付けと言っても、そんじょそこらのナマズではない。龍潜湖(りゅうせんこ)で捕れる大ナマズは純白と言っても過言ではない美しい白身と泥臭さやクセが一切無い(あぶら)の乗った身が絶品の美味なのである。特に尾の部分などはゼラチン状の部分が多く非常に旨味成分を含んでいると言われており市場に出回ることはまず無い幻の逸品なのだ。さらにそれを調理する料理人の腕も重要だ。大ナマズの煮付けを幻の美味たらしめているのは荒河(こうが)の武芸者たちの中でも知る人ぞ知る、秀斗町(しゅうとちょう)の山々にそびえる龍登山(りゅうとうさん)龍登山荘(りゅうとうさんそう)に居を構える江才覚(こうさいかく)の達人級の腕前であろう。彼は剣術の達人であると同時に料理の名人としても知られていた。その江才覚が作る大ナマズの煮付けはまさに至高の一品である。脂っこい料理が苦手な者であっても一度食べてしまえばその(とりこ)になってしまうほど美味しいものだった。それ故に江才覚の料理を味わえるのは天下(てんか)に十人はいないと言われており、幸いにも施訂再(していさい)はそのうちの一人に抜擢(ばってき)されているからこそ彼にとって秀斗町を訪れる大きな理由となっていたのである。しかし、それにもかかわらず今年は江才覚からの招待状が彼の家に届かなかったのが気がかりであった。江才覚の気性からすれば例年ならば(ふみ)が届く時期なのだが今年は何の音沙汰もないのが不審で仕方なかったのだ。


(ふーむ……これは何かあったのか?)


考えても(らち)が明かないと思ったのか施訂再(していさい)は一旦思考を停止させると寝台(しんだい)に横になったまま天井を見上げた。


(まあいい。(こう)旦那(だんな)ほどの実力者が簡単にやられるはずがない。きっとどこかで息災に過ごしているはずだ。それに急いで行く必要もないしな。せっかく遠路はるばるやって来たんだ。焦らずにゆっくりと考えるのも悪くないじゃないか)


心配ごとは後回しにしてしばらくはここでのんびり過ごすことに決めると再び目を閉じて眠りにつくことにした。その日は満月だった。窓から差し込む月明かりによって室内は青白く照らされていた。外では虫の鳴き声と微かに波の音が聞こえてくるばかりで他には何の物音もしない静寂の中、龍登山荘(りゅうとうさんそう)ではちょっとした事件が起こっていた。


「嫌よ!いくらお父様の頼みとはいえ、なんで私が施訂再(していさい)なんかに料理を作ってやらなきゃなんないのよ!」


龍登山荘の居間で歳若い女性の怒鳴り声が響き渡る。その麗しい姿を見れば女性というよりは少女と言っても差し支えないくらい若く見える彼女の名前は江夢沁(こうむしん)江才覚(こうさいかく)の娘である。艶のある長い黒髪と切れ長の瞳が特徴的なお嬢様だがキツイ口調のせいで近寄りがたい印象を与えてしまうのが玉に(きず)な女の子である。普段ならこんな夜遅くに大声を出したりするような性格ではないのだが今の彼女はかなりのご立腹だった。


「夢沁や……そんな怖い顔をして怒らないでおくれ……お願いだから……」


そして対面に座っている初老の男性―――江才覚が困り顔で宥めるものの一向に江夢沁の機嫌は治まる様子はない。父親の表情を見て怒気を更に高める。その原因は間違いなく目の前に置かれている手紙のせいだろう。


「だいたい、お父様はお人好しすぎるのよ!お父様や私の作る料理を味わえるのは天下で十人だけだとか噂になってるらしいけど、なんでその十人目がよりによってあの施訂再とかいう唐変木(とうへんぼく)なのよ!私は絶対に嫌ですからね!」


彼女の料理の腕前は江才覚に負けず劣らず素晴らしいものであったが、父親が施訂再と仲良くしていることが気に入らなかった。それというのも、彼女が施訂再に果たし合いを挑んで負けたことが起因していた。江夢沁にとって江才覚から江湖龍(こうこりゅう)昇剣(しょうけん)を伝授してもらった自分が負けるはずがないと信じて疑わないほど彼女は自分の実力に自信を持っていた。だからこそ父親との修行において一度たりとも(ひざ)をつくことが無かったこともあり誰にも負けるつもりが無かった。それが初めての敗北を(きっ)することになってからは周囲から冷ややかな目で見られているように感じてしまい精神的に追い込まれてしまう日々が続いていたのだ。そんな時に施訂再は江夢沁が抱いている悩みや葛藤を敏感に感じ取っていたようで優しい笑顔で彼女を迎えてくれた。最初はただ親切な人だと思っていただけだったが何度も顔を合わせるうちに次第に好意を抱くようになり、それが恋慕(れんぼ)へと変わっていくのに時間はかからなかった。しかし一方的に想いを寄せているだけで一向に進展しない関係に焦れったさを感じ始めてもいたのだ。だが、自分を負かした相手に好意を抱くというのも何か(しゃく)だったので強がりながら接してしまう。そうしているうちにいつの間にか彼女の中で恋心が嫉妬へと変わってしまったのだ。しかし肝心の施訂再はというと全くもって気づかない。それどころかまったく眼中にないとばかりに振る舞っているのが余計に苛立(いらだ)ちを(つの)らせていた。それでも少しでも振り向かせようと積極的に彼との距離を縮めようとするものの、すべて空振りに終わってしまい、諦めきれずに悩んだ末に取った行動が今回の騒ぎに発展してしまったのだった。そんな事情を知ってか知らないのか施訂再を龍登山荘に招いて料理を振る舞うことに断固拒否する姿勢を(つらぬ)く彼女に対して江才覚は渋々と言った感じに口を開いた。


「分かった……。それじゃあこうしよう、もう一度お前が施訂再殿(していさいどの)と果たし合いをして納得するというのなら今一度彼と再戦できるように取り計ろうじゃないか。それで良いか?」


「駄目よ!今の私じゃアイツに勝てるわけないじゃない!」


それはそうだろう。勝てる保証など無いのだ。しかも相手は実戦経験豊富で腕利(うでき)(ぞろ)いの荒河(こうが)を渡り歩いてきた武芸者の一人であり一騎討ちの腕前に関してはおそらく最高峰と称される施訂再である。いくら鍛錬を積んだところで到底敵うような相手ではない。万が一にも万に一つの可能性だってあり得ない。ただでさえ武芸の心得(こころえ)があるとはいえ剣士としては未熟な部類に入る江夢沁が勝てるわけがない。


「ではどうするというのだ?駄々(だだ)をこねたところで何も始まらないだろう?」


「それなら私が病気に(かか)ったことにして昏睡状態になったって、施訂再に伝えてちょうだい。それでアイツが油断して私に近づいてきたところに一撃を与えてやるって寸法よ!これなら完璧でしょう?」


得意げに胸を張る江夢沁だったが、それを見た江才覚は呆れ顔で溜息を()らした。


(まったく、夢沁は本当に仕方がない子よなぁ。だけどまぁそんな所が可愛くもあるんだがね……)


江才覚(こうさいかく)は自分の娘を見る。母親似の綺麗な顔立ちはそのまま将来美人になることは間違いないだろうと思えた。性格に問題はあるけれど根は善良だし素直で優しい子だと知っている。彼女が望めば嫁の貰い手など引く手あまたなのに何故自分の周りの男は変人が多いんだろうと苦笑いしつつ江才覚は思うのだった。とりあえずこの件は後回しにするしかあるまいと判断すると改めて手紙に目を通した後に筆を執って返事を書いておくことにした。書き終わると封蝋を施して宛先を書く。その時になって思い出したように顔を上げた。


「そうだ夢沁や。今日は早めに休むといい。私も早朝から準備を始めねばならないのでな」


「はぁい……」


あまり乗り気でなさそうな返事をする江夢沁(こうむしん)だが渋々と自室へ引き下がっていく。


(やれやれ困ったものだ。しかし施訂再殿が夢沁を嫁に貰ってくれれば一番丸く収まるんだがなぁ)


施訂再と江夢沁はお互いに()かれ合っている。これは本人たち以外のほとんどの者が気づいている事実だった。だが当人たちだけが鈍感なのか全くといっていい程恋愛感情というものを持っていないらしい。特に施訂再に至っては恋愛に興味を持つこと自体が珍しいみたいでそういう意味では安心と言えるのかもしれなかった。


(施訂再殿なら必ずあの娘を幸せにしてくれるとは思うのだがね……。果たしてどうなることやら)


一抹(いちまつ)の不安を覚えつつも江才覚は寝巻きに着替えると布団に入り眠りについたのである。

翌朝――施訂再は予定通りに早起きをして釣りの仕掛けを作る作業に取り掛かっていた。昨晩のうちに釣竿を作ったり網を編んだりといった作業を進めておいたおかげで朝のうちに済ませておくべき工程の大半が完了していて残るは糸に針を取り付けるだけという段階までこぎつけていた。


「えっと確かこれくらいの太さだったと思うんだがなぁ……」


呟きながら手にした糸は黒光りする十センチ程度の極太のもので釣糸というよりは縄といった方が正しい代物だった。普通の魚釣りで使われるような細くしなやかなものはなく見た目こそ違うものの丈夫さは十分なもので強度的には申し分なく海苔のように平べったい形状をしているため水中への抵抗も少ないことから船などで使用されることも多いのだという。


(しかし……こうしてみると随分と太いもんだなぁ)


施訂再は手に持った糸を見ながら思った。もっと細くて丈夫なものがあればよかったのだが、いかんせん彼が釣具店に行った時にはこれしか売っていなかったので致し方ないことだった。そもそもこんな太さの糸を使うなんてことを想定していないのだ。もし仮に釣り糸に使えるような太さのものが存在しなくとも水中を泳いでいる魚を剣で突いて捕るという手法もあるが、しかしながらそんなやり方で獲れた魚など食べられたものではなく当然捨てざるを得ないために結局無駄になってしまうというのが現状だった。それにしてもと施訂再は手元にある道具を見て思う。自分の知っている釣りというのは水面に浮かべた餌を狙ってくる魚を鉤針で引っかけるというものだ。あるいは網や籠を使って一気に大量に捕るというものもあるのだが、これはどちらかと言えば漁師の仕事の範疇に入る。そして今回の目的である魚というのは海水魚ではなく水棲生物全般を指しておりその中に含まれるのがヌマエビやドジョウなどの小型種から大型種のスッポンまでを指している。つまり何でもいいからとにかく獲れればそれで良いということなのだ。そこで候補に挙がったのがナマズである。


(だがどうにもなぁ……)


やはりいくらなんでもこの糸は太過ぎやしないか……などと我ながら呆れ返っていると、突然背後から話しかけられた。


「もし……!施訂再様(していさいさま)でいらっしゃいますか……?」


名前を呼ばれたので何者かと思い振り返ってみると、声をかけてきたのは体格の良い中年の男で使用人が着るような服装をしている。


「失礼ですが、どちら様でしょうか?」


警戒しながら問いかけると男は丁寧なお辞儀をして答えた。


「突然お呼び止めして申し訳ございません。私は龍登山荘(りゅうとうさんそう)(あるじ)江才覚様(こうさいかくさま)の使いの者でございます」


それを聞いた瞬間、驚きのあまり危うく落としかけた糸を慌てて持ち直すと安堵の表情を浮かべる。正直言ってこの時点ですでに不安でいっぱいになっていたからだ。何故なら今までずっと龍登山荘から招待状が来るまで待機していたというのに一向にやって来る気配がなかったのだ。まさかこのまま待ちぼうけをくらうんじゃないかと思っていた矢先に訪れた機会なのだから無理もない。しかし施訂再はここで焦ったりせず冷静沈着に対応した。まずは自己紹介をするのが礼儀だろうと判断すると早速話し出す。


「施訂再と申します。以後お見知りおきください」


「こちらこそ(よろ)しくお願い致します」


互いの挨拶が終わると施訂再は率直(そっちょく)に尋ねることにした。


「ところで江大人(こうたいじん)の御用とは、一体なんですか?」


それを聞いて江才覚の使者はハッとした様子を見せると深々と頭を下げて謝罪の言葉を述べた。


「申し訳ありません!実は夢沁お嬢様が御病気になられまして……」


その言葉を耳にした途端、後ろ髪を引かれるような嫌な予感がしたのでつい返事をしてしまった。


「それで……お嬢さんの容態(ようだい)は……?」


「はい。幸いにもそこまで深刻なものではありません。しかしお医者様の診立(みた)てでは安静にしていればすぐに快方に向かうだろうということで今朝になって龍登山荘から連絡がありました。そこで施訂再様に是非、お見舞いに来ていただきたいということでしたので私が出向いたという次第でございます」


「なるほど……分かりました。とりあえず夢沁お嬢さんの命に別状が無ければ一安心ですが」


とりあえず一先ずは安心という感じで一息つく。ただでさえ川の幸を早く食べたいのだからこれ以上揉め事を増やされてはたまったものではない。どうせ夢沁お嬢さんのことだ、自分を騙し討ちにしてやろうと仮病でも使ってなにか企んでいるに違いないと思いつつも、江才覚の頼みを無碍(むげ)にして彼の顔に泥を塗るようなことはしたくなかったので渋々承知するのだった。


「分かりました。ではこれから向かいましょう」


「ありがとうございます。それでは早速参りましょうか」


こうして二人は歩き出したのだが使者は途中でふと思い出したように口を開いた。


「あっ、そうだ!一つ言い忘れていたのですが、施訂再様は何か病気に効くようなお薬はご持参しておられないでしょうか?お嬢様に飲ませて差し上げたいので、できれば滋養強壮(じようきょうそう)の効果があって()つ消化に良い物を所望(しょもう)したいのですが……」


「すみません。そういった類のものについては詳しくないのでなんとも言えないですね……申し訳ありませんが」


「左様でございますか……こちらこそ失礼致しました」


使者は恭しく施訂再に謝罪すると話を続けた。


「それともうひとつお願いしたいことがあるのです。実は江才覚様が貴方様にどうしても伝えたいことがあるということでして……」


「私に伝えたいこととは?」


「はい。是非とも会って直接話したいとのことでしたが如何致(いかがいた)しますか?」


「そうですね……まぁ急ぐ用事もありませんし構いませんよ」


(かしこ)まりました。それでは案内させていただきます」


使者の後をついて行きながら施訂再(していさい)は考える。自分と話がしたいということは十中八九、江夢沁(こうむしん)についてのことだろう。恐らくこの人物は自分を江夢沁と引き合わせるために遣わされたものと思われた。おそらく江才覚(こうさいかく)は娘を傷つけないためにあえて遠回りな方法を取ったのだ。確かにあのまま放っておけば確実に衝突することは目に見えているし下手をしたら命に関わる事態になるかもしれない。


(となると……俺としては夢沁お嬢さんに会って話をする必要があるんだろうか。けど、なんか気まずいよなぁ……仮病を使って見舞いに来いと呼びつけるくらいだし)


そんなことを考えているうちに江才覚の使者はスイスイと軽やかな足取りで山道を登って行く。その動きは山を登るというよりも舞を踊っているかのような流麗さを伴っており、とても中年男性とは思えぬ俊敏さだった。使者を務めるくらいだからある程度体力はあるのだろうが、ここまで凄いとは想像していなかっただけに驚いたのと同時に感心させられた。


(あの人、(こう)旦那(だんな)の使いと言っていたがあそこまで素早い動きは軽身功(けいしんこう)会得(えとく)していないと出せないはずだ。物腰柔らかいように見えるが……相当な手練(てだれ)だぞ)


軽身功(けいしんこう)とは武術(ぶじゅつ)において身体を軽くすることで動きを俊敏(しゅんびん)にする技巧(ぎこう)であり、修行を重ねることにより常人の数倍の速さで走るだけでなく、水面を走ることや建物の壁を駆け上がることも可能となる気功(きこう)の一つである。一般的には体術(たいじゅつ)や他の気功術(きこうじゅつ)などと一緒に習得することが多いが、一部例外として軽身功のみを優先して身につける武芸者も存在しているという。施訂再も使者に負けじと会得している軽身功を駆使して険しい山道を一気に駆け上がる。呼吸を整え息を吐き出しながら軽身功を使った瞬間に身体が羽のように軽くなり体重を感じなくなる。そのまま足に力を入れて地面を蹴り飛ばすと同時に跳躍(ちょうやく)、木々の枝を伝って宙を跳びながら移動する。そして目的地である龍登山荘(りゅうとうさんそう)の玄関へと到着すると息一つ乱すことなく飛び降りて華麗に着地した。ちなみにこの間にかかった時間はわずか三分程度である。施訂再は額に(にじ)み出た汗を(そで)(ぬぐ)うと改めて目の前の屋敷を見据えた。外観は質素だが広さはかなりあり三階建ての本館を中心に左右に二階建ての回廊が設けられている造りだ。


(何度来て見ても、この規模で山奥に建っているとは結構大きな家だよなあ。流石は名門江家(めいもんこうけ)と言うべきか)


「どうぞこちらへ」


施訂再が呆然としていると隣にいた使者が声をかけてきたので我に帰りつつ建物の中に足を踏み入れようとした時、使者の姿が見えなくなった。


「ん……?あの人はどこへ行ったんだ……?」


(あた)りを見渡すものの使者らしき人影は見当たらない。もしかしたら既に奥に引っ込んでしまったのかもしれないがそれにしてはおかしい。

確かにこの屋敷は広大で迷いやすい構造になっている。だからといって入口に立っていて忽然(こつぜん)と姿を消すなんて普通に考えてありえない。しかも施訂再が意識を向けた途端に煙のように消えてしまったのだ。


(いやまさかな。俺の気のせいだったのか)


だが気のせいで片付けてしまうのもなんだか()に落ちないので(しばら)くその場で立ち尽くしていたが、考えたところで始まらないので山荘の玄関へ向かい扉の把手(とって)に手をかける。


「さあて、鬼が出るか蛇が出るか……何でも来いってんだ。じゃじゃ馬娘との知恵較(ちえくら)べと洒落(しゃれ)こもうじゃねえか!」


そうして扉を開けて中へと一歩足を踏み入れる施訂再(していさい)。その一歩が荒河(こうが)に波乱を巻き起こすことになるとは知らずに……。

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