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キラキラ

作者: Xsara
掲載日:2025/10/17

加賀美橙子は、教室の隅で静かに本を読んでいる。窓から差し込む午後の光が、彼女のふっくらとした頬に柔らかな影を落とす。粉白のチョークの匂い、黒板のきしむ音、外から聞こえる部活の掛け声。すべてが、薄い硝子越しに置かれたみたいに遠い。タレ目が生まれつき与える安心感のせいか、彼女の周囲だけは教室のざわめきが一段階やさしくなる。息をひそめているのではなく、息の仕方を知っている場所——そんな空気が漂っている。


橙子は人の話を聞くのが上手だった。いや、正確には、人の「恋」の話を聞くのが上手だった。彼女の中では、誰かの口からこぼれる恋の話は、音であり、色であり、温度だった。喜びは軽やかな弾みのある黄色、心配は薄い青に微かな灰が差し、決意は透明な赤。そういう印象は、本人も理由を説明できない。けれど、確かに見えるのだ。人が恋をしたとき、その人の周りに小さく点滅する光の粒——橙子はそれを「キラキラ」と呼んだ。


「ねえ、橙子、アドバイスしてよ。俺、佐藤さんのことどうしても気になっちゃって…」


隣の席の山田が、頬を赤くして椅子を引き寄せる。消しカスの散らばった机の角を指でなぞりながら、落ち着きなく視線を泳がせている。橙子は本からそっと目を離し、ページに栞を挟む。その仕草ひとつにも、相手の言葉を受け止める余白がある。


「どんな気持ちなの? ちゃんと教えてよ。じゃないと、私、わかんないよ。」


促すと、山田は堰を切ったように語り出す。学級委員の佐藤さんが笑うとき、片方だけ少し長い前髪を耳に掛け直す癖。黒板消しの跡が頬についたのを気づかれないように教えてあげた日の、彼女の「ありがとう」の声の高さ。放課後、教室に残った二人でプリントを折ったとき、窓の外に沈む陽の赤さが机を半分だけ染めて、誰もいない廊下にセミの声が続いていたこと——話は小さな場面の断片で満ちている。断片が重なるたび、山田の周りに光が増える。半透明の、けれど確かな浮遊する粒。熱が帯び、手のひらの上の砂糖菓子みたいに脆く甘い。


橙子はうなずき、問いを置く。返ってくる言葉の密度を確かめ、結び目をそっと緩める。彼が自分で自分の気持ちを言葉にできるように、幅を広げ、道を照らす。結論を提示するのではなく、結論へ向かう手前の安心を渡すのだ。


「じゃあ、まずはさ……あなたが“好きだ”っていう気持ちを、彼女の返事に関係なく大事にできる言い方を考えよっか。結果じゃなくて、プロセスに自分の名前を書く感じで。」


山田は目を見開き、「プロセスに名前……?」と繰り返し、ふっと笑う。笑いの拍子に、光の粒が一層細かく弾ける。橙子は、その煌めきを受け止めるように微笑み返す。彼女の胸の内側は静かだ。静けさは冷たさと紙一重だけれど、彼女は自分の静けさを持ち物のように扱っている。必要なときに取り出し、机に置くことができる。


橙子はアセクシャルだった。恋愛感情を抱かない自分を、冷めた目で観察するもうひとりの自分がいる。クラスメイトたちが浮かれ、傷つき、涙を流すたびに、橙子は彼らのキラキラをそっと吸い込むように話を聞いた。聞くことで、その人の中で渦巻く光の粒が、少しだけ安定する。解決と呼ぶほど派手なことはしない。ただ、光の脈拍が正常に戻る瞬間がある。それがわかる。わかると、胸の奥で小さな鈴が鳴る。


「橙子ってほんとスゴいよ。なんでそんな人の気持ちわかっちゃうの?」


そう言われるたび、橙子は笑って肩をすくめる。彼女の答えはいつも同じだ。「わかってるんじゃなくて、見えてるだけだよ」と。けれど、心のどこかで思う——私はただ、キラキラを見ているだけなのに。



ある日、バスケ部のエース岡崎に校舎裏に呼び出された。夕方の風はまだ暑さを含んでいたが、グラウンドの端に並ぶ銀色の自転車はどれも熱を失いつつあり、遠くでシュッと空気を切るボールの音が規則的に響いている。


「加賀美、俺、お前のこと好きだ。めっちゃ好きだ。」


岡崎の目は真剣で、声は熱っぽかった。額ににじむ汗がこめかみを伝い、顎先で光る。彼の周りには、濃度の高いキラキラが渦を巻いていた。弾性のある光。勝負どころで放ったスリーポイントが綺麗な弧を描く、その球筋と似ている。橙子は一瞬、その輝きに目を奪われた。きれいだ、と思った。見事な光景だ、とも。


でも、すぐに胸の奥に冷たい感覚が広がる。冬の最初の夜みたいな、乾いた冷え。彼女はゆっくりと息を吐いた。言葉に触れると、その言葉が自分の中に沈んでいく。沈む先が空洞であることを、彼女はよく知っている。


「…ごめん、岡崎君。私、そういう気持ち、持てないの。」


岡崎は困惑し、唇を噛んで視線を外した。「でも、試してみない? 俺、絶対お前を幸せにするから!」


「うん。ありがとう。嬉しいよ。でも、試すって、多分、あなたに失礼になる。」


「どうして。」


「私の“ない”を、あるふりで埋めるのは、あなたの“ある”を薄めちゃうから。」


彼は黙った。風が通り、落ち葉がアスファルトに擦れる。遠くのゴールネットにボールが触れる柔らかい音が続く。しばらくして、岡崎は小さくうなずき、笑顔の端を作った。その笑顔は、彼が何度も練習して身につけた「大丈夫」を含んでいる。彼は強い。だからこそ、橙子は痛む。強い人の光は、弱るときほど色をなくすのがはっきり見えるからだ。


結局、岡崎との“交際”は一週間で終わった。交際と言っても、二人で帰り道を少し歩いたり、購買で同じサンドイッチを選んだり、休み時間に窓の外を一緒に見たり——そんな程度だ。手を繋ぐことも、抱きしめることもなかった。それでも、彼のキラキラは急速に色褪せていき、最後の日、彼の目には失望が薄く混じっていた。混ざる瞬間の音が聞こえた気がする。錆びた棘が水面に触れるような、わずかな音。


橙子はそれを受け入れるしかなかった。彼女には、誰かを輝かせる力がないのだから。少なくとも、恋という名前の光を自分から生み出すことは、できない。



放課後、橙子はいつものように図書室にいる。窓際の席、薄い緑のカーテンが午後の風で揺れるところ。恋愛小説のページをめくるたび、紙の匂いが胸に広がる。物語の中の登場人物たちは、恋に落ち、葛藤し、涙を流す。そのたびにキラキラが頁から立ち上がり、行間を漂う。橙子は伏し目がちに、ほんの少し微笑む。何かが胸の表面で小さく瞬く。彼女はそれを、指の腹で確かめるかのように、ペンを回した。


「加賀美さん、またその席ね。陽がよく入るから、目、疲れたら言ってね。」


カウンター越しに、司書の三田さんが声をかける。年季の入った眼鏡の奥で、優しい皺が増える。「恋のお話?」と問われ、橙子は「はい」と短く答えた。三田さんは頷き、「この季節は、結末が曖昧な短編集がよく出るのよ。不思議よね、空気が変わるせいかしら」と呟く。図書室の時計は、秒針を規則正しく進める。大きすぎず、小さすぎない音。橙子は、その音の中に、自分の心拍が重なるのを感じる。正確に、静かに、規則正しく。恋をしているときの乱れた鼓動は、彼女の中に生まれない。けれど、物語の鼓動に耳を寄せることはできる。


私が恋をしたら、どんなキラキラが見えるんだろう。


そんな思いが頭をかすめる。けれど、それは長居しない。ふと視線を上げると、窓の外で鳥が瓦屋根をまたぎ、影だけがカーテンに滑っていく。橙子は、深くは追わない。追えば、空虚が顔を出すから。空虚は彼女の友だ。名前をつけ、付き合い方を覚えた空虚。無理に埋めない、と決めてからは、空虚は彼女に牙を立てなくなった。



「橙子、いると思った!」


図書室のドアがバタンと開き、佐藤さんが駆け込んでくる。赤いカーディガンの裾がひらりと舞い、額の髪が少し乱れている。彼女の目は——まるで星を閉じ込めたみたいに輝いている。橙子は本を閉じ、席を指し示す。佐藤さんは息を弾ませ、「聞いてよ! 山田君がさ、今日、めっちゃカッコよくて…!」と身を乗り出す。


「うん、教えてよ。どんなキラキラだった?」


促されると、彼女は嬉々として語り始める。体育の時間、バレーボールのチーム分けで誰も拾えなかったサーブを山田が拾ったとき——腕の内側に当たって痛かったはずなのに、顔をしかめずに笑って「もう一回!」って言った瞬間。月曜の朝のゴミ当番で、袋の口をしっかり縛って運ぶ背中。そういう細部が、彼女の言葉の中で光る。山田の名前を発するとき、彼女の声がほんの少し低くなる。低い、けれど温かい低さ。その温度に合わせるように、図書室の空気まで柔らかくなる。


橙子は相槌を打ち、必要なところで笑い、たまに首を傾げる。その身振り手振りすべてが、語りの速度と呼吸を整える。佐藤さんのキラキラは、やや不安定に上下する。見ていると、橙子の中に、ほんの一瞬、退屈から解放される風が吹く。胸の内側で、小さな灯が点る。すぐに消えるけれど、確かに点る。点ったことを、彼女は見逃さない。


それでいい、と橙子は思う。これが私の生き方だ。キラキラを生み出せなくても、触れていれば、きっと大丈夫。



季節がひとつ進む。文化祭の準備が始まり、廊下の掲示物は色紙で賑やかになる。教室では段ボールが積まれ、ペンキの匂いが鼻を刺す。恋は、この時期、どこにでも落ちている。階段の踊り場で釘を受け渡す指先、天井から吊るす飾りを押さえるために伸ばした背伸びの影、作業後に配られたアイスの棒に印字された「あたり」の文字——そういう些細なものに、誰かの心が引っかかる。引っかかった場所でキラキラは増え、時に困惑を生む。


「ねえ、どうしても気になってしまうの。隣のクラスの子、たぶん私にだけ態度が違う気がする。」


「昨日まで普通だったのに、今日はLINEの返事が途切れがちで……」


「私、好きなのかどうか、わからない。好き“だった”のかもしれない、はわかるのに。」


昼休み、放課後、週末の公園。橙子は呼ばれる場所に行き、話を聞く。公園のベンチでパンを分け合いながら、商店街のたい焼き屋の狭い椅子に並んで座りながら、川沿いの遊歩道で自転車を押しながら。彼女はメモを取らない。けれど、相手が自分の言葉を初めて内言化できた瞬間を、忘れない。忘れないというより、相手の表情の変化がそのまま、彼女の心の棚に並ぶのだ。棚には名札がなく、数だけが増えていく。増えると、なぜだか、心の空虚が騒がなくなる。


「加賀美は、どうしてそんなに“平気”なの?」


美術部の長谷部に訊かれたのは、放課後の図工室。乾きかけの絵の具の匂い、洗い場の水音。窓の外で、赤くなりかけた夕陽が運動場を長く照らしている。


「平気じゃないよ。ただ、私の“平気”は、他の人の“平気”とは形が違うのかもしれない。」


「形?」


「うん。恋の形じゃない光で、埋めてる。例えば、今、乾いていく絵の具の表面にできる皮膜を見るの、好き。最初の艶から、少しマットに変わる瞬間。音はないけど、変化がある感じ。」


長谷部は少し考え、「それ、わかる」と笑った。「俺は筆洗いバケツの底の絵の具の沈殿が好き。渦が見えるときがあるから。」


二人は笑った。恋ではない光について話すのは、少し救われる。恋の話は美しい。けれど、美しいだけだと、疲れてしまう。別の美しさは、世界の重心を少し戻す。橙子はそれを知っている。



冬の入り口、初雪の予報の前日、岡崎がまた声をかけてきた。体育館の裏口で、マネージャーがぴしりと張った新しいテーピングの白さ。吐く息がうっすら白い。彼は、何気ない調子で話し始めた。


「この間の地区大会、決勝で外したんだよ、最後の一本。俺、たぶん、あのとき——お前の言葉が頭にあった。」


「私の?」


「うん。“プロセスに名前を”って話、山田にしたんだろ。聞いた。あいつから聞いた。俺、あのとき——入れる自分の名前を、ちゃんと呼べた気がする。でも、外した。……それでも、ちゃんと呼べたことだけは、残ってる。」


彼の言葉の周りで、ゆっくりと固い光が生まれていた。勝ち負けではないところに灯る光。橙子は、その光が好きだと気づく。好き、という言葉を、恋以外の場面で使うことの気楽さを、彼女はずっと前から知っている。


「あなた、強いね。」


「いや。弱いから、強くなり方を探してるんだよ。」彼は笑い、肩をすくめた。「なあ、加賀美。俺さ、前は、お前を“好き”で埋めようとした。今はもう、そうじゃない。……でも、いつか、お前が恋じゃない光で埋めてる場所に、俺の知らない名前が灯ったら、教えてくれないか。」


「どうして。」


「知りたい。世界の埋め方は、ひとつじゃないって。俺にとっても、それが救いになるかもしれないから。」


橙子は「うん」とだけ答えた。約束にはならない。けれど、それは嘘でもない。



年が変わり、空気は乾燥し、光は硬質になる。図書室の窓から見える木の枝が、線画みたいに空を切る。佐藤さんと山田は、ゆっくりと距離を近づける。二人は何度か行き違い、誤解を経て、ある日、教室の扉の前で深く礼をし合っていた。言葉ではない謝罪のかたち。橙子は、廊下の端からその光景を見て、胸の奥で小さく鈴が鳴った。


「喧嘩しちゃって……」と泣きながら駆け込んだ別の友人には、温かい缶ココアを半分ずつ飲みながら話を聞いた。缶の口に残る甘さ。紙コップよりも直接的な、金属の冷たさ。彼女は「大丈夫かな」と十回言い、「私が悪かったのかも」と五回言った。その回数を指折り数えながら、橙子は「どっちが悪いかを決めるのは、今じゃない」とだけ言った。悪いを決めると、光が消えるときがあるから。光が消えないうちに、できることを済ませよう。連絡先を“既読スルー”から“ここまで読んだよ”に置き換える勇気とか、直接顔を合わせるための場所の約束とか。


彼女は帰り際、「ありがとう」と言い、階段を降りながら振り返って笑った。その笑いの端に、まだ不安が残っている。残っていていいのだ、と橙子は思う。不安が残る場所に、丁寧な約束が根付く。



春のきざしのある雨の日、橙子は家で父と味噌汁を作った。鍋から立ち上る湯気、鰹の匂い。父は無口で、けれど時折、思い出したように話をする。「お前、小さいとき、雨上がりの水たまりに映る雲が好きだったよな」と言われ、「覚えてない」と答えると、「俺は覚えてる」と返される。父の言葉は重い石のようでもあり、安定した足場のようでもある。橙子は、鍋の中でゆらゆら揺れる豆腐を見つめながら、「ねえ、お父さんは、お母さんのどこが好きだったの」と訊いてみた。父は少し考えてから、「えーと……俺が沈黙してるときに、勝手に意味を勝手に悪くしないところ」と言った。彼の言葉の端に、薄いキラキラが生まれた。橙子は、それを見た。恋のキラキラではない気もする。長く寄り添うことのキラキラ。名を持たない光。


その夜、机に向かい、ノートを一冊取り出す。表紙に「キラキラ手帖」と書いた。人の恋の光だけでなく、恋でない光も、書き留めておきたいと思ったから。最初のページに記す。


——体育館に揺れるバスケットゴールの影。外したシュートのあと、誰かが笑って「もう一本」。その笑いに宿る根気の光。

——味噌汁の湯気に溶ける沈黙のやさしさ。

——図書室の秒針が、午後三時ちょうどを越えるとき、一瞬だけ音が軽くなる気がすること。

——“好き”と“好きだったかもしれない”の差を言語化できた瞬間、頬に落ちる影が薄くなること。


書いていくうち、彼女の胸の空洞が、すこしだけ形を変える。空洞は消えない。消えないけれど、縁が滑らかになる。触れても痛まない縁。そこに、ことばが座る場所ができる。



三月、卒業式。先輩たちの背中が順に遠ざかる。体育館の床はワックスで光り、椅子の擦れる音が波のように続く。送辞と答辞の言葉は、それぞれの喉で湿り、空へほどけていく。袴姿の先輩が白い息を吐きながら写真を撮っている。岡崎は壇上で賞状を受け取り、深く頭を下げた。彼の歩き方は、以前よりも落ち着いている。勝ち負けを超えた歩幅。視線が合う。彼は、遠くから、ほんの少し口角を上げた。誰にでも向けた笑みではない、説明のいらない挨拶。橙子は、小さく会釈を返す。


式が終わると、廊下は別れの言葉で満ちる。「元気でね」「またね」「連絡するよ」。嘘も本当も混ざった約束の光。キラキラ手帖に書き写したい瞬間が多すぎて、手帖が足りない。


夕方、校門の前、花束を抱えた佐藤さんが駆けてきた。「ねえ、聞いて! 山田君、……正式に、ね」と頬を紅潮させる。橙子は笑って、彼女の手の花紙に触れる。「おめでとう」。それだけ言って、相手の鼻の頭が少し赤いことに気づく。嬉しさと、怖さと、期待と、不安と。全部が同居している。全部が混ざって、透明になりかけている。透明になりかけているとき、光は一番綺麗だ。そういうとき、橙子は黙る。沈黙が、相手の心の余白の形に合うように。


「ねえ、橙子は?」と問われる。「誰か、いい人いないの?」


「ううん。いない。」


「いつか、できるといいね。」


「いつか、できなくてもいいよ。」


「え?」


「私ね、恋以外の光を集めるの、好きなんだ。集めてるうちに、私の中も、少し光る。……それが“私の”であるなら、十分だよ。」


佐藤さんは首を傾げ、それから、ふわっと笑った。「そういうの、いいね」と言い、花束を抱え直して去っていく。背中が夕陽に溶ける。橙子は、彼女の残した空気の温度を胸に畳んだ。



四月、新学期。新しいクラス、新しい名簿、新しい時間割。教室の換気扇の音、机の木目の違い。橙子は自分の席の高さを微調整し、消しゴムの角の丸みを確かめる。前の席の女子が筆箱から新品のシャープペンを取り出す瞬間、包装フィルムの小さな音がする。誰かの息を飲む音、誰かの心臓の鼓動。音の群れが、春には春の密度で集まる。


「加賀美さん、相談してもいい?」


新しいクラスでも、彼女はやがて見つけられる。恋に関する秘密は、言葉より先に行き場を探すから。行き場を見つけた途端、そこに座り込むから。橙子は受け皿になる。受け皿は、色移りしない。けれど、そこに座ったものの体温は、受け皿にわずかに残る。残った温度が、手帖の紙に移る。


そのうち、噂になる。「加賀美に話すと、楽になる」。噂だけがひとり歩きする危うさも知りつつ、彼女は受け止める量を自分で決めることを学ぶ。無尽蔵ではない。疲れた日は、図書室で本の頁に身を隠す。隠れているのに、三田さんは見つける。「今日はことばを浴びすぎた顔ね」と言い、ハーブティーを淹れてくれる。湯気の上がるカップを両手で包むと、指先に血が戻る。恋ではない光が、帰ってくる。



梅雨、雨脚が強くなる午後。教室の窓を叩く雨粒の連打。休み時間でも廊下に出る人は少ない。そんな日の放課後、岡崎からメッセージが来る。「今日、体育館の照明、全部消して、最後の一本だけ点けて打つんだ。見に来る?」と。彼の言葉に誘われ、橙子は傘を差して校舎へ戻る。体育館は、雨の音を遠ざける広い空。ほんとうに、一灯だけが点いている。弧を描くボールの影、ゴールに当たる乾いた音。外したときも、入ったときも、音の後に必ず、静けさが来る。静けさの種類が違うだけだ。


「どう?」と彼が問う。


「きれい。音が二つあって、その間に、あなたの呼吸がある。」


「呼吸か。」


彼は首筋の汗を手の甲で拭い、ふっと笑う。「この静けさが、好きだ。誰かに好きだって言ってもらえなくても、たぶん俺は、これを好きでい続けられる。……それで、救われる。」


「うん。」


二人の間に、雨音が降り積もる。傘を畳んだときの匂い、床の木の乾いた匂い。恋の話をしないで、好きを共有できる時間。橙子の中で、小さな灯がまた点る。灯の名は、まだない。名がなくても、灯は灯だ。



夏、蝉の声、校舎の白い壁が眩しい。体育館の脇の木陰、ベンチに座って氷を舐める。誰かの恋が終わり、誰かの恋が始まる。終わった人のキラキラは、沈む。沈んだものは、深いところで光り続ける場合がある。光り続けるのに、近くの人には見えないとき、橙子はそこに付き添う。沈む速度を速めないように、手は出さない。けれど、声は出す。「あなたの光は、消えてないよ」と。根拠を求められたら、「私が見てる」とだけ言う。見えているということ自体が、ときに根拠になる。


そのうち、橙子自身にも問う声が生まれる。「私の光は、どこにある?」と。問いは、夏の夜の蚊のように小刻みに耳元に寄ってくる。彼女は、打ち払わない。夜、更けた部屋で扇風機の首振りを目で追いながら、ノートを開く。ページの縁に指を滑らせ、紙の毛羽立ちを感じる。そこに書く。


——“見えている”私を、私自身が信じる練習。

——相手の光を、奪わないこと。磨きもしない。ただ、埃が落ちる場所に置いておくこと。

——私の光は、誰にも説明しないで、私がわかっていればいいときがある。それを許す。


書き終え、ペンを置く。風がカーテンをふくらませ、月の光が畳の目を浅く照らす。彼女は目を閉じる。暗闇の中、微かな粒が浮かび上がる。粒は、恋のキラキラみたいに派手ではない。砂よりも小さく、ほこりよりも重い。名づけるなら、灯素——そう呼びたくなる。灯素は、呼吸のたびに出入りする。出入りに、痛みはない。



二学期の初め、校内合唱コンクールの練習が始まる。音楽室。アルトとソプラノが重なり、男子の出す低音が床板を震わせる。指揮の女子が「もう一回、ここから」と指で印を作る。橙子は、譜面を追い、声を出す。声は得意ではない。けれど、隣の子の息継ぎのタイミングを覚え、寄せていくのは好きだ。寄せていくと、全体の中に居場所ができる。恋でない居場所。居場所にも光がある。椅子の脚が擦るわずかな音、クレッシェンドの前のためらい。そこに、灯素が集まる。


練習の帰り、廊下で新しい一年生が泣いているのを見つける。携帯を握りしめ、顔を伏せている。「大丈夫?」と声をかけると、「大丈夫じゃない」と返ってくる。良い返事だ、と橙子は思う。大丈夫じゃないときに、大丈夫じゃないと言えるのは、光のある証拠だ。


彼女は、相談室に連れて行き、水を渡す。こぼれた話の断片から、好きな人が友だちと付き合い始めたこと、教室の隅で笑い声が針みたいに刺さること、SNSで流れてくる写真が胸に砂を入れること——そういう状況が見えてくる。橙子は、アドバイスを急がない。状況の輪郭を一緒に指でなぞる。「ねえ、あなたが望んでるのは、時間? 距離? 言葉?」と尋ねる。彼女は少し考え、「時間」と答える。「じゃあ、時間に名前をつけよう」と提案する。「“逃げる”じゃなくて、“置いておく時間”。置いておく場所も決めよう。この部屋の、この椅子の下。見えないけど、ここに置いていく、と決める。」


一年生は涙の中で笑い、「そんなの、効くのかな」と言う。「効くときも、効かないときもあるよ」と橙子は正直に言う。「でも、“置く”と決めると、少し楽になるよ。自分の背負ってるものの形が、変わるから。」


帰り際、彼女は椅子の下をちらりと見て、「本当に置いていく」と小さな声で言った。橙子は、心の中で椅子の下に印をつける。そこにも、灯素が落ちる。



冬が深まり、期末テストの白い紙の上に鉛筆の音が積もる。外は冷たい風、手はかじかむ。放課後の図書室は、息の白くならないギリギリの温度。三田さんが湯たんぽを貸してくれる。指先を温めながら、橙子はふと、窓の外を見やる。薄い空に薄い月。月は自分では光らない。それでも、夜を照らす。借りた光で照らす。彼女は、自分の在り方を月に重ねる。光の源じゃなくてもいい。反射で構わない。反射する面をきれいに保つ。曇りがちなら、曇りごと、受け入れる。


「加賀美さん」と三田さんが呼ぶ。「この本、あなたが好きそう」と差し出されたのは、恋の行方が終ぞ決着しない短編集。手にすると、紙の重みが心地よい。表紙の手触りが、冬のセーターみたいだ。「ありがとうございます」と受け取り、席に戻る。読む。言葉が、静かに胸に堆積する。堆積の仕方が好きだ。角度がついて、層ができる。その層に、灯素が染み込む。


読み終えるころ、閉館の音楽が流れる。帰り支度をしながら、橙子は、ページを閉じる音の小ささに驚く。たったそれだけの音で、どれほどの世界が静かに終わるのだろう。終わるたびに、次の始まりがどこかで用意されている。人の恋も、たぶん、同じだ。終わるとき、静かに終われる恋は幸福だ。静かに終われない恋が悪いわけじゃない。ただ、静けさは、贅沢だ。



三学期のある日、ホームルームで、先生が「卒業文集に自由作文を書いてください」と言う。クラスはざわめき、何を書こう、誰に読まれるの、黒歴史にならないように、などの軽口が飛び交う。橙子は、白紙を見つめる。何を書く。自分の役割について書くのは、少し傲慢な気がする。けれど、彼女はペンをとる。「灯の話」と題を置く。書き出す。


——私は、誰かの灯を見てきた。灯は恋の形をとるときが多いけれど、恋じゃない形のときも多い。灯を見るのは、たぶん、私の得意だ。灯を増やすのは、私の役目じゃない。でも、灯が消えないように、風よけになることはできる。ときどき、反射板にもなれる。反射板の銀色の皺が好きだ。皺があるほうが、光は柔らかく広がるから。


書いて、消して、また書く。読み返すと、じぶん宛の手紙みたいだ。手紙でいい。誰かに届かなくてもいい。届いたら、それは、もう、私の手を離れている。


提出の前の日、岡崎からメッセージが来る。「今日、最後の練習。見に来る?」と。体育館の照明はすべて点いている。ボールの音、人の声、靴裏が床を掴む摩擦音。彼は走り、跳び、投げ、外し、また投げる。橙子はベンチに座って、彼の呼吸のリズムを数える。数える行為が、妙に落ち着く。数は、灯素を沈める器になる。


練習の最後、彼は一本、きれいに決めた。音のあとの静けさ。隣の一年が小さく「ナイス」と呟く。彼は頷き、こちらに視線を向ける。視線の端に、あの日と同じ硬い光がある。勝ち負けではない光。橙子は、その光を、手帖の次のページに書き写す。


——勝てなくても、灯る光。負けたからこそ、灯る光。


帰り道、空は澄んでいる。吐く息が白い。星が、まばらに瞬く。星は遠い。遠いのに、見える。その距離の感覚が、不思議だ。手を伸ばしても届かないものが、確かにそこにある。橙子は、自分の空虚を思う。空虚も、そこにある。届こうとしない。届かれようとしない。けれど、見える。見えれば、怖くない。


「加賀美」と背後から呼ぶ声。振り返ると、岡崎が走ってくる。息が上がっている。「これ」と差し出したのは、小さな銀のリフレクター。自転車につけるやつだ。「道路、暗いから。光、反射するから、これ、つけとけよ。」


橙子は笑う。「ありがとう。……反射板、好きなんだ。」


「知ってるよ」と彼は笑い返す。「前、言ってたから。」


手のひらの銀色は軽い。軽いのに、重さがある。意味の重さ。彼女はそれを受け取り、ポケットにしまう。ポケットの中で、指先が銀の皺を確かめる。皺が多いほど、光は柔らかい。柔らかい光は、人の肌に優しい。



卒業式の前日、橙子はひとりで図書室に行く。窓際の席は、いつもと同じ。カーテン、時計、棚。すべてが、少しだけ別れの匂いをまとっている。本を一冊、二冊、撫でるように返却する。「ありがとう」と心の中で言う。三田さんは、カウンター越しに「あなたは、ことばをよく磨く子ね」と言った。「磨く、というより……埃をふき取るくらい」と返すと、「それを磨くと言うのよ」と笑った。笑いの皺が光る。人の皺にも、灯素は宿るのだ、と橙子は思う。


帰りがけ、窓辺に立つ。午後の光が斜めに入り、床に四角を描く。埃が舞い、そのひとつひとつが、小さく光る。キラキラだ。恋ではない。けれど、確かにキラキラ。橙子は、掌をその四角の光に差し出す。掌の上で、埃が揺れる。呼吸に合わせて上下する。美しい。美しいと感じる瞬間に、誰の名前も必要ない。必要ないことは、寂しさではない。自由だ。


彼女は、ゆっくりと目を閉じる。閉じた瞼の裏に、これまで見た無数のキラキラが浮かぶ。山田の、佐藤さんの、岡崎の、あの一年生の、三田さんの、父の。光はそれぞれ違う色と重みを持ち、けれど、どれも明滅するリズムは似ている。生きているリズム。生きていることのリズム。橙子の胸の奥で、小さな灯が、呼吸と同じテンポで点滅する。


——それでいい。


彼女は思う。私の中に生まれる灯は、恋の形ではないかもしれない。けれど、誰かの灯に寄り添い、反射し、風よけになり、置いておく場所を作り、名づけ、書き残す。それを続けていくうちに、私自身も、薄く、確かに、光る。光り方の種類は、ひとつじゃない。


図書室を出る。廊下の窓から、薄桃色の空。校庭の隅、白い梅がほころんでいる。枝の先に、ほんの少しの花。花びらに夕陽が触れる。触れただけなのに、光る。反射だ。反射で十分だ。十分どころか、反射だからこそ、世界は柔らかく照らされる。歩き出す足取りが軽い。ポケットの中で、銀のリフレクターが小さく鳴る。鈴のように。


その音に合わせて、心の中の灯素が踊る。踊りながら、彼女は微笑む。キラキラを生み出せなくても、こうして触れていれば、きっと大丈夫。触れることは、ただ近づくことだけを意味しない。距離を知り、境界を尊び、名もない光に名前を貸すこと——それも、触れることだ。


外に出ると、風が頬を撫でる。空はもう少しで夜になる。最初の星が見える。彼女はそれを見上げ、目を細める。星は遠い。遠いほど、ここにいる自分の輪郭がはっきりする。輪郭の内側は、空洞ではない。空洞と呼んできた場所は、灯素が舞う空間だ。舞うための空間だ。ならば、空洞であるままで、光ればいい。空の、洞の、光——空洞の光。


橙子は、帰路につく。歩幅は一定。視線はまっすぐ。足元の影が長く伸び、街灯の下で一瞬濃くなり、また薄くなる。反射板が車のライトを受けて、かすかに光る。誰かの運転席からは、ほんの一瞬のキラリ。通り過ぎた光は、もう戻らない。戻らないけれど、確かにあった。その確かさが、彼女の背を押す。


——これが、私の生き方だ。


胸の中で、はっきりと言葉になる。言葉は、誰に向けてでもなく、しかし確かに放たれる。放たれた言葉は、夜の空気の中、音もなく浮かび、見えない誰かの頬をそっと照らすだろう。照らしたことを、橙子は知らない。知らなくてもいい。知らないことの中にも、灯素はある。


彼女は歩く。明日もまた、誰かのキラキラを見て、聞き、受け止め、書くだろう。恋の話も、恋じゃない話も、等しく。手帖のページはまだまだ残っている。ページが尽きたら、ノートを増やせばいい。増やしたノートの積み重なりが、彼女の生の重みになる。重みは、ときどき疲れになるが、同時に、歩くための地面にもなる。


見上げると、星が増えていた。増えたのは星ではなく、雲が裂けただけかもしれない。理由は、どちらでもいい。どちらでも、きれいだ。きれいだと思う心が、今ここにある。それだけで、彼女は少し暖かい。暖かさは、灯素が集まる前触れだ。前触れを胸に抱いて、橙子は家の鍵を回す。扉の開く音は、いつも通り。いつも通りの音が、彼女の好きな音だ。好きと呼べるものがある限り、彼女は大丈夫だ。大丈夫でいられる。


そして、明日もまた、彼女は誰かのキラキラに触れる。触れた光が、彼女の内側で小さく瞬く。それを合図に、彼女は微笑む。微笑みは、言葉よりも先に届く。届いた先で、また、誰かの灯が守られる。守られた灯が、また別の誰かを照らす。そんな連鎖の中に、自分がいる——ただそれだけで、橙子の世界は、ゆっくりと、穏やかに、明るい。

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