雨が降って固まるもの
風遥は暫くそのままの姿勢でいたが、控えめなノックの音が聞こえたのでゆっくりと体を起こす。ついで、眼鏡もかけた。
「……どうぞ」
喉の調子が悪いなりにちゃんと聞き取れるレベルの声でそれに応じると、開けたのは香月ではなくレヴァイセンだった。修復が既に完了しているであろう狛犬の擬人化の姿だが、耳は完全に垂れ下がり、表情は暗い。
「…………」
彼は背を少し丸めながら入って来て、伏し目がちに水とお粥が乗ったトレイをそっと風遥の布団の横に置く。
「ありがとうな」
レヴァイセンも明らかに元気が無いようだがひとまずお礼を伝え、風遥はコップに手を取り水を一気に飲む。喉を通過するのに痛みが生じたが、水分を欲していたので体全体としては心地よかった。
ただ、そこから先、どう声をかければいいのかは考えられずにいる。今の正直な気持ちをぶつけるには躊躇うが、かと言って相手を気遣う余力は全く無いからだ。
「「…………」」
レヴァイセンも風遥の隣で正座したまま何も言ってこないので、暫くの沈黙。
梅雨の嫌な湿気を感じながら、ふと壁掛け時計を見てみればもうすぐ8時。部屋の雰囲気からして夜だと思うので、見回りの時間だ。
「今、何時だ?」
「19時58分だ」
念のため確認してみると、レヴァイセンは時計を見る事も無く即座に正確な時間を返してきた。
「なら見回りの時間だな。もう行っていいぞ」
理は雨の影響は受けないので天候は関係ない。多分お互い何か言いたい事はあるはずなのだが、いかんせん精神的な疲労が強すぎる。さっさと食べるものを食べて寝てしまいたいので、風遥はそうレヴァイセンを促す。
「……嫌だ」
「何?」
ところが、数秒の間の後に返ってきたのは否定だったので思わず聞き返す。
「風遥がこんな辛い状況なのに、見回りなんて行けねえ」
「レヴァイセン……!?」
そこでようやくレヴァイセンが風遥を見たのだが、その強い断言に小さく目を丸くする。前は会話をさっさと打ち切ってでも、時間きっちりに出る事を絶対としていたはずなのに。
「見回りは、ソラリスに神守町の方まで範囲を増やしてもらうよう頼んだ。それに万が一を考えると、俺が神社に留まってた方が璞除けになるだろ?」
自身で見回りをしなくてもよい理由を、やや早口に述べるレヴァイセン。
「だから……いても、良いか……?」
「構わないが……」
最後には縋るような目で言われてしまえば、こちらも頷くしかない。
すると狛犬は一瞬だけホッとした表情を見せるも、すぐさま深く頭を下げた。
「……すまねえ、風遥」
「何がだ」
「おめーの事、守れなかった」
「…………」
「何も出来なかった。風遥が目の前ですげー苦しんでるのは分かってるのに……
……何も、出来なかった……!」
レヴァイセンの肩が、声が、小さく震えだす。
ぎゅうう、と服ごと強く握り締めている拳もまた、震えていた。
「でも、最後は自力で抜けられたんだろ?」
そう問えば、レヴァイセンはぶんぶんと首を横に振り、犬耳を大きく揺らした。
「違うんだ、風遥。
俺は、自力では、抜けられてねえんだ……」
「? じゃあ、勝手に緩んだってことか?」
「…………」
レヴァイセンは俯いたまま、何も言わない。
あの触手のような璞もコクトによって操作されている璞だったとするならば、風遥の精神を侵食する方に勤しんで油断したのか、それともわざとか。どちらもあり得る。
あるいは、璞がコクトの支配下に無いにしても、風遥から発せられていたであろう餌に引き寄せられたという事もあるかもしれない。
「まあ、結果的に良かったじゃないか。
あと一歩遅かったら、自分でも何するか分からなかったからな」
「それじゃ駄目だ!!」
なのでフォローしたつもりだったのだが、怒鳴るような声に怯む。勢いよく顔を上げたレヴァイセンは、目を限界まで見開いていた。
「俺は!! 俺がっ! 風遥の事を守るって言ったのに!!」
理とは思えない強い感情の露呈、その剣幕に圧され言葉を飲み込む風遥。
「……また、守れなかった……」
しかしその勢いは一瞬で、またたく間にその表情は緩み、泣きそうに歪んだ。
「やっぱり、ソラリスの言うことは正しかったのかもしれねえ」
「レヴァイセン……」
「でも、でもよっ……! やっぱりおめーの陽使じゃなきゃ、嫌なんだ……」
ぎゅっ、と目を瞑ったレヴァイセンに、信じられない現象を見た――その頬を、一筋の涙が伝っていったのだ!
「!?」
理が、高ぶる感情のままに、泣いている……!? 今度は風遥が目を大きく見開く番となった。
「……だから今、すげー、悔しい……」
悔しいと泣く、その気持ち自体は分かる。が、それは相手が同じ人間であることが前提。『余計な感情を持つことを不要』とし、『人間となれ合うつもりのない』はずのこの種族が、どうして人間の為に泣くと考えられるだろうか?
「自分の無力さが……凄く、悔しいんだ……ッ!!」
そうして風遥があっけにとられている間にも、空色の双眸からはぽろぽろと涙が零れている。
予想外の展開に、先までの暗澹とした気持ちが目の前の理の異変に取って代わられているわけだが、それは些か釈然としないものもあった。
本当は、こっちが神主を辞めたいと思っている胸の内を吐露するはずだったのに、完全に悲嘆的な感情が削がれてしまったのだ。
「なあ、レヴァイセン。
……何であんたが、泣いてるんだ?」
その嗚咽の切れ目を縫うように問えば、全く無自覚だったのか途端戸惑いの表情に変わるレヴァイセン。
「……え……?」
「泣きたいのは、俺の方なんだが」
この場における主導権を握られた事で手元に残ってしまった思いを、やや嫌味な口調でぶつける風遥。
「あ……わ、悪ぃ……!
これ、ど、どうやったら、止められるんだ?」
レヴァイセンはそこでようやく何が起こっているのか把握したか、慌てて目をこすったり袖で拭きとろうとし始めた。
「涙は感情が高ぶってると出やすいから、まずは落ち着く事だな」
そんなレヴァイセンとは対照的に、冷静に伝える風遥。
「落ち着く? 落ち着くにはどうしたらいいんだ?
俺、こんな事、初めてでっ……」
「……深呼吸を」
「深呼吸だな!? よ、よしっ!」
そう言われて狛犬はすーはーと大きな呼吸の音を響かせながら何度も深呼吸を繰り返しているが、呼吸の間隔が速すぎるし早すぎるので落ち着ける効果は薄そうだ。
寧ろ理に人間の身体的な行為が通じるのかどうか分からないわけだが……と思った直後、
「すーっ、げほっ!! ごほっ、ごほっ……」
レヴァイセンが大きくむせ込んだ。
「ふっ……」
慌てて呼吸を繰り返せばそうなるよな、という一種のテンプレを辿った事と、それがよりによって理というその人間らしいギャップがおかしくて。
「っはは、何やってんだ、あんた」
気づけば小さく声を出して笑ってしまっていた風遥を、ギョッとした様子でレヴァイセンが見る。
「……え!? おめー、今笑ったのか?
俺、何か間違ってたか!?」
絵に描いたようなたじろぎっぷりに、風遥の口角は上がりっぱなしになる。
「もっとゆっくり呼吸しろ、それじゃ深呼吸の意味がないぞ」
「へ? あっ、まだ出てるのか!?」
その指摘にレヴァイセンはごしごしと更に目をこするが、涙は止まっているようだった。
「いいや、止まってる」
深呼吸のおかげというよりかは、驚いたことで気持ちが切り替わったのだろう。
「じゃ、じゃあ、今度は風遥が泣く番だな!」
レヴァイセンはどこか安心したように微笑んで頷いたが、そんな気持ちはとっくに消えている。
「……今更泣く気にもなれないが」
「なッ!? お、俺が先に泣いちまったからかー!?」
なのでそうそっけなく告げれば、ショックに目を見開くレヴァイセン。
「正確に言うと、慌ててるあんたを見てたら落ち着いた」
「ッ!? そ、それで良いのかよ、風遥!!」
そう聞かれるも、やはり今更泣くという気にはなれそうにない。
悪夢の中散々苦しんだことについては、レヴァイセンが代わりに泣いてくれたから、もう、いいのだ。
「ああ、構わない。
……聞いてくれるか、俺の話」
だから風遥はそう切り出した。今の感情についての独白は不要になったが、これからの話をするためには、彼に過去の感情の全てを伝える必要があるから。