雪の華
暗い夜のなかを、音もなく、雪の華が降る。
透徹した悲しみと、うつろわざるものへの憧憬を込めて、何よりも白く儚い花が、しんしんと降り積もり、暗い路上をどこまでも白く染め上げていく。
今夜は積もるのかもしれない。
積もってほしい、と私は思う。
今年最初の雪――その光景を眺めながら、私は一年前のことを思い出す。私の隣には、あるひとりの男性がいた。縁のない眼鏡の奥にのぞく、穏やかで、あたたかな、やさしい光――私にとって何よりも大切で、いまはもう失われてしまった、二度と取り返しのつかないもの――私はそのことを考える。
もう一年がすぎたのだと思う。
もう、一年もすぎたのだ。
けれど、記憶のなかの彼は、いまも変わらない姿で、変わらない声で、あのころと変わらずに私に話しかけてくれる。そのことが、とても悲しい。嬉しくもあるけれど、でもやはり、とても悲しい。
あのときも、初雪が降っていた。
冬のさなか、夕暮れ時に、光に満ちた街を包むように、白くまばらな雪が、私たちふたりの頭上に音もなく舞い降りてきた。
「ねえ、積もりそうじゃない?」
私は彼の腕に手を回しながら、無邪気にそう口にする。
彼は笑って首を振る。
「これは粉雪だよ。粒も小さいし、気温だってそんなに低くない。雪っていうのは、地面が十分に冷えていないと、地面に当たった瞬間にすぐ溶けてしまうんだ――見てごらん」
彼はアスファルトの路面を指し示す。
粉雪は地面に触れると、音もなくそこに染み込んでいった。あとには、幽かな光の粒のようなきらめきがわずかながら残るだけだった。そしてそれも、数秒とたたず消えてしまう。
「ほら、もう消えてしまった。儚いね。雪というのは、本当に、人の夢のように儚い」
彼は少しうつむき、悲しそうな顔をした。
はかないという字は、人の夢って書くんだ――いつだったか、彼は私にそう教えてくれた。
私にはそのことが上手く理解できなかった。
「どうして人の夢がはかないの? 夢っていうのは、もっと希望に満ち溢れて、輝かしいものじゃないの?」
私がそう言うと、彼は静かに、やさしい瞳で頷いた。
「君のそういうところが、たまらなく好きだよ」
思えば、彼が私のことをあんなにも素直に、何の留保もなく好きだと言ってくれたのは、あれが最初で最後だったかもしれない。作家を目指していた彼は、いつも自分ひとりの世界に沈み込み、その本音を巧みに覆い隠していた。誰の前でも――私の前でも。
彼の夢は叶ったのだろうか――私はすでに答えの出ている問いを自らの胸に投げかける。
彼の名前はどの文芸雑誌にも載っていない。たとえ名前を変えていたとしても、私に彼の文章がわからないはずはない。わからないはずは、ないのだ。
少し感傷的になった私は、そっと目頭をおさえた。熱いものが指先に触れる。泣くまいと思っていても、それは溢れてくる。とうに涸れたはずだと思っていても、涙というのは涸れることはないのだ。
くすん、と鼻を鳴らし、窓の外を見る。
雪はしんしんと降っている。
粉雪と呼ぶには、わずかながら大ぶりな――まるで牡丹のような――それは、とても艶やかに、確かな存在感を見せて、暗い夜のとばりのなかを、音もなく舞い降りてくる。
彼の言葉がよみがえる。
「地面に落ちた雪が溶ける前に、次の雪が落ちてくる――あまり水分を含んでいない、乾いた雪がいい――その繰り返しで雪は積もるんだ。人間と同じさ。絶え間ない、不断の努力だけが、何事かを成し遂げられるんだ」
連綿として、途切れることのないもの――雪が積もるように、人は何かを積み上げ、そこに確かな足場を築いていく。いつか夢へととどく足場を。
ああ、と私は思う。
この牡丹雪は積もるだろうか?
積もってくれればいい、と思う。夜が明けたとき、薄明のなかに浮かぶ曙光に照らされた、見渡す限りの銀世界が見たい。そしてそれが見られたなら、何かが変わるかもしれない、と思う。
私は窓にカーテンを引く。
電灯を消し、暗いベッドに身を横たえる。
眠りに就こう、と思う。深い眠りに。そして夜が明けて、この雪が積もるころ、朝日の訪れとともに、輝かしい夢を胸に目を覚まそう。今晩はきっと、夢のなかで彼に会える。彼は私を抱きしめてくれるだろう。頭を撫でてくれるかもしれない。寒いね、と彼は言う。雪が降ってるから、と私は言う。彼は笑う。じゃあ、あたためないといけないね。彼のぬくもりが私を包み込み、私は小さく吐息をもらす。