婚約破棄された悪役令嬢ですが、辺境で呪いを祝福に変えています
婚約破棄の場は、まるで舞台のようだった。
白亜の大広間。幾重にも垂れ下がるシャンデリア。宝石と香水の香りに包まれた社交界の中心に、アクヤ・カルディス侯爵令嬢は、ひとり冷たい視線を浴びていた。
咎を告げるのは、この国の第二王子──そして、彼女の婚約者である。
「アクヤ・カルディス侯爵令嬢。君との婚約を、破棄する」
静まり返った空間に、王子の声だけが響く。
まるで待っていたかのように、次々と投げつけられる非難の言葉。傲慢、冷酷、情け知らず。
アクヤは何も言わず、それらをただ受け流す。表情ひとつ変えず、冷ややかな微笑を浮かべて。
「……お好きなように」
その一言が、会場にさらなる沈黙をもたらした。
嘲笑、安堵、そして満足げなため息。
侯爵令嬢が社交界から姿を消す瞬間。誰もが「当然の報い」だと信じて疑わなかった。
だが──その誰もが知らなかった。
彼女の中に、誰にも明かせぬ“恐れ”が潜んでいたことを。
◇◇◇
「明日、辺境の地ターゲテスへ向かってもらう」
父──カルディス侯爵の声は、いつも通り抑揚がない。
その無機質な言葉が、どれほどの隔たりを意味するのか。アクヤには、もう理解できていた。
「……追放、ですか」
「表向きは任地だ。王家の面目を保ちつつ、おまえを遠ざけるには都合が良い」
まるで帳簿でも読むように語る父の姿に、アクヤは胸の奥が冷えていくのを感じた。
昔、父はもっと違った。少なくとも、母が健在だった頃は──。
「わかりました。お受けします」
その返事に、父は何も言わなかった。
ただ、背中を向けたまま手を振る仕草すら見せずに、アクヤとの対話を終えた。
扉の外に出た瞬間、アクヤは小さく息を吐いた。
(予想通り、ね)
冷静に見えていたその内側では、決壊しかけた何かが、必死に保たれていた。
これ以上、誰にも近づかずに済むなら。
誰の感情も受け取らずに済むなら。
それでいい──そう思っていた。
◇◇◇
王都を発ったのは、早朝だった。
窓の外にはまだ霧が残り、世界は色を失っていた。
馬車の車輪が石畳を軋ませる音が、胸の内側で反響しているようだった。
アクヤは小さな鞄を膝に乗せたまま、ふと目を閉じた。
過去の記憶が、静かに甦る。
──母、ロゼッタの笑顔。
あの人は、いつも暖かかった。
アクヤがどんな失敗をしても、決して責めることはなかった。
たった一言、「大丈夫よ」と、頭を撫でてくれた。
その手のひらが大好きだった。
──ある日、空が割れた。
干ばつの大地に雨が降り、村人は歓声を上げた。
その帰り道、母の手はひどく冷たかった。
別の日には、芽吹きのない畑に若葉が揺れた。
だが、母の背中は、少しだけ小さくなっていた。
奇跡のあとには、いつも誰かが疲れていた。
とりわけ、大好きな人ほど──。
向けられる『愛情』が怖くて、『好意』が痛かった。
その日から、アクヤは誰の目も見なくなった。
これは呪い以外の、何物でもない。
アクヤは、ずっとそう思っていた。
だが、それももう必要ない。
(ターゲテスには、私を好いてくれる人なんていない)
誰かに想ってもらうたびに、誰かが苦しんできた。
──もう誰からも想われなくていい。
それが、アクヤにとって唯一の救いだった。
◇◇◇
ターゲテス領に到着したのは、5日ほど経った日が傾き始めた頃だった。
地平線の向こうに、くすんだ山並みが重たく沈み、空は茜と灰の間で揺れていた。
村の入り口に掲げられた看板は傾き、文字の半分は風雨にさらされて判読できない。門柱は片方が崩れ、かつて刻まれていた領地の紋章は無惨に砕け落ちていた。道の端に干された洗濯物すら色褪せていた。
それでも、この場所には“息づく人々の暮らし”が確かにあった。
迎えに来ていたのは、灰色の髪をきっちり後ろで束ねた老人だった。名を、ハロルド・バートラという。
「ご到着、ご苦労様です。……カルディス侯爵令嬢」
低く、くぐもった声。
その声音には、喜びも侮蔑もなかった。ただ、丁寧に塗り重ねられた無関心だけがあった。
「案内を」
「はい、こちらへ」
無駄な会話は一切なく、アクヤは村の中心へと歩き出す。
痩せた土地。割れた井戸の縁。軒先の抜けた屋根、立ち枯れた木々。ゆっくりと、音もなく死に近づいているような土地だった。
道ゆく村人たちの視線が、こちらを向く。
誰も声をかけてはこない。
そして、誰も期待していない。
アクヤは、その沈黙にほっとする自分を感じていた。
(誰も私に、何も望んでいない……)
好意も、敵意も、何もない。
無関心。それはアクヤにとって、もっとも安全な感情だった。
誰かの善意が、自分の力を呼び覚ますきっかけになるくらいなら。
誰からも必要とされないほうが、ずっといい。
この地は、仮面を被らずにいられる場所だ。
あえて嫌われる必要もない。虚勢を張る必要もない。
だからこそ、アクヤは心の底から安堵していた。
(ようやく……少しだけ、息ができる)
初めて素顔のまま、自分でいられる場所に辿り着いた。
それだけで、十分だった。
◇◇◇
それから数日、アクヤは目立たぬように、だが確かに村の中を歩き回っていた。
資料に目を通し、古びた地図を広げ、水脈や耕作地の跡を確認する。
飾らない質素な衣装で、肩書も名乗らずに行動したことで、子どもたちの視線が少しずつ彼女を追うようになった。
そんなある日。
「領主様、こちらです」
案内されたのは、村の外れにある古びた家屋だった。
小さな扉の向こうには、やせ細った少女と、疲れ切った目の女性がいた。
「娘のリリィです。身体が弱く、もう何年も寝たきりで……」
アクヤは黙って頷き、懐から布包みを取り出した。
干し肉、固めのパン、塩茹でした野菜。
「わずかですが。今すぐの支援になります」
「こ、こんな……ありがとうございます、お嬢様……いえ、領主様……」
母親が深々と頭を下げたそのとき、小さな声が布団の中から聞こえた。
「……ありがと、ございます」
震えるような声だった。
だが、その声には確かな温度があった。
アクヤの胸の奥で、何かがかすかに揺れる。
(……やめて)
小さく思ってしまった。嬉しくなどなかった。
怖かった。
それは、まさに『感謝』だった。
危険な、感情だった。
その瞬間──。
部屋の空気が、わずかに揺らいだ。
窓辺にあった鉢植え。枯れかけていた薬草の葉が、ゆっくりと立ち上がり、茎の先に淡い蕾をつけた。
「……え?」
母親が目を見開く。
アクヤは、とっさに立ち上がった。
「……では、これで」
乱れる感情を隠すように、静かにその場を後にした。
◇◇◇
村へ戻る道すがら、アクヤは胸に手を当てたまま、深く息をついた。
あれは確かに、自分の力が反応した兆しだった。
けれど、これまでのように誰かの命を削るほどの奇跡ではなかった。
ほんの小さな感謝に、小さな奇跡。
ふと、心にひとつの想いが浮かぶ。
(……代償なんて、どこにもなかった)
その事実が、驚きよりも、静かな安堵をもたらした。
これまでとは違う何かが、確かにそこにあった。
お母さま──
アクヤは歩みを止め、空を見上げた。
ターゲテスの空は、ゆっくりと夕暮れへと染まり始めていた。
◇◇◇
その日を境に、アクヤはより一層、村の中で過ごす時間を増やした。
肩書を持つ者として、一人の人間として。
水脈の調査、土壌の手入れ、老朽化した建物の補修。すべてを自分の目で見て、手を動かした。
小さな子どもたちは、最初こそ遠巻きに眺めていたが、次第に彼女の後ろをついて歩くようになる。
「領主さま、こっちに面白い花が咲いてるよ!」
やんちゃな少年、フィンが声を張り上げる。
アクヤは苦笑しながらも、その足取りに自然と従っていた。
花畑の跡地に咲いていたのは、名も知らぬ黄色い野草だった。
「これ……枯れてなかったんだ」
フィンの言葉に、アクヤはしゃがみ込み、小さく頷く。
「植物の根は、あきらめない。風が吹き、陽が差せば、また芽を出そうとするの」
「へぇ……なんか、お嬢様っぽい」
「そう?」
思わず返したそのひとことに、自分で驚いた。
子どもの前で、気負わずに言葉を返せた。
それだけで、心の奥がほんのりと温かくなる。
その時、風が吹いた。
足元の草花がさわりと揺れ、小さな光の粒が一瞬だけ舞った。
誰も気づかないほどの、かすかな奇跡。
けれど、アクヤは確かに感じていた。
(……まただ)
誰も苦しまない、小さな奇跡。
それが、ほんの些細な好意や感心から生まれていることに、彼女は徐々に気づき始めていた。
そしてそれは、かつての恐怖とはまったく異なる、優しい光だった。
◇◇◇
村に目に見える変化が現れたのは、それから間もなくのことだった。
傷んでいた畑の一画に新芽が育ち、雨水を集めていた桶に、にごりのない水がたまるようになった。
目に見える奇跡は、確かにあった。
けれど何よりも変わったのは、人々のまなざしだった。
日に日に、アクヤに向けられる視線が変化していくのを、彼女自身が一番敏感に感じ取っていた。
最初はただの無関心だった。
それが、訝しげな好奇心へと変わり──そして今、微かに宿る敬意のようなものへと。
そんなある日。
「……一つ、尋ねてもいいか」
土の匂いが混ざる風の中で、渋い声が背後から届いた。
振り返ると、そこには村長のトーマスが立っていた。
屈強な体躯と、年季の入った手。
アクヤがこの地に来て以来、もっとも強く警戒し、もっとも距離を取ってきた相手だった。
「おまえは、何のために……こんな地で働いている?」
問いかけに込められた感情は、敵意でもなく、責めでもなかった。
ただ純粋な疑問と、少しの戸惑い。そして、ほんの僅かな期待のような気配があった。
アクヤは答えるのに、少しだけ時間を要した。
「私には、“力”があります」
そう言ったとき、自分の声が震えていないことに気づく。
「けれどその力で、私は大切な人を……苦しめました」
目を伏せた。
けれどすぐに、静かに顔を上げる。
「だから、せめてこの地で……人を助ける力に変えたいと思ったんです」
風が一度、静かに吹き抜けた。
そしてトーマスは、小さく──まるで独り言のように呟いた。
「……そうか」
その声には、不思議と重みがあった。
「なら、おまえはもう、この村の人間だ」
ぽつりとそう言って、彼は背を向け、畑の方へと歩き出した。
アクヤは、その言葉を深く胸に刻みながら、穏やかに目を閉じた。
◇◇◇
数日後。
アクヤは教会の片隅に立っていた。
古びた礼拝堂には、今朝も静かな祈りが満ちていた。
扉がきいと音を立てて開き、小さな足音が石畳を踏む。
「りょうしゅさま」
呼びかける声に振り返ると、そこにはリリィの姿があった。
白い肌にわずかな血色が戻り、小さく息を切らしながらも、確かに自分の足で立っていた。
「……歩けるようになったの?」
アクヤの問いかけに、リリィは恥ずかしそうに頷いた。
「うん。まだちょっとだけ、ふらふらするけど……でも、どうしても渡したくて」
そう言って差し出した手には、小さな包み。
「これ、わたし……作ったの」
包みの中には、小さな押し花の栞が入っていた。
「ありがとう」
アクヤはそれを受け取り、そっと微笑んだ。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
あたたかい感情が、胸の奥で膨らんでいく。
何の変化も見られなかった。
だが、教会の外から聞こえてくる歓声が、アクヤの心臓を強く打った。
「おい、見ろよ!──虹だ!」
「すごい……二重の虹よ!」
村人たちの声に導かれ、アクヤは扉を開いた。
澄みきった空には、確かに大きな虹がかかっていた。
それはまるで、誰かの祈りに応えるように──ターゲテスの空を優しく包んでいた。
人々の笑顔。
リリィの小さな手の温もり。
そして、静かに心の内で響く言葉。
小さな感情が、小さな奇跡を呼ぶ。
大きな気持ちは、ほどほどの奇跡に。
……でも、欲張ればきっと、代償もある。
それでも──もう、私は恐れない。
ここは、呪いを祝福に変える場所。
アクヤ・カルディスは、仮面を脱ぎ去り歩き出す。
──これは、終わりではない。
ここから始まる、新しい物語の一歩。
──了
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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