表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

婚約破棄された悪役令嬢ですが、辺境で呪いを祝福に変えています

作者: 錆猫てん

 婚約破棄の場は、まるで舞台のようだった。


 白亜の大広間。幾重にも垂れ下がるシャンデリア。宝石と香水の香りに包まれた社交界の中心に、アクヤ・カルディス侯爵令嬢は、ひとり冷たい視線を浴びていた。


 咎を告げるのは、この国の第二王子──そして、彼女の婚約者である。


 「アクヤ・カルディス侯爵令嬢。君との婚約を、破棄する」


 静まり返った空間に、王子の声だけが響く。


 まるで待っていたかのように、次々と投げつけられる非難の言葉。傲慢、冷酷、情け知らず。


 アクヤは何も言わず、それらをただ受け流す。表情ひとつ変えず、冷ややかな微笑を浮かべて。


 「……お好きなように」


 その一言が、会場にさらなる沈黙をもたらした。


 嘲笑、安堵、そして満足げなため息。


 侯爵令嬢が社交界から姿を消す瞬間。誰もが「当然の報い」だと信じて疑わなかった。


 だが──その誰もが知らなかった。


 彼女の中に、誰にも明かせぬ“恐れ”が潜んでいたことを。


 ◇◇◇


 「明日、辺境の地ターゲテスへ向かってもらう」


 父──カルディス侯爵の声は、いつも通り抑揚がない。


 その無機質な言葉が、どれほどの隔たりを意味するのか。アクヤには、もう理解できていた。


 「……追放、ですか」


 「表向きは任地だ。王家の面目を保ちつつ、おまえを遠ざけるには都合が良い」


 まるで帳簿でも読むように語る父の姿に、アクヤは胸の奥が冷えていくのを感じた。


 昔、父はもっと違った。少なくとも、母が健在だった頃は──。


 「わかりました。お受けします」


 その返事に、父は何も言わなかった。


 ただ、背中を向けたまま手を振る仕草すら見せずに、アクヤとの対話を終えた。


 扉の外に出た瞬間、アクヤは小さく息を吐いた。


 (予想通り、ね)


 冷静に見えていたその内側では、決壊しかけた何かが、必死に保たれていた。


 これ以上、誰にも近づかずに済むなら。

 誰の感情も受け取らずに済むなら。


 それでいい──そう思っていた。


 ◇◇◇


 王都を発ったのは、早朝だった。


 窓の外にはまだ霧が残り、世界は色を失っていた。


 馬車の車輪が石畳を軋ませる音が、胸の内側で反響しているようだった。


 アクヤは小さな鞄を膝に乗せたまま、ふと目を閉じた。


 過去の記憶が、静かに甦る。


 ──母、ロゼッタの笑顔。


 あの人は、いつも暖かかった。

 アクヤがどんな失敗をしても、決して責めることはなかった。


 たった一言、「大丈夫よ」と、頭を撫でてくれた。


 その手のひらが大好きだった。


 ──ある日、空が割れた。


 干ばつの大地に雨が降り、村人は歓声を上げた。

 その帰り道、母の手はひどく冷たかった。


 別の日には、芽吹きのない畑に若葉が揺れた。

 だが、母の背中は、少しだけ小さくなっていた。


 奇跡のあとには、いつも誰かが疲れていた。

 とりわけ、大好きな人ほど──。


 向けられる『愛情』が怖くて、『好意』が痛かった。

 その日から、アクヤは誰の目も見なくなった。


 これは呪い以外の、何物でもない。

 アクヤは、ずっとそう思っていた。


 だが、それももう必要ない。


 (ターゲテスには、私を好いてくれる人なんていない)


 誰かに想ってもらうたびに、誰かが苦しんできた。


 ──もう誰からも想われなくていい。


 それが、アクヤにとって唯一の救いだった。


 ◇◇◇


 ターゲテス領に到着したのは、5日ほど経った日が傾き始めた頃だった。


 地平線の向こうに、くすんだ山並みが重たく沈み、空は茜と灰の間で揺れていた。


 村の入り口に掲げられた看板は傾き、文字の半分は風雨にさらされて判読できない。門柱は片方が崩れ、かつて刻まれていた領地の紋章は無惨に砕け落ちていた。道の端に干された洗濯物すら色褪せていた。


 それでも、この場所には“息づく人々の暮らし”が確かにあった。


 迎えに来ていたのは、灰色の髪をきっちり後ろで束ねた老人だった。名を、ハロルド・バートラという。


 「ご到着、ご苦労様です。……カルディス侯爵令嬢」


 低く、くぐもった声。


 その声音には、喜びも侮蔑もなかった。ただ、丁寧に塗り重ねられた無関心だけがあった。


 「案内を」


 「はい、こちらへ」


 無駄な会話は一切なく、アクヤは村の中心へと歩き出す。


 痩せた土地。割れた井戸の縁。軒先の抜けた屋根、立ち枯れた木々。ゆっくりと、音もなく死に近づいているような土地だった。


 道ゆく村人たちの視線が、こちらを向く。


 誰も声をかけてはこない。


 そして、誰も期待していない。


 アクヤは、その沈黙にほっとする自分を感じていた。


 (誰も私に、何も望んでいない……)


 好意も、敵意も、何もない。


 無関心。それはアクヤにとって、もっとも安全な感情だった。


 誰かの善意が、自分の力を呼び覚ますきっかけになるくらいなら。

 誰からも必要とされないほうが、ずっといい。


 この地は、仮面を被らずにいられる場所だ。


 あえて嫌われる必要もない。虚勢を張る必要もない。


 だからこそ、アクヤは心の底から安堵していた。


 (ようやく……少しだけ、息ができる)


 初めて素顔のまま、自分でいられる場所に辿り着いた。


 それだけで、十分だった。


 ◇◇◇


 それから数日、アクヤは目立たぬように、だが確かに村の中を歩き回っていた。


 資料に目を通し、古びた地図を広げ、水脈や耕作地の跡を確認する。


 飾らない質素な衣装で、肩書も名乗らずに行動したことで、子どもたちの視線が少しずつ彼女を追うようになった。


 そんなある日。


 「領主様、こちらです」


 案内されたのは、村の外れにある古びた家屋だった。


 小さな扉の向こうには、やせ細った少女と、疲れ切った目の女性がいた。


 「娘のリリィです。身体が弱く、もう何年も寝たきりで……」


 アクヤは黙って頷き、懐から布包みを取り出した。


 干し肉、固めのパン、塩茹でした野菜。


 「わずかですが。今すぐの支援になります」


 「こ、こんな……ありがとうございます、お嬢様……いえ、領主様……」


 母親が深々と頭を下げたそのとき、小さな声が布団の中から聞こえた。


 「……ありがと、ございます」


 震えるような声だった。


 だが、その声には確かな温度があった。


 アクヤの胸の奥で、何かがかすかに揺れる。


 (……やめて)


 小さく思ってしまった。嬉しくなどなかった。


 怖かった。


 それは、まさに『感謝』だった。


 危険な、感情だった。


 その瞬間──。


 部屋の空気が、わずかに揺らいだ。


 窓辺にあった鉢植え。枯れかけていた薬草の葉が、ゆっくりと立ち上がり、茎の先に淡い蕾をつけた。


 「……え?」


 母親が目を見開く。


 アクヤは、とっさに立ち上がった。


 「……では、これで」


 乱れる感情を隠すように、静かにその場を後にした。


 ◇◇◇


 村へ戻る道すがら、アクヤは胸に手を当てたまま、深く息をついた。


 あれは確かに、自分の力が反応した兆しだった。


 けれど、これまでのように誰かの命を削るほどの奇跡ではなかった。


 ほんの小さな感謝に、小さな奇跡。


 ふと、心にひとつの想いが浮かぶ。


 (……代償なんて、どこにもなかった)


 その事実が、驚きよりも、静かな安堵をもたらした。


 これまでとは違う何かが、確かにそこにあった。


 お母さま──


 アクヤは歩みを止め、空を見上げた。


 ターゲテスの空は、ゆっくりと夕暮れへと染まり始めていた。


 ◇◇◇


 その日を境に、アクヤはより一層、村の中で過ごす時間を増やした。


 肩書を持つ者として、一人の人間として。


 水脈の調査、土壌の手入れ、老朽化した建物の補修。すべてを自分の目で見て、手を動かした。


 小さな子どもたちは、最初こそ遠巻きに眺めていたが、次第に彼女の後ろをついて歩くようになる。


 「領主さま、こっちに面白い花が咲いてるよ!」


 やんちゃな少年、フィンが声を張り上げる。


 アクヤは苦笑しながらも、その足取りに自然と従っていた。


 花畑の跡地に咲いていたのは、名も知らぬ黄色い野草だった。


 「これ……枯れてなかったんだ」


 フィンの言葉に、アクヤはしゃがみ込み、小さく頷く。


 「植物の根は、あきらめない。風が吹き、陽が差せば、また芽を出そうとするの」


 「へぇ……なんか、お嬢様っぽい」


 「そう?」


 思わず返したそのひとことに、自分で驚いた。


 子どもの前で、気負わずに言葉を返せた。


 それだけで、心の奥がほんのりと温かくなる。


 その時、風が吹いた。


 足元の草花がさわりと揺れ、小さな光の粒が一瞬だけ舞った。


 誰も気づかないほどの、かすかな奇跡。


 けれど、アクヤは確かに感じていた。


 (……まただ)


 誰も苦しまない、小さな奇跡。


 それが、ほんの些細な好意や感心から生まれていることに、彼女は徐々に気づき始めていた。


 そしてそれは、かつての恐怖とはまったく異なる、優しい光だった。


 ◇◇◇


 村に目に見える変化が現れたのは、それから間もなくのことだった。


 傷んでいた畑の一画に新芽が育ち、雨水を集めていた桶に、にごりのない水がたまるようになった。


 目に見える奇跡は、確かにあった。


 けれど何よりも変わったのは、人々のまなざしだった。


 日に日に、アクヤに向けられる視線が変化していくのを、彼女自身が一番敏感に感じ取っていた。


 最初はただの無関心だった。

 それが、訝しげな好奇心へと変わり──そして今、微かに宿る敬意のようなものへと。


 そんなある日。


 「……一つ、尋ねてもいいか」


 土の匂いが混ざる風の中で、渋い声が背後から届いた。


 振り返ると、そこには村長のトーマスが立っていた。


 屈強な体躯と、年季の入った手。


 アクヤがこの地に来て以来、もっとも強く警戒し、もっとも距離を取ってきた相手だった。


 「おまえは、何のために……こんな地で働いている?」


 問いかけに込められた感情は、敵意でもなく、責めでもなかった。


 ただ純粋な疑問と、少しの戸惑い。そして、ほんの僅かな期待のような気配があった。


 アクヤは答えるのに、少しだけ時間を要した。


 「私には、“力”があります」


 そう言ったとき、自分の声が震えていないことに気づく。


 「けれどその力で、私は大切な人を……苦しめました」


 目を伏せた。


 けれどすぐに、静かに顔を上げる。


 「だから、せめてこの地で……人を助ける力に変えたいと思ったんです」


 風が一度、静かに吹き抜けた。


 そしてトーマスは、小さく──まるで独り言のように呟いた。


 「……そうか」


 その声には、不思議と重みがあった。


 「なら、おまえはもう、この村の人間だ」


 ぽつりとそう言って、彼は背を向け、畑の方へと歩き出した。


 アクヤは、その言葉を深く胸に刻みながら、穏やかに目を閉じた。


 ◇◇◇


 数日後。


 アクヤは教会の片隅に立っていた。


 古びた礼拝堂には、今朝も静かな祈りが満ちていた。


 扉がきいと音を立てて開き、小さな足音が石畳を踏む。


 「りょうしゅさま」


 呼びかける声に振り返ると、そこにはリリィの姿があった。


 白い肌にわずかな血色が戻り、小さく息を切らしながらも、確かに自分の足で立っていた。


 「……歩けるようになったの?」


 アクヤの問いかけに、リリィは恥ずかしそうに頷いた。


 「うん。まだちょっとだけ、ふらふらするけど……でも、どうしても渡したくて」


 そう言って差し出した手には、小さな包み。


 「これ、わたし……作ったの」


 包みの中には、小さな押し花の栞が入っていた。


 「ありがとう」


 アクヤはそれを受け取り、そっと微笑んだ。


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


 あたたかい感情が、胸の奥で膨らんでいく。


 何の変化も見られなかった。


 だが、教会の外から聞こえてくる歓声が、アクヤの心臓を強く打った。


 「おい、見ろよ!──虹だ!」


 「すごい……二重の虹よ!」


 村人たちの声に導かれ、アクヤは扉を開いた。


 澄みきった空には、確かに大きな虹がかかっていた。


 それはまるで、誰かの祈りに応えるように──ターゲテスの空を優しく包んでいた。


 人々の笑顔。


 リリィの小さな手の温もり。


 そして、静かに心の内で響く言葉。


 小さな感情が、小さな奇跡を呼ぶ。

 大きな気持ちは、ほどほどの奇跡に。

 ……でも、欲張ればきっと、代償もある。


 それでも──もう、私は恐れない。


 ここは、呪いを祝福に変える場所。


 アクヤ・カルディスは、仮面を脱ぎ去り歩き出す。


 ──これは、終わりではない。


 ここから始まる、新しい物語の一歩。


 ──了

最後まで読んで頂きありがとうございました。

評価、感想を頂けるととても嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ