急転
砂浜の駐車場に着いたのは、あれからちょうど10分後のことだった。
車を停め、ドアを開けると、夜風が肌をなでていった。
街灯の光が、まばらに地面を照らしている。頼りないその灯りだけが、闇の中の目印だった。
俺は明智に連絡を入れる。
返ってきたのは短い言葉。
『ものけの空だ』
明智が言っていた桟橋は、ビーチの端、砂浜が途切れる先にあった。
コンクリート製の細い桟橋の先には、中型のボートが静かに係留されている。
その脇に、明智の姿があった。タバコをくゆらせながら、黙って海を見つめている。
「手荒い真似をされてなきゃいいんだが」
そう言って、明智は片手で文菜のバッグを差し出した。
持った瞬間、手のひらが冷たくなる。まるで、その重みが直接胸にのしかかるようだった。
喉の奥に苦いものがこみ上げるのを、無理やり押し込める。
顔を上げ、奥歯を噛みしめる。
こんな状況でも星の瞬きは変わらない。
「……五月も義兄の姿もないってことは……」
俺は話しながら明智の顔を見る。
「一緒に連れ去られた。場所は……奥宮か?」
明智は闇に向かって煙を吐く。
「……ああ、おそらく。義兄が油断したのは、俺の“偽物”を見たからだろう」
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
ディスプレイには義兄の名前。
「もしもし、義兄さん?」
『諒か……一大事だ。理由は分からんが、文菜ちゃんと飛田五月という女性が、お前にそっくりな奴に連れ去られた』
「ああ、知ってる……」
俺は、文菜のスマホから会話を聞いていたことを簡潔に説明する。
状況は既に把握していると。
「で、義兄さんは今どこに?」
『砂浜の駐車場、車の中だ。だが、なんなんだ、あのお前にそっくりなアイツは……』
「今、桟橋にいるから、そっちに戻るよ」
通話を終えた俺に、明智がぽつりとつぶやく。
「じゃあ、連れ去られたのは二人」
その声は風に溶け、闇の海に吸い込まれていった。
「とりあえず、義兄さんのところへ戻ろう」
波の音が、ひたひたと足元に忍び寄る。
遠くで車が一台、静かに通り過ぎていった。
駐車場に戻ると、義兄は車体にもたれ、腕を組んだまま考え込んでいた。
街灯の下で見るその横顔には、焦燥よりも冷静さが浮かんでいる。
そして、外傷はなさそうだった。
俺の車――実際には叔父の車だが――
大の男が三人乗り込むと、思った以上に車内は窮屈に感じた。
「連れ去った目的はなんだ?」
助手席の明智が、前を向いたまま低く問いかける。
返そうとした言葉が、喉の奥で引っかかる。
正直、俺は答えたくなかった、文菜のことだから。
その理由が、自分にとってはおぞましすぎて言葉に乗せたくない。
出来れば考えたくもない。
「……いずれにせよ、奥宮へ急ぎたい」
唇がようやく絞り出したその言葉に、明智は眉をわずかに動かした。
「場所はそこに絞って平気なのか?」
後部座席の義兄が身を乗り出してくる。
眉間には皺が寄り、目は真っすぐ俺を見据えていた。
「うん。間違いはないと思う」
俺は、文菜に関すること以外の知り得た情報を説明した。
それを聞いて義兄は小さく頷く。
「そうか。……もうすでに五月と接触してたのか。昼間、お前が俺に訊いてきただろ? 根本義信と一緒にいた女性が誰かって」
静かに、しかし確信をもって義兄は言う。
「さすがに、あれには答えようがなかった。何せ、公私ともに接点を持っている女性は多い。特定するなら写真でもなければな……それくらいのこと、お前なら百も承知だと思っていた」
苦笑めいた声音。
「義兄さんは、どこで五月と繋がりを持ったの?」
「ああ。……五月の方から接触してきた。一昨日の朝。ある人物を介して、だが」
「ある人物?」
「瀬田町の西龍寺って寺の住職が、急に訪ねてきた。で、五月の連絡先を渡された。……でもさっきの五月、文菜ちゃんに瓜二つだった。あれも──お前の偽物と何か関係があるのか?」
「え……?」
そのときだった。
ブウッ……ブウッ……。
またスマホが震えた。
今度は慎哉からの連絡だ。
『彼女を乗せた車は山王神社。至急来てほしい』
「慎哉からだ。山王神社」
「よし」
義兄は言葉少なに、しかし鋭く反応すると、後部座席のドアを勢いよく開けて飛び出した。
車外に出た姿はすでに戦う覚悟を決めた者のそれだった。
バタン――。
閉まったドアの音を合図に、俺はアクセルを強く踏み込む。
車は唸るようにアスファルトを嚙んで前へ進む。
さっきよりは道路の流れもましだった。
「これって、罠じゃないのか?」
明智は顎を手で撫でながら首をひねる。
「どういう意味?」
「いや、あんたをおびき寄せるための」
あながち間違ってはいない、むしろ狙いは俺。
文菜の秘密を知らなければ、当然、行きつく推理。
ただ、儀式には文菜がいても、祭主たる者、すなわち俺がいないと復活の意味がない。
「だとしても……」
明智は腕を組む。
俺は運転に集中した。
おそらく明智は思考の海へダイブしている。
車は長い峠道を越えて瀬田町へ入る。
なだらかな下り坂を進む。
左手にある大きなため池のほとりに添って走っている頃、明智が口を開いた。
「もしかして、文菜さんも、狙いの一つか?」
明智の視線を頬で受ける。
こちらの反応を読もうとしているの明らか。
「言いたくないなら、それで構わん」
何かを察しての明智なりの配慮。
でなければ、追及を諦めることはしないだろう。
「どうして、そう思う?」
「簡単さ、五月という女が、どういう手品を使ったのか知らんが、文菜さんに容姿を似せた理由。発信機が仕込まれていた事実。だろ?」
俺は黙って頷いた。
「おい、そこ右」
ナビの指示とは異なる道を、明智が示す。
「近道だ、急ごう」
島育ちの俺より道に詳しいその案内に、俺はわずかに首を振った。
こんな状況でも、驚かされるばかりだ。
バックミラーに映る、真後ろのヘッドライトもしっかりついてきている。
何か大事なことを、考えなければいけなかった気がするのに──
今は記憶の糸を手繰る余裕すらなかった。
ただ、慎哉から連絡が来たという事実が、唯一の救いだった。
少なくとも慎哉は、文菜の近くにいる。
それだけが、今の俺にとって僅かな希望だった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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