逸る想い、焦る心
相変わらず、車は少し走っては止まるの繰り返し。
文菜には「あと10分」と言ったけれど、どうやら、もう少しかかりそうな気配だった。
よりによって、こんな時に──。
開けた窓から潮の匂いが微かに入り込んでくる。
車内に漂うタバコの煙と混ざって、どこかざらついた空気が肺の奥を撫でた。
俺の気持ちとは裏腹な、穏やかな波の音が聞こえる。
助手席では明智が黙ったまま、ナビと前方の様子を交互に見ている。
静かだが、獲物を見据える猛獣のように気配は鋭い。
センターコンソールに置かれたスマホから伸びるイヤホンを明智と分け合い耳に着けている。
そこからは、断続的に文菜と五月の会話が流れていた。
『五月さんは、どうしてあそこにいたんですか?』
『たまたまよって言いたいけど……ある人と会うためよ』
文菜の声はわずかに震えていたが、言葉を慎重に選びながら話しているのが伝わってくる。
怯えながらも、冷静さを保とうとしている。そんな文菜の姿が頭に浮かぶ。
『ある人?』
『そんな事より、彼に似てる人を見たのは間違いないのね?』
『……はい……あの人、本当に諒くんにそっくりだったんです』
『分かるわ。私も最初見たとき、驚いたもの』
『……あの人、誰なんでしょう……』
『根元宗顕が、自らの秘術で生み出した人形よ』
『……人形?』
『そう、ただの従順なしもべ、それだけ』
『……あの、私の友達が諒くんの……怨霊の力を封じる、お守りを持ってるみたいなんですけど、ご存知ですか?』
『友達?……ああ、玲美ちゃん、ってことは洋一……」
『知ってるんですか?』
五月の声にわずかな間があった。
その後、低く抑えた声で告げる。
『確かに、そういうものは存在してた。けど、少し違うわ。正確には“彼に”ではなく、“根本的な封印”を維持するためのもの……』
『根本的な?』
『でも、変ね……それはもうないはずだし、あなたを引き付ける口実に使ったにせよ……』
そこで、五月の声がふっと低くなった。
『……しっ』
静寂。
耳をすませると、わずかな衣擦れと呼吸の音。
ハンドルを握る手に力が入る。
『……つけられてた……文菜さん、バック見せて』
『え、あっ……』
ガサガサとバッグの中を探る音。
次いで、文菜の怯えた声。
『これって……?』
『発信機……やられたわ』
急速に頭から血の気が引いていく。
指先がハンドルを強く握りしめる。
『え?』
『非常に……まずい状況ね』
五月の口調は抑え気味だが、声が大きく聞こえるという事は、文菜の近くにいるのだろう。
『文菜さん……私があなたに彼と別れろって言ったのは本心よ……もし、最悪の事態の場合、一番辛いのは、あなただから……』
『え?』
『まあ、時間稼ぎくらいは、私にも出来るかな』
『え?……え?……さ……つき……さん?』
ブレーキから足を離し、車をわずかに前に滑らせる。
助手席の明智がちらりと俺を見て、表情を引き締めると前傾姿勢になり、ダッシュボードの上に手を乗せた。
「あと少しで着く」
フロントガラス越しに、オリーブ公園の案内板が見えた。
夕焼けの名残が空の端に残っている。
もうすぐ夜が降りる。
──そのときだった。
カン、カン。
ノック音。
『飛田さん?』
微かに聞こえる男の声……聞き覚えのある声。
『……なんだ、あなただったの、わざわざ、すまないわね』
吐息交じりの五月の口調……だが、それはどこか文菜の声にも似ている。
ドアの開閉音。
『あっ……』
これは文菜の声だ。
『いやいや、これはどういう事……ですかな』
義兄の声……で、間違いない。
ふうっー、大きくため息が出た。
義兄が傍にいてくれれば心強い。
それにしても、五月が会う予定だった人物が、義兄だったとは――
俺は思わず首を振った。
『弓削さん、発信機があったの、車あるかしら?』
『分かりました……』
その直後、わずかに間があった。
『……ふむ』
低く息を吐くような義兄の声。
『ちょっと似すぎじゃないか、君たち……』
言葉の意味は分からなかった。
けれど、その声の奥にある驚きと戸惑いを、俺は僅かに感じ取った。
『じゃあ、行きましょう』
義兄の声の後に、ガサガサと雑音が入る。
ノイズが続く中。
『おう、諒じゃないか……』
まさか!?
次の瞬間。
バサッ、ガタンッ。
鈍い響き。
『っ……!?』
五月の声。
そして、直後に短く押し殺したような文菜の息。
「文菜?」
俺が声をかけると、スマホから返ってきたのは──
『や、やめて……っ、いや……!』
文菜の叫び。
ハンドルを握り直す手が汗ばんでいる。
心臓の鼓動が喉元までせり上がってくる。
スマホから聞こえてきたのは――
波の音。
そこにかぶさる微かな足音と、軋む床板のきしみ。
『……どういうことだ? どっちが……』
低く、冷ややかな声。
怒気を抑えた男の声──どこかで聞き覚えがある。
誰だ……?
『やめてっ!』
五月の叫び?いや文菜か?
続けざまに、何かが倒れるような音が響いた。
音が乱れたスマホの向こう、最後に届いたのは──
『……諒くん! たすけ……っ!』
プツン。
通話は唐突に、無慈悲に途切れた。
「切れた……!」
叫ぶと同時に、明智が助手席のドアに手をかける。
「ボートだろ。桟橋にいるはず──先に行く」
明智は走る車の扉を開けると、すばやく飛び降りた。
歩道に着地し、そのまま音も立てずに走り去る。
「くそっ……!」
俺は拳で額を叩いた。
車はのろのろと進んでいく。
こんな時に、どうして、こんなにも遠いんだ──。
文菜……。
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