頼りになる男
文菜に連絡をしてから、しばらく運転席でじっとスマホを見つめていた。
ハンドルに手を添えたまま、画面に映し出されたツーショットの写真――
ほほ笑む文菜の顔が、じわりと胸を締めつけてくる。
けれど、その穏やかな笑顔を見ていながらも、頭の中には、さっき五月が告げたあの薄気味の悪い言葉が、いつまでもぐるぐると、とぐろを巻いてこびり付く。
「文菜さんは“器”。ある人物の子を宿し、蘇らせるための……」
思い返すだけでも、身の毛がよだつ。
目を閉じて、奥歯をグッと噛みしめる。
どうして文菜なんだ……
手の中のスマホが震えた。
明智からの着信。
一度深く息を吸ってから、タップする。
「もしもし」
少し声が上ずった。
『ん?どうした?もう話は終わったんだろ?』
一瞬、きっと俺の声の変化に気付いたような反応をした。
「ああ、そうだった。すまない、ちょっとこれから文菜を迎えに行く、話はそれからでもいいか?」
『んー、今どこだ?』
「ベイリゾートホテルの駐車場だけど」
『ちょっと待っててくれ』
ツー、ツー。
ツー、ツー……。
無機質な通話終了音だけが耳に残った。
頭をシートにもたせ、虚空を見つめる。
車内にはエアコンの風が静かに流れていて、それだけが現実に戻してくれる。
ふと、運転席のドアがノックされた。
窓越しに、明智の顔。
わずか数分で現れた。
助手席のロックを外すと、彼は無言でドアを開け、ひと動作で乗り込んでくる。
シートベルトを締めると、体をぐっとこちらへ寄せ、低く命じた。
「出せ」
俺は軽く両手を挙げ、苦笑気味にハンドルを握り直す。
車をゆっくりと発進させた。
ホテルの敷地を抜け、黒塗りの壁が連なる古い醤油工場の脇を走り抜ける。
傾きかけた陽の光が、路面に長い影を引いていた。
空はうすぼんやりとした琥珀色に染まりつつあり、道路には家路を急ぐ車がまばらに連なっていた。
赤信号で止まる。
明智が、視線を前に向けたまま、ぼそりと呟く。
「……で、何があった」
その声は、あくまで穏やかだったが、内側に鋭さが潜んでいた。
「……ああ、あなたが言っていた通りだったよ」
明智は深く息をついてから、腕を組み、無言で考えに沈んだ。
その横顔には、静かな怒気にも似た苛立ちがわずかに滲んでいるように見えた。
結局、島に戻ってきたかどうかなんて、関係なかったんだ――
そう思う。
逃げようが身を隠そうが、すでに始まっている。
島を離れることで何かが変わるのなら、一時しのぎでもいい。
たとえ、それが泡沫の夢だとしても。
この沈黙の中で、明智が俺の腹の内を探っていることは、痛いほどわかる。
いや、もう全部気づかれているのかもしれない。
前の車がゆっくりと動き出し、間延びしたブレーキランプが赤くまたたく。
「……いいだろ。明日か?」
明智の問いに、俺は黙って頷いた。
この、たった数分間の思考で。
どのようしてこの結論に結び付けたのか、問い掛けたかったが、意外と答えは簡単に導けるのかもしれない。
導き出すのは、単純な方程式。
そこに「文菜」という存在を加えるだけで、答えは自然と決まる。
守りたい。――それだけのことだった。
「えーと、午後一番でお願いしたい」
「ん?……まあいい。俺が二人分、手配しよう」
朝一番じゃなくて、午後という言葉が引っかかったのだろう。
「……すまない」
「いいって。ようは、文菜さんが関わってるわけか……」
苦笑いが漏れる。
わかりやす過ぎる、俺の動機。
「今となっては遅いかもしれんが……」
「なに?」
「ああ、例の飛田五月。尾行したんだが……もう知ってるか?根元家にかなり近い人物だな。本家に入って行った」
フッと明智は鼻で笑う。
「あの女、俺が尾行してるのに、はなから気づいていた。それでも、おかまいなしだったよ」
明智は鼻を鳴らして、再び腕を組み直した。
「そう……」
「そんな人物が、あんたや文菜さんに接触してきたという事は、核心に近い事を聞いたんだろ?」
「まあね。話は落ち着いてからでもいいか?」
「ああ、かまわん。ただ、あんたにそっくりなアイツは何者だ?」
明智は身体をまったく動かさず、視線だけで俺を見た。
あの無表情の奥にある、探るような眼差し。
俺はハンドルを握る手に力を込めたまま、静かに答える。
宗顕が駆使している術――“人形”の話。
意識を操作する、禁呪と呼ばれる妖しい術の存在。
話し終えると、明智はふっと肩の力を抜いた。
「アハハ。なるほどな……意識を操作か……なら納得というのもおかしな話だが……お手上げだ」
その笑いは、どこか諦めに近い、乾いたものだった。
湾沿いの道に出ても、車列はなかなか途切れなかった。
傾き始めた陽が海面に反射して、窓の外は金色の波で満たされている。
日が暮れる直前のこの時間帯は、どこか切ない。
海の向こうに浮かぶ島影が、夕靄の中に溶けかかっていた。
ハンドルを握る手に力が入る。
予定より少し遅れそうだった。
それでも――今は焦らない。
いや、焦っても意味がない。文菜に会えば、まずはそれでいい。
それだけを心に据えて、俺は前を見つめていた。
助手席の明智は黙ったままスマホを操作していたが、やがて「よし」と呟いて画面を閉じた。
そして、無造作にスマホをポケットに戻しながら、口を開いた。
「手配は完了。14時瀬田港発のフェリー、そこから直行で羽田。16時30分発の便を取った」
「……感謝してる。ありがとう」
率直な言葉しか出てこなかった。
それしか言えなかった。
「礼ならいらん。ただ……」
言いかけて、明智の声が少しだけ低くなった。
前を向いたまま、腕を組む仕草はいつもの彼らしかったが、その言葉の裏にあるものは、いつになく重かった。
「ひとつ、だけ言わせてくれ」
「……ああ」
「これは、あんたの選択だ。その選択を――いいものにしろ。何があっても、決して諦めるな。文菜さんのことも、自分自身のこともだ」
その言葉に、不意を突かれる。
視界がにじむわけではない。ただ、体の奥のそのまた奥に何かがしんと沈んだ。
明智の横顔が夕陽に照らされ、オレンジ色の輪郭を帯びている。
眉間には皺ひとつ寄っていないが、目元だけがかすかに緩んでいた。
いつもの無表情とは違う、わずかな――情が、そこにあった。
「……わかった」
それだけを返して、俺は前に進んだ。
海沿いの道は、ようやく少しずつ流れ出している。
山の稜線の向こうへ、陽が今まさに沈もうとしていた。
まるで今日という時間が、幕を引こうとしているかのように。
けれど――
まだ、終わらせない。
俺の中にあるすべてを賭けても、文菜だけは、守る。
静かにアクセルを踏み込んだ。
車は夕暮れの海沿いを、ゆっくりと滑るように走り出す。
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