揺れる心
楽しい時間が過ぎるのは、いつもあっという間で。
ふと気づけば、ラウンジの窓越しに差し込む光が、夕方の色を帯びていた。
人の声と食器の音が柔らかく混じり合う中、私は少しだけみんなから離れ、洗面所へ向かった。
鏡の前で、軽く乱れた前髪を直していると――
「文菜、ちょっといい?」
「ん?」
私が問いかけると、玲美は小さく眉をひそめ、唇をすぼめたまま囁いた。
「あのさ、さっきね……ここに来るとき、香取君を見かけたんよ」
「え?」
思わず胸がきゅっと締めつけられ、手を無意識に胸元に添える。
「車ですれ違ったの。それだけなら偶然かもしれへんけど、そのあと駐車場にもいたんよ。なんか、気になってな」
玲美の声は穏やかなのに、どこか探るような響きを含んでいた。
「……それって、何かあったってこと?」
「ううん、分からん。でも……前に言ってたやん? 文菜の家に、私のそっくりさんが来たって」
「……うん」
記憶がざらりと脳裏をかすめる。
玄関越しに佇んでいた、玲美によく似た、けれど明らかに異質な“何か”。
あの低く濁った声と、空気が凍るような気配。
背中に寒気が走り、思わず身震いする。
「なんか、嫌な予感してさ……だから話した方がいいと思ったんよ」
玲美は、真顔で私の目を見つめたあと、少し声を落とした。
「洋一が言ってたん。香取君、怨霊の末裔かもしれへんって」
「……怨霊の?」
「うん。普通の人とは違う、“何か”を引き寄せる力を持ってるかもしれんって。本人に自覚がなくてもね」
「……」
言葉を失ったまま、私は目を伏せる。
「で、その力を封じる方法があるらしいん。洋一のお父さんが、特別なアイテムを持ってて……それを渡せたらって」
「アイテム……?」
「お守りみたいなもんらしいけど、持っていれば取り憑かれずに済むって。だから文菜に持っててもらえたらって」
「どうして、私が?」
玲美の視線が深くなる。
「大切な友達の、彼氏――というか、もう婚約者やんか? 文菜から香取君に渡して欲しいって、それを持ってれば、その怨霊に取り憑かれないんだって」
いつも無邪気な笑みを浮かべている玲美の表情が、そのときだけ、真剣なものになった。
眉の端に微かな影を落とし、どこか焦りのようなものを滲ませながら。
「もしよかったら、これから一緒に、会いに行かない?」
その声は優しかったけれど、どこか急き立てるような調子だった。
「え……」
戸惑って言葉に詰まると、玲美はすぐに続ける。
「あっ、もし香取君と約束あるなら、もちろん別の日でもええよ」
ちょうどそのとき、ポケットのスマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、心が跳ねる――諒。
「あ、玲美……ごめん。ちょっと」
「うん。気が向いたら、いつでも連絡してな」
玲美は微笑みながら背を向けて出て行った。
けれど、その足取りがどこか急いでいるように見えたのは気のせいだろうか。
私は通話ボタンを押し、耳にスマホを当てる。
「もしもし、諒くん?」
『ああ、今、平気?』
少し掠れたその声には、どこか張りを失った響きがあった。
「うん。大丈夫だよ」
『あのさ……明日、一緒に東京に戻らないか?』
「え? どうしたの、急に?」
『俺がこの島にいると……あんまり良くないらしい。詳しくは、会ってから話す』
「……諒くんが? 今から、会える?」
『ああ。オリーブ公園だろ?』
「うん」
『迎えに行くよ。20分くらいで着くと思う』
「わかった。待ってるね。……あのね、明日帰るにしても、私の両親に会ってほしいの。午前中なら時間あるって言われてて」
『そっか。もちろん、挨拶はしておきたい』
「……あと」
『どうした?』
「ううん。会ったときに話す」
『わかった。着いたら連絡するよ』
「うん。後でね」
通話が終わり、私はそっと息を吐き出してスマホをバッグにしまう。
鏡に映る自分の顔が、どこか強張って見えた。
何かが、確実に動き始めている――
玲美の静かな誘いと、諒の不意の決断。
どちらも、これまでとは少し違う“流れ”を感じさせるものだった。
洗面所のドアが開いて、別の二人の女性が笑いながら入ってくる。
私はそのまま静かに身を引き、ロビーの方へと足を向けた。
エントランスに戻ると、みんなが待っていてくれた。
「お待たせ、今日はありがとう」
「めでたい日やし、ええのええの」
亜希はにっこり笑って、両手を後ろに回しながら体をゆらゆらさせる。
「本当はゆっくりご飯でもしたかったんだけどね」
友美は少し唇を嚙んで、名残惜しそうに視線を落とした。
「文菜、どうする? もしあれなら送ってくよ?」
玲美の瞳が一瞬だけこちらを見た。
確認、だろうか。
玲美を疑いたくなんてない――
それでも胸の中に、ほんの小さな棘が刺さったような感覚がある。
「玲美の家、遠いやん? うちが送ろうか?」
さりげなく、友美が会話を遮るように言ってくれる。
「ああ、ありがとう。……でも、これから諒くんと会う約束してるの」
「ひゅーひゅー!」
亜希が口笛の真似をしてみせる。
吹けてないのに、楽しそうで、ついみんなで笑ってしまう。
こんなふうに笑っていると、"カゲヌシ"なんて言葉も、遠いどこかの出来事のように思えてくる。
……いや、思いたくなっているのかもしれない。
諒の声の奥に感じた、落胆と焦り。
そして突然、島を離れようと言い出したこと。
「そしたら、またね」
私は一人、ロビーに残って三人が扉の外に消えていくのを見送った。
開いたドアの向こう、空はゆっくりと黄金色に染まりはじめていた。
ロビー中央のソファに腰を下ろし、私は静かに目を閉じた。
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