知りたくなかったこと
ノックに応じて開いた扉の奥に、現れたのはスーツをきっちりと着こなした中年の男だった。
顎には無精ひげではなく、意志の強さを感じさせるような短く整えられた髭。髪は真ん中で分けられ、整髪料の艶が部屋のライトを受けて控えめに光っていた。
そして何より目を引いたのは、その額に刻まれた一本の深い皺。
表情を動かしていなくても、それははっきりと見て取れた。
どこか軍人のような、あるいは政治家のような、目元に宿る緊張感がそのまま人柄を物語っているようだった。
根元義信――。
名前を胸中で反芻する。
けれど、驚きはなかった。午前中、あの喫茶店で五月と一緒にいる姿を見ていたからだ。
それでも、実際に向き合ってみると、背筋が自然と伸びている自分に気づく。
義信は扉の側から静かに一礼し、無言のまま室内に入ってくる。
動作に無駄はなく、腰を下ろす姿にも一種の訓練された所作が滲んでいた。
カーテン越しの柔らかな午後の日差しが、義信の黒いスーツの輪郭を淡くなぞる。
「ご存知?」
五月が軽く肘をついた姿勢のまま、手首をひらりと返して義信のほうを示す。
声は飄々としていたが、どこか試すような調子が混じっている。
「ええ……根元義信さん」
答えながら、改めてその顔つきをまじまじと見る。
ひと目で信じろというのは無理がある。だが、いまは、話を聞くしかない。
義信は背筋をすっと正し、やや硬さのある動きで頷いた。
その仕草には、かつて上に立つ立場にいた人間の癖のようなものが残っていた。
静寂がわずかに満ちる。
窓の向こうで風が揺らしたカーテンが、静かに壁を撫でた。
「では……」
義信は小さく頷くと、顎を引いてゆっくりと息を吸い込んだ。
そのまま肩を落とし、口を開くまでに数拍の間を置く。
何かを自分の中で整えるような動きだった。
「あなたのお父様――譲二さんは、何としてでもその行いを阻止し、あなたに普通の人生を歩んでほしいと……そう話しておりました」
言葉のひとつひとつを選ぶように、慎重な語り口だった。
その声音には、懐かしさとも、罪悪感ともとれる色がわずかに混じっていた。
「譲二さんは……独自にあらゆる可能性を模索されていた。常識に囚われず、それこそオカルトの域にあるような人物たちのもとを訪ねて、助言を求めていたようです」
一度言葉を区切って、義信は片膝の上に置いた手をそっと握った。
「そして……ある巫女から、“封徐の印”というものを手に入れたようです。それは、三宝神社に張られていた封印を一時的に延命するためのものだったと聞いています」
少しだけ視線を遠ざけるようにしてから、またこちらへと戻す。
その目の奥には、後悔のような翳りがあった。
「……ただ、残念なことに昭三さんが亡くなられたあと……。友一は、あれほど慕っていた昭三さんの意志を裏切ることになった。……私は、それに気づけなかった……」
義信の声がかすかに低くなる。
「その日、友一の誘いに応じて、あなたのご両親は山王神社に向かわれました。本来ならば、友一が“封徐の印”を使って、結界を再び封じるはずだった。ですが……」
言葉がそこで切れる。
義信は数秒の沈黙のあと、唇を結び、痛ましい過去に触れるように、再び口を開いた。
「彼は……“封徐の印”を持ちながら、見せかけの儀式しか行わなかった。
代わりに父――宗顕から授けられた禁呪を用い、ご両親を……」
義信はそこで言葉を濁し、拳を握った。
吐き出すように息をつき、わずかに首を横に振る。
その視線はテーブルの影へと落ちていた。
「……私が“羽代氏”の事件のあと、組織の中心から外されていたこともあり、譲二さんの件については、後から友一に聞かされたのです」
空気がどこか沈んでいた。
重く、深く、底の見えない井戸に落ちていくような空気。
「私たちが“復活の日”の正確な情報を掴んだのは、ごく最近になってからです。もっと早く知っていれば……少なくとも、あなたたちがこの島に来るような事態は避けられたはずだった……」
申し訳なさそうに語る義信の声を受け、隣に座る五月がそっと眼鏡を押し上げた。
横顔のラインは変わらず冷静に見えるが、どこか険しい光がその瞳の奥に宿っているようにも思えた。
そして――
その事実が「語られた」だけで済まされることに、俺の中に確かに何かが湧き上がっていた。
育ての親の、そして産みの親の死の真実。
忌まわしい過去に、こうして静かに触れられたことに対して、怒りや悔しさというよりは、ただ――虚しさが残った。
けれど。
それでも、俺の意識は文菜に向かっていた。
あの穏やかに笑う文菜が、なぜ“器”に選ばれなければならなかったのか。
なぜ、こんな目に遭わなければならなかったのか。
思考の中心には、やはり文菜の姿があった。
「……俺にそっくりな人物が現れたんですけど、そのことについては?」
問いかける声は、自分でも少し低く濁っていた。
五月は、ふっと目を細めてわずかに視線を逸らす。
「ああ、おそらく、それは――宗顕が生み出した人物。……人形ね。もう一つの可能性もあるけど……」
言葉の語尾だけが曖昧に濁った。
静かな部屋の空気が、わずかに動いた気がした。
「人形?」
聞き返すと、五月は人差し指をそっと唇に当て、首を少し傾けた。
その仕草はいつもの彼女らしく、どこか他人事のような軽ささえ感じられる。
「よく映画で陰陽師が使うような術……そうね、わかりやすく言うと、本来は空の人形に“仮の魂”を吹き込んだ存在。命とは違うけど、似て非なるもの――そんなところ」
眼鏡の奥の瞳がわずかに揺れる。
五月がそこまで詳細に語るのは、それが単なる仮説ではないことの証にも思えた。
「何だか……」
言いかけて、言葉を止めた。
戸惑いとも苛立ちともつかない感情が、喉の奥に引っかかって、うまく出てこない。
「まあ、信じられないのは仕方ないわ」
五月はぽつりと、独り言のように呟く。
「いや、そういうわけじゃなくて……」
俺は、ゆっくりと顔を伏せた。
「どれだけ足掻いても、そんなのじゃ……太刀打ちできそうにないって、そう思ってしまって……」
膝の上に置いた両の拳に、ぎゅっと力がこもる。
皮膚の下で血管が浮かび、脈打つ鼓動が指先にまで伝わる。
「そう……かもね」
ほんの一拍置いてから、五月はぽつりと返す。
その声音は、これまでとは違っていた。
揶揄でも皮肉でもない、むしろ、柔らかさを含んだ同情にも似た響き。
「でも意外。あなたが弱気を口にするなんて」
少し目を細めて、まっすぐこちらを見つめる。
その視線にはどこか、心を覗き込むような鋭さがあった。
「……」
何も返せなかった。
今はただ、感情が揺れて、まともに言葉を紡げる気がしなかった。
「そうか……彼女のことがあるから――か」
五月の声が少し掠れた。
その言葉だけが、妙に真っすぐに胸に突き刺さる。
「……文菜がいないと封印は解けないってのは、間違いないのか?」
絞り出すように訊ねると、五月は静かに頷いた。
それに続いて、義信も席を正し、重々しく口を開く。
「間違いありません。文菜さんは、あの術式における“鍵”でもあります。彼女が揃わなければ、祭主の復活は果たせません」
「……そうしたら、その儀式ってのは、誰にでもできるものなのか?」
焦りが、言葉の端々に滲んだ。
早口になっていることに、自分でも気づく。
「いえ」
義信は首を振り、真顔のまま静かに応じる。
「術式を完全に遂行できる者は限られています。現時点でそれを執り行えるのは、私の父――宗顕だけです」
「……あなたが知っていれば、何か対処できた?」
そう問いかけると、義信は少し苦笑を浮かべ、しかしすぐにその表情を引き締めた。
「……私が術式を学ぶ前に、“後継者失格”の烙印を押されまして。中途で、あらゆる教えから遠ざけられてしまったのです」
「そもそも……父にとっては、封印を解いてしまえば、継承も術者も必要なくなるわけで。私など、初めから計画には含まれていなかったのかもしれません」
その声には、僅かに滲む皮肉と、打ち消せない悔しさが混ざっていた。
「じゃあ……俺たちは、どうしたらいい?」
問いは自分でも投げつけるような響きだった。
言い終えたあとで、少し息が上がっているのに気づく。
しかし、目の前の二人からは、すぐに返答はなかった。
五月は唇を引き結び、目を伏せたまま何かを考えている。
義信は、視線を宙に漂わせ、手のひらをじっと見つめている。
沈黙だけが落ちた部屋の中で、俺の焦りばかりが膨らんでいく。
冷静じゃないと分かっている。
頭ではそう分かっているのに、感情だけがどこか先走っていく。
考えが、追いつかない――。
五月が、透明なガラスの灰皿をそっとテーブルに置いた。
その手の動きは一切の淀みがなく、まるで型でもあるかのようだった。
続いてバッグから煙草の箱を取り出し、細身の銀色のライターで火を点ける。
煙草の先が一瞬、赤く光を灯し、淡い紫煙が静かに立ちのぼった。
唇をすぼめて、ゆっくりと、細く長く、煙を宙に吐き出す。
すべてが一連の流れのようで、無駄が一つもなかった。
隣の義信も、迷いなく胸ポケットから煙草を取り出して火を点ける。
緊張感を和らげるというよりは、互いに覚悟を深めるための儀式のようにさえ感じられた。
俺も、少し遅れて天井を仰ぎ、ポケットの中に指を滑らせて煙草を取り出した。
カチッという小さな音が響き、火が灯る。
煙を深く肺に吸い込み、しばらくしてから静かに吐き出す。
三人が作り出した紫煙がゆっくりと室内に拡がっていき、テーブルの上を霞ませていく。
何度目かの煙を吐いたところで、思考が再び動き始めた。
――方法は、三つ。
ひとつは、今すぐ島を出ること。
確かに一時しのぎにはなる。文菜と俺が揃わなければ、儀式は成せない。
ふたつ目は、術式を扱える宗顕をどうにかすること。
ただ、それはあまりにも現実的ではない。
あいつの中にあるものは、人間の理でどうにかできるものではない気がする。
考えたくもないが、悪魔に魂を売ったような何か……。
俺は頭を振り、こびりつくような想像を振り払った。
そして、三つ目。
……それが一番確実――だ。
息を深く吸い、ゆっくりと煙とともに吐き出す。
「ところで、文菜を助けられる可能性があるっていうのは、島を出ることだけなのか?」
そう問うと、五月はコクリと頷いた。
ただ、その時だった。ほんの一瞬――けれど確かに、五月の視線が俺から逸れた気がした。
「……ええ」
そのわずかな間が、引っかかる。
何かを隠しているのか? それとも、言えない何かがあるのか――。
そもそも文菜じゃないといけない理由は何だ。
確かに羽代家の血筋には、儀式に結びつく因縁がある。
けれど、文菜でなくてはならない決定的な理由は?
そこが解明できれば、まだ別の道があるのではないか――そんな望みに縋るような気持ちが、頭の中で渦巻いた。
だが、同時に思い知らされる。
――すでに準備は整っている。
五月の話からも、今日が“その日”であることは確かだ。
時間は……ない。
すべては、最初から仕組まれていた。
あの手紙が届いた時点で、いや、もっと前――
俺が生まれた時から、すべては既定路線だったのかもしれない。
ふ、と笑ってしまった。
父が残した手紙に書いてあった言葉。
この世には、自分の力ではどうにもならないことがある――
それでも。
こんな状況でも。
こんな時でも。
頭に浮かぶのは、文菜の顔だった。
文菜だけは――俺が守りたい。
「……わかった。島を出るよ」
そう告げると、五月は煙草を指先で弾き、灰を灰皿に落とした。
義信もまた、静かに頷いた。
誰も言葉を発さなかった。
ただ、頷きだけが、目の前にある決断を認めていた。
窓際から差し込む陽光が、テーブルの煙を淡く照らしていた。
西の空に傾きかけた太陽が、じわりと壁の色を変えていく。
一日が終わろうとしていた。
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