香の中で
車から降りた瞬間、ポケットのスマホが震えた。
ディスプレイには明智の名が表示されている。
『すまん。見失った』
続けて、いくつかのメッセージが届いた。
『あんたのそっくりさんについて経過だけ報告』
『文菜さんと別れてしばらくその場に滞在』
『およそ10分後、車に戻る』
『尾行開始、瀬田町方面』
『瀬田港の近くの潮風公園駐車場。10分程停車』
『瀬田町内に戻る、信号で見失う』
『方向的に内海町か中山町方面と推測』
『要望があれば続けるが?』
短く息をついて、画面に指を走らせた。
「ありがとう、そうだな別の調査予定がないなら話がしたい」
『了解。ホテルでいいか?』
「オーケー、これから飛田五月にホテルで会う」
『なるほど、くれぐれも慎重に』
『文菜さんはいいのか?』
「ああ、友人と一緒だし、近くに慎哉もいるようだから」
『なるほど、了解した』
メッセージを閉じて、深く息を吸い込む。
そのまま足を踏み出そうとしたとき、再びスマホが震えた。
『506号室』
送信者は飛田五月。
……やはり、人目は避けたいのだろう。
足音を響かせ熱気の中を歩く。
自動ドアの前でセンサーが反応する。
ひと拍おいて開かれた扉の向こうに、ホテルのエントランスが広がっていた。
絨毯の色調は深い藍。足元の照明に照らされて、光沢が静かに揺れている。
壁際の観葉植物が無音で佇み、ソファセットの向こうにはガラス張りのロビーラウンジ。
天井は高く、天窓から柔らかな自然光が差し込んでいた。
外界とは切り離された、密室の静けさ。
だが、目を凝らせば、ビジネスマンらしきスーツ姿や観光客の家族連れが、それぞれの時間を過ごしている。
その一角を、無言で通り抜けた。
フロントの視線を避けるようにロビーを横目で流しながら、エレベーターの前へと足を進める。
廊下には微かなクラシック音楽が流れていたが、胸に残るのは、ただ一歩ごとに増していく鼓動の音だった。
……まるで、静かな劇場の舞台裏にでも忍び込んだような感覚だった。
エレベーターのランプが音もなく点灯し、やがてドアが開く。
誰もいない。鏡張りの壁に、自分の姿だけが映る。
一度だけ、深く息を吸ってから、乗り込んだ。
エレベーターのボタンを押すと、機械音が小さく鳴った。
「5」の数字が点灯し、ゆっくりと扉が閉まる。
密室の静けさが、肌にじわりとまとわりつく。
鏡張りの壁に映る自分の顔は、少しこわばっていた。
額にかかる髪を指先で直しながら、深くひと息つく。
──今さら、怯えるつもりはない。
そう言い聞かせながらも、体の奥にじわりと緊張が溜まっていく。
胸のあたりに、ぴんと張った細い糸が通っているような感覚。
張りすぎればすぐに切れそうで、かといって緩めれば崩れ落ちそうな、危うい均衡だった。
静かに、数字が変わる。「3」──「4」──
扉の前に視線を向ける。
開いた先に立つ人間の顔を思い浮かべるたび、無意識に奥歯を噛んでいた。
かすかに耳鳴りがするような気がして、そっと目を閉じる。
……「5」のランプが灯った。
ほんのわずかな振動とともに、エレベーターが止まり、扉が左右に滑っていく。
柔らかな照明が廊下の先まで続き、絨毯敷きの床が視界に広がった。
その廊下に足を踏み入れると、足音を静かに吸い込んでいく。
同時に、自分の中の緊張も吸い取ってくれればいいと、ふと思う。
506号室の前に立ち、ドアを軽くノックする。
すぐに、気配が返ってくる。ドアの向こう、覗き穴の奥から、こちらを慎重に見極めるような視線の気配。
小さな沈黙ののち、ゆっくりとドアノブが回り、扉がわずかに開いた。
ふわりと、あの独特の香水の香りが流れ出す。
やがて扉が全開になり、飛田五月が静かに姿を現す。
無言のまま、片手をスッと部屋の奥へと差し伸べる仕草。歓迎でも拒絶でもない、ただ誘導するだけの動きだった。
眼鏡のブリッジに指先を添え、わずかに角度を直しながら、視線を真っ直ぐこちらに定めてくる。
その目に、情のようなものはない。冷静で、むしろ少し遠い。
軽く会釈を返し、俺は部屋の中へと足を踏み入れる。
カーペットの上に靴音が吸い込まれていく。通路を抜け、奥のリビングへと進む。
窓辺に設けられたテーブルセット。外から差し込む陽射しが、カーテン越しに柔らかく部屋を照らしていた。
陽光が白い壁に影を描き、揺れるレースのカーテンがわずかに音を立てる。
五月は俺を追い越してテーブルへ向かい、窓際の椅子に静かに腰を下ろした。
「どうぞ」
声に抑揚はない。けれど、その静けさがかえって妙に心に残る。
促され、対面に腰を下ろす。
視線を外すことなく、五月は指を組んだ両手の上に顎を乗せ、わずかに首を傾けた。
表情は微かに微笑んでいるようにも見えるが、その瞳には感情の起伏がない。
テーブルの上で跳ね返った光が、眼鏡に当たってキラリと煌めく。
まるでその仕草すら、光の加減までも、すべて演出のように仕組まれていたかのような――
そんな滑らかで、どこか人間離れした動きだった。
「なにから聞きたい?」
テーブル越しに、五月が静かに問いかけた。
「文菜に関することだ」
「ふーん。自分のことよりも彼女、なのね」
唇の端だけがわずかに上がったが、その笑みには体温がなかった。
俺は言葉を返さず、視線を逸らさなかった。
「……いいわ。できれば、今すぐにでも島を出ることね。……それでも安全とは限らないけど」
声色にわずかな湿り気が混じる。
「それは、文菜が?」
「あなたたち、二人ともよ」
「なぜ」
「彼女のことから話すわ。おそらく、文菜さんは“器”。ある人物の子を宿し、蘇らせるための……ね」
その言葉に眉がピクリと反応した。
「……祭主、か」
「へえ、意外。じゃあ、自分のことも知ってるの?」
「俺が……祭主……?」
「正解」
眼鏡越しに、五月の視線がほんの一瞬だけ強くなる。だが、すぐに表情はまた平坦に戻った。
「今のあなたって、人格が違うんじゃない? 本来は“器”として、祭主の魂を迎えるための存在だった。でも、その過程であなた自身の人格が形成されてしまった。儀式は……まだ、完成していないの」
言葉が胸の奥に沈む。何かを肯定されたような感覚と、否定されたような違和感が同時に広がった。
「……」
「でも、復活の儀式にはいくつか過程がある。まずは、“贄”たる女の血と、恐怖と、魂。この場合の“贄”は死ではない。ただの器になること。子を産むためだけの存在にされるの」
「過去には実際に、生贄として命を奪われた例もあるみたいだけどね」
その言葉に、無意識に拳を握りしめていた。力を込めるほどに、手の甲に血管が浮かぶ。
「そして、祭主復活の儀式。これにはあなたが必要。場所は――かつて三宝神社と呼ばれた場所よ」
窓の外では、陽光が雲の切れ間から差し込み、壁の装飾をゆっくりと撫でていた。
部屋は静かだった。カーテンが微かに揺れ、床に落ちる光がふわりと形を変える。
「知ってるかしら? もう結界は崩れたわ。そして今日が“約束の日”。復活の始まりの日。おそらく、あとはあなたたち二人が揃えば、儀式を遂行できるところまできた」
「……だから、一旦島を離れるのがベストだとは思う」
五月の小さな吐息が漏れた。
「それを阻むことは?」
「さあ。……あの根元宗顕は、常人じゃない。あれはもう、何かに取り憑かれてるとしか言いようがない」
「なぜ文菜……なんだ?」
「そこは、私にも分からなかった……」
「島から出たところで、一時しのぎなんだろ?」
「まあ、そうなるかな」
「くそ……」
俺は息を吐きながら、拳で自分の腿を一度、叩いた。
感情を抑えきれなかった。言葉よりも、行動に出てしまうような、そんな衝動。
五月は何も言わず、ただじっとこちらを見つめていた。
まるで、俺が怒るのを待っていたかのように。
「……そう。あなたって意外と……意外ね」
「……ああ。すまない」
「いいわ」
微かに鼻にかかったような笑い声。
けれど、それも長くは続かなかった。
すぐに、視線がまっすぐに戻ってくる。
「今、三十五代目の山背日立が島に来ているの。その昔、この島に怨霊封じの結界を張った、初代日立の末裔。彼も、方法を探しているわ」
「根元義信とはどういう関係なんだ?」
「ああ、協力者よ」
「信じられるのか?」
「……あそこも一枚岩じゃないの。ややこしいけど」
カーテンの向こうで、木々の影が静かに揺れている。
風が部屋に入ることはなかったが、何かが近づいてきている予感だけがあった。
「もともと、封印の実情を知っていたのは代々の根元本家の当主だけ、でも、もう亡くなられてるけど、夜明昭三という人物知ってる?」
「ええ」
「彼は、根元宗顕と共に封印や結界の研究をしていた。でも、ある時からその“祭主”の復活が、ただの神格化じゃないと気づいたの。
それは、ある偉人の“悪魔的な狂信性”を身に宿らせるための、危険な儀式だった」
「……」
「それを知った昭三は、密かに阻止しようと動き出した。あなたを、そしてあなたの一族を逃がそうとしたのよ。
でも、その計画が漏れてしまった。その後は……もう知ってるでしょう?」
「まあな」
「もともと身体の弱かった昭三は、ほどなく病に倒れた。その意志を継いだのが、甥の友一と根元義信だったけれど……友一は宗顕に取り込まれてしまった」
「……」
「それで、あなたが生きていると知った友一は、何とかあなたを取り戻そうとしたみたい。でも、うまくはいかなかった」
五月は髪をかき上げて続ける。
「ただ、あなたの育てた、ご両親は……独自に調査を進めていた。生前の昭三と接触し、きっとそのときに、あなたの“本当”を知ったのよ」
「その後、昭三が亡くなって、義信と友一が事後を引き継いだ」
五月が一度言葉を切る。
沈黙。
そして――
「ここからは、本人に聞いてみる?」
指を、ひとつ、軽く弾く音。
静かな寝室のドアが開き、ひとりの人物が姿を現す――
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