過去との遭遇
塀にぐるりと囲まれた門をくぐり、玄関までの十メートルほどの小径を歩く。
煌々と陽射しが差し込む中、葉の青い匂いがほんのりと鼻先をかすめる。
手入れの行き届いた植え込みの脇では、剪定業者の男性が木の枝をパチンと大きな鋏で切っていた。
その乾いた音が、空気をほんの少しだけ揺らす。
「大きいね」
すぐ隣で、文菜が声を潜めるように囁く。
そして、ほんの少しだけ身体を寄せてきた。
目線は庭の奥に向いているが、その頬はどこか強張っているように見える。
「……ああ。たぶん、それなりの名家なんだろうな」
低く返した声に、文菜は口をすぼめ小刻みに頷いた。
インターホンのボタンに指をかけ、深く息をひとつ吸ってから押し込む。
すると間もなく、「はい」と、落ち着いた女性の声が応じた。
「真名井と言いますが、友昭さんは御在宅でしょうか」
「少々お待ちください」
声が消えると同時に、文菜がそっとつないでいた手を引き寄せる。
「どうして、私の苗字なの?」
振り向くと、文菜は不安というよりも、少し戸惑ったような表情。
目の奥に浮かぶのは、答えを知りたいという静かな焦燥。
「うん、彼は高太朗さんから珠代さんの写真を託された人物だ。そうしたら真名井という名前に興味を持つはず。門前払いは流石にないと思う。ただ留守じゃなければ……ね」
ほんのわずか、文菜の指に力がこもる。
それに応えるように、そっと親指で手の甲をなぞった。
数分後、玄関の曇りガラス越しに、ゆっくりと人影が差した。
ガラガラと音を立てて扉が引かれた。
現れたのは、品の良さをたたえた中年の女性だった。
たぶん、娘さんなのだろう。
きちんとした身なりに、やわらかな微笑みを添えて、丁寧に頭を下げた。
「どうぞ、お上がりくださいませ」
うながされるままに玄関をくぐり、木のぬくもりを感じさせる三和土に立つ。文菜がそっと靴を脱ぎ、揃えて並べる動作が妙に丁寧だった。
その背筋はすっと伸びていて、静かに落ち着きを保とうとしていることがわかる。
廊下に上がると、磨き込まれた木目の床が照明をほのかに反射していた。
細部にまで行き届いた手入れが、この家の年月と格式を物語っている。
すぐ右手の部屋に案内される。
開かれた扉の先は、テーブルを挟んでソファが向かい合う応接室。
すでにエアコンが入っていて涼しさで満たされていた。
壁の上部には、額縁に入った賞状がいくつか掛けられていた。
数は多くないが、均整の取れた配置に、主の几帳面な性格が滲んでいる。
それ以外には目立った装飾もなく、華美なものの一切ないその空間には、穏やかで澄んだ気配が漂っていた。
まるで、何十年という時間がゆっくりと堆積して、ひとつの空気をつくっているかのような――そんな気配だった。
コン、という控えめなノックの音。
そのすぐ後、扉が開き、夜明友昭が姿を現した。
白髪が混じる、やや薄くなった頭髪。
笑い皺がやわらかく刻まれた頬。
眼差しは穏やかで、どこか懐かしさを感じさせる。
彼が部屋に入った瞬間、空気がふっと和らいだ気がした。
第一印象は――そう、「好々爺」という言葉が浮かぶ。
だが、その目の奥に宿る光は、決して老いに沈むものではなかった。
文菜の隣に座ったまま、その姿を見つめる。
今、目の前にいるこの人物が、高太朗から珠代の写真を受け取った相手。
あの過去と、珠代と、高太朗と、文菜を繋ぐ何かを――握っているのだ。
自然と、背筋にほんのわずか緊張が走った。
けれど、文菜のぬくもりが手に残っている。
その温度が、静かに支えとなっていた。
「お待たせしました」
二人が立ち上がると、友昭は向かいの席の前まで歩み寄り、文菜の方を見た――その瞬間。
彼の表情が、明らかに変わった。
驚愕。目の奥が見開かれ、軽く息を飲んだような気配が走る。
「さあ、どうぞ」
小さく咳払いをして、やや硬い声で促す。
そのタイミングで、先ほどの女性がトレイに麦茶を載せて部屋に入ってきた。テーブルに置かれた、涼しげなグラスに揺れる琥珀色の液体。
女性が一礼して退室するまでの間、友昭は一言も発さなかった。
その眼差しはただ、静かに文菜に注がれ続けていた。
「真名井さんとおっしゃいましたね、どんなご用件でしょう」
静かな時が流れる中、鞄から、あの写真を取り出す。
珠代の――文菜の祖母の――笑顔が写る、あの一枚。
迷いなく、テーブルの上にそっと置いた。
友昭の視線がそれに落ちる。
数秒、沈黙。
やがて、目を見張り、目尻に深く皺が寄った。
記憶の底にしまわれていた何かが、確かに、今、目の前で甦ったのを感じた。
「ほう」
「この写真をご存知ですね?」
「……ええ、確かに知っています」
「こちらに、今ありますか?」
「というと?」
「ここに写っているのは、文菜……いえ、妻の祖母の珠代さんです。その恋人だった根元高太朗さんが撮影しました。高太郎さんからこの写真が送られている筈なんですが?」
「そうでしたか……珠代さんの……確かに、瓜二つですわ」
「あの……」
「まあ待ちなさい……澄江さん」
名前を呼ばれ、先ほどの女性が再び現れる。
今度は桐箱を手にしていた。
淡い木目の美しい箱を、丁寧にテーブルへと置く。
目が合うと、彼女は一礼して部屋を後にした。
あらかじめ用意されていたその桐箱――つまり、友昭は、こちらの来訪と話題の内容を、ある程度予測していたのだ。
友昭は箱に向かって静かに柏手を打つと、組紐を解き、蓋を開けた。
視線が、箱の中へと注がれる。
「ない……」
絞り出すような声。
俺は、視線を箱の内部へと向ける。
中には、神札が一枚、まるで取り残されたように置かれているだけだった。
「ない、というと……?」
問い返す俺に、友昭は箱から目を離さずに応じた。
「いや……この中に入れておいたのだ、あの日から」
「御祈祷をされた日、という事ですよね?」
「……なぜそれを?」
俺はもう一枚の写真をテーブルに置いた。
「これが、妻の元に送られてきました」
「なんですと……」
老いた声に、かすかな震えが混じる。
友昭の手が写真へと伸び、指先で縁を挟みながら持ち上げる。目元には皺が深く刻まれ、写真を覗き込むその瞳には、驚きと戸惑いが交錯していた。
「これを送った人物、もしくはその桐箱から抜き取った人物に心当たりはありませんか?」
しばしの沈黙。
「ふむ……当時、私の父は山王神社の禰宜をしておりました。その父を通して宮司の根本宗顕様にご祈祷をお願いしました」
「なるほど。そのご祈祷の時あなたはご一緒に?」
「ええ、もちろんですとも。友人の……最愛の人でしたから……」
彼の声が微かに湿る。
俺は小さく頷き、さらに問う。
「この桐箱に納められるところも、あなたは見届けた?」
「ええ、間違いありません。確かに、この手で蓋を閉じました」
「では、改めてお伺いします。この中から写真を抜き取れる人物に、心当たりは?」
「ううむ……」
友昭は苦い顔で眉間に皺を寄せ、額に指を当てて考え込んだ。
部屋の空気がわずかに張り詰める。外から差し込む光が、障子の木目に淡い陰を落としていた。
「この桐箱の存在を知っていて、中身が何かを把握している人物……そうなってくると、根本宮司、私の父、あとは兄しかおらんと思う」
「そうですか……」
浅く息をつく。確かに手がかりではあるが、どこか釈然としない。まるで肝心な何かが、最初から隠されているような違和感が残る。
「あっ、ところでさっき神社に寄ったんですけど、何かお祭りがあるのですか?」
「ん?」
こちらの問いを測るように、わずかに首を傾げる。
「いえ、もしあるなら見てみたいと思ったもので」
そう言う俺の声は、極力自然を装っていた。
だがその一言の後に訪れた、妙に重たい沈黙。
友昭は視線を落とし、膝の上で組んだ両手を見つめている。
その手が、ごくわずかに動いた。
何気ない仕草に見えたが、俺の目は見逃さなかった。
――考えている。いや、探っている。
今ここで、何を話し、何を伏せるべきかを。
「万に一つ可能性があるのなら、父と宮司しかおらんでしょうな……」
低く落ち着いた声だったが、その奥に微かに苦味が滲んでいる。
「では仮に、その二人のどちらかが写真を抜き取ったのだとしたら。そうする理由に、心当たりはありますか?」
「仮に、ですな……」
言葉を繰りながら、しばし思案の素振りを見せる。
「いや、思い浮かびません」
淡々とした口調の中で、ふと、友昭の視線が文菜に向けられた。
文菜は黙って座っているが、肩が微かにこわばっているのがわかる。
「そうなると、おかしいんですよ」
俺は、ゆっくりと語り始める。
「現に、妻に写真が送られてきている。この写真は高太郎さんが撮影して、高太郎さんと珠代さんがそれぞれ持っていました。珠代さん側の写真は、妻の手元に残っていた。高太郎さんが持っていた珠代さんの写真はあなたに送られた。そのあなたの手元にない、ということは……そこから誰かが抜き取って、妻に送ったということになります。写真が勝手に送られてくるなんてことは、有り得ませんから」
「……ですな」
短く頷く。あくまで冷静を装っているが、友昭の目がわずかに泳ぐ。
「あなたの見解で構わないのですが、なぜ妻の元に写真を送ったとお考えになりますか?」
「分かりませんな」
即答だったが、やはりどこかに迷いがある。
そして次の瞬間、友昭の瞳が遠くを彷徨うように揺れた。
「……そういえば、お兄さんの昭三さんは、高太朗さんと珠代さんの関係はご存知だったのでしょうか?」
「兄ですか?いや、知らんかったと思う。私は少なくとも話していない。必然がありませんから……でもどうして兄ことを?」
「……いえ」
言葉を濁しながら、俺は鞄から御朱印帳を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
友昭の顔色が、はっきりと変わる。
目を細め、息を詰めたように、それを凝視する。
「この三宝神社について何かご存知ですか?」
「……いいえ」
低く押し殺すような声。
返答は否定だったが、その声には確かな硬さが含まれていた。
俺は次に、文菜の実家に届けられてきた手紙と写真を取り出し、順にテーブルへ。
「ここに映っている鳥居は、奥宮の物に間違いないですか?」
しばらく無言のまま、友昭はその写真を見つめた。そして小さく頷く。
「そうしたらこの影に囚われる者よ、扉は開きかけているという文句については」
「これはどこで……?」
「同じ様に妻に送られてきました」
「なんと……」
驚愕と警戒が入り混じった眼差しで、友昭は写真と手紙を見比べている。
「……では、カゲヌシという言葉は?」
「なに……!?なぜ、それを……」
反射的に声が大きくなる。
俺はそっと、手紙の署名の部分を指さした。
友昭は絶句し、口を開けかけたまま言葉を失っていた。
「カゲヌシとは何ですか?何故、妻の元にこれらの物が送られてきたのでしょう?」
しばらくの沈黙のあと、彼は長く、重く息を吐いた。
背筋が丸まり、その肩が、何かの重みに押しつぶされるように沈む。
先ほどまでの威厳ある老紳士の姿はなかった。
そこにいたのは――影を背負った、一人の男だった。
「……これは……夜明の家に代々伝わっている話ですが、“カゲヌシ”とは伝承です。よく言われるような単なる怪異ではない。“影の主”という意味。表の主があれば、裏の主がある……そう聞いています」
言葉を選びながら、慎重に話し続ける。
「それが何を意味し、何を示すものかは、正直分かりません。ただ……影の主は、表の主に滅ぼされ、世を去ったと。そして、いずれまた再びこの世に舞い戻る――そう語り継がれています」
「それから件の文言は、この世に舞い戻らせる道標のような言葉です。
影を封じし岩の眠り、陽の道巡りて扉ひらかん。人、定めを継ぐものなり――と」
一気に話し終えると、友昭はグラスを手に取り麦茶を半分程飲み干した。
「しかし、その蘇らせるですか、そのような事が……本当に起こるのでしょうか」
「私にはわかりません」
友昭は項垂れながら首を振る。
そのときだった。
「……影の社」
ぽつりと、文菜が呟く。
その視線は虚空を見つめていた。
「……あながたはいったい?」
友昭は眉間に皺を浮かべ、俺達の顔をまじまじと見比べている。
俺は、目の前の人物を見極めかねていた。
真名井という名を出し、いくつかの“カード”を切ってきた。
そのすべてに動揺を見せながらも、友昭は、誠実に応えようとしているように見える。
――確信は持てない。
だが、今はまだ、この男の言葉を聞く必要がある。
「この苗字を知っていますか、羽代?」
静かに口にしたその一言で、友昭の表情が一変した。
「……っつ!」
血の気が引き、顔がみるみる蒼ざめていく。
「ご存知なのですね?」
「ええ、もともとは山王神社の神官を代々継承して家です」
「え?」
予想だにしなかった答えに、思わず声が漏れる。
「もう二十年ほど前に、血統は絶えましたが……それが記された文献は、我が家の蔵にしか残っていないはずですが……どこで、その名を?」
問い返す友昭の声音は震えを含み、疑念と驚きがないまぜになっていた。
だが、あえてその質問には答えず、次の一手を打つ。
「先程の影の社というのは?奥宮の事ですか?」
「……ええ、仰る通り」
今度の返答には、迷いはなかった。友昭は真っ直ぐにこちらを見つめている。その瞳には、何かを悟ったような色が宿っていた。
「奥宮の宮司というのも、夜明家が務めているのですか?」
「はい」
言葉に淀みはなく、簡潔で、重みがあった。
こちらも腹を決める時かもしれない――そう思った矢先、逆に友昭の視線が鋭さを増した。
「ん?」
今度はじっと俺を見据え、顔をじっくりと見つめるように目を細める。
「まさか……いや、有り得んと思うが………ご主人は、卓さんの息子ではあるまいな?」
「……」
返す言葉が見つからなかった。ただ、黙って、そのまま友昭の目を見返す。
「いや、すまない、その目に面影があってな……老人の戯言だと思って下され」
「その卓さんというのは?」
「ああ、羽代氏の最後の当主じゃ、当主になる前に亡くなってしまったがね、不幸な事故じゃった……」
心か頭か、奥底がずしりと疼く。
「……仰る通りです」
抑えて言ったつもりが、語気がは自然と強くなっていた。
「!」
友昭の目が剥き出しになる。
「父と母の事故は……本当に事故だったのですか?」
「ああ、あれは事故じゃ……そうでしたか…………なるほど……」
言葉の重みが、胸に響く。
「では、香取……育ての父と母の事故はどう思います?ご存知ですよね?」
ゆっくりと頷く友昭。
「父は、あなたの兄――昭三さんの携帯と、事故当日にやり取りをしていたんです。ですが、その昭三さんは、その時すでに……鬼籍に入っていた」
声が低く、だが鋭い響きを持って空気を切る。
「あれは事故じゃない。いったい、誰なんです? その時、あなたのお兄さんの携帯を持っていたのは、誰だったんですか?」
「……」
友昭は言葉を失い、苦悶の表情のまま、しばし天を仰いだ。
「どうなんです?」
「なんという事を……」
それは驚愕というよりも、何かを思い出し、思わず呻くような言い方だった。
その顔には、苦悩とも後悔ともつかない翳りが、濃く差している。
「分かりました。これは……身内の問題です。少し……待っていてくれませんか。悪いようには……しません」
かすれた声。
喉の奥から絞り出すような、誓いにも似た響き。
ふらりと立ち上がった友昭は、足元が覚束ない様子で、迷いを抱えたような足取りのまま、部屋を後にした。
その背中は、これまで見てきたどの“影”よりも深く、脆く、そして孤独に見えた。
扉が静かに閉まり、重い音が室内に残された。
再び訪れた沈黙の中、テーブルの上にぽつんと置かれた桐箱が、やけに目を引いた。
まるで誰かに取り残されたような、ひっそりとした寂しさをたたえている。
「諒くん、一服したら?」
文菜がそっと手を重ねてきた。
細くて、あたたかい――その温もりが心を平穏へと誘う。
「ああ……ありがとう」
言葉にした瞬間、自分でも気づかぬうちに、肩の力が抜けていた。
文菜はにこりと微笑んで、すっと立ち上がる。
その仕草は、静かな水面に咲く蓮の花のように清らかだった。
「私、お手洗い借りてくるね」
「わかった」
その背中が部屋の外へと消えていくまで、何も言わずに見送った。
深く息を吐き、テーブルの上に並べていた写真や手紙を、ひとつひとつ丁寧に鞄へとしまう。
――まだ、頭の中は散らかったままだ。
得た情報は少なくない。
だが、それが正しいのかどうか、俺にはまだ判断がつかない。
無意識のうちに、大きなガラスの灰皿を手繰り寄せていた。
煙草を一本抜き、ライターを手に取る。
小さな焔が揺れて、次の瞬間、ふわりと立ちのぼる白煙が視界をかすめた。
その煙の向こうに、何かがある気がして、俺はじっと見つめた。
何かが、近づいてきている。
それが過去なのか、未来なのか――あるいは、もう一人の俺なのか。
煙は、ゆっくりと天井に昇っていった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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