女性たち
膝の上に、フロントガラス越しの光が斑に落ちては、また揺れて消えていく。
木々の合間を縫うような、穏やかな道。
時折訪れる緩やかなカーブで、体がふわりと傾く。
どういうことなのだろう。
――飛田五月と、玲美の父親が一緒にいた。
五月は明らかに、私のことを知っている。
諒の過去や、私たちのまわりで起きている出来事にも通じている。
だから諒に接触してきた。
そして、私は会ってみた。
五月が言う「私の力になれる」という言葉に導かれて。
その五月が玲美の父である義信と一緒にいたということは、玲美もまた、何かを知っているのだろうか。
玲美は、私が重岩で哀し気な表情で佇んでいる夢を見たと話していた。
そして夢の中には、山王神社の裏手の森の映像も一緒に。
その話を聞いた時、そう、こんな風に思った。
呼ばれているの――
そして、あの偽物の玲美。
私のもとに届いた、差出人不明の封筒。
玲美なら、私の東京の住所も、もちろん実家の住所も知っている。
仮に。もし本当に、玲美がそれらに関わっていたのだとしたら。
なぜ? どうしてそんなことを?
――玲美に限って、そんなことをするなんて、思いたくない。
思考の波は、とりとめもなく寄せては返し、次第に私の視線は、隣に座る諒へと向いていた。
前を見つめたままの横顔。
穏やかな表情。
目尻に刻まれた、優しさを湛えた微かな線。
運転席に差し込む柔らかな光が、その頬のラインをかすかに照らしては消えてを繰り返す。
真っ直ぐに前を見つめるまなざし。
――それに、五月のことも……。
諒は、今日の午後に彼女と会う。
私が先に会っていたことを、話した方がいい。
嘘や隠し事はしたくない。
でも、どうやって伝えればいいのだろう。
どこまで話せば、いいのだろう――。
思考の渦に飲まれかけたそのとき視界が開けた。
道が県道に合流する。
左右に連なる棚田の稲が、初夏の風に揺れて、すでに青々とした穂先を垂れはじめている。
その柔らかな風景に、少しだけ心がほどけていく。
大きく深呼吸をひとつ。
「……あのね、諒くん」
言葉が形になるのを待ってから、意を決して口を開いた。
声は、思ったより静かだった。
昨夜、私が五月と会ったことを打ち明けた。
彼女から「彼と、別れなさい」と言われたこと。
そして、その言葉の奥にあるもの――
私が諒を大切に思っていることを分かっていながら、それでも口にせざるを得なかったのだろうという、あのときの彼女の悲しげな表情。
できるかぎり隠さずに、丁寧に言葉を選びながら伝えていく。
諒は、最初こそ少し驚いたように目を見開いた。
けれどすぐに表情を和らげて、いつものように、静かで穏やかな眼差しで私の話に耳を傾けてくれる。
その視線が、言葉よりも先に「大丈夫」と伝えてくれている気がした。
「なるほどね。話してくれて、ありがとう」
諒のその言葉は、優しく、柔らかく私に届く。
私は首をすくめるようにして小さく笑い、
「うん……ごめんね」
と、少しだけ申し訳なさそうに呟いた。
「謝ることはないよ。それに、文菜が感じた飛田さんの印象については、その通りだと思う。……事情を知っていて、堂々と関わるには少し難しい立場っていうのかな」
「……そうかな」
私は少し不安を滲ませるように問いかける。
諒は短く頷き、前方に視線を戻す。
その横顔には、どこか思慮深い影がさしていた。
「とりあえず、俺は文菜と彼女が会ったことは知らないっていう前提で、会ってみるよ」
諒のその言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
「うん……ありがとう」
それでも、まだわだかまりのような感情が残っていた。
「それと玲美のことだけど、何か気になることはある?」
諒の声は変わらず、優しかった。
「わからない。ただ、島に帰ってきて欲しかったみたい。……変な夢を見たから会いたかった、って……言ってた」
「なるほど……あの夢の話だね。写真とは違う表情の文菜が重岩にいたというのと、その後に山王神社の裏手の森の映像が見えたって、やつか」
「うん。それに、玲美が言っていた“知り合いの神官”って……夜明さんかもしれない」
その名を口にした瞬間、諒の指先がほんのわずかに動いたのが、視界の端に映った。
諒は小さく息を呑み、それから、ハンドルを握る手に少しだけ力を込める。
「つまり、これから会う夜明友昭だね」
私は何も言わず、そっと頷いた。
それ以上、諒は何も聞いてこなかった。
その沈黙が、少しだけ嬉しかった。
きっと、私の感じていることを、信じてくれているから――。
家々が肩を寄せ合うように並ぶ、住宅地の中の緩やかな下り坂を、車は静かに滑るように抜けていく。
瓦屋根の縁には、白く眩しい陽の光が柔らかく反射し、電線に沿って淡い光の筋がたゆたうように伸びていた。
石垣の上には朝露をまとった葉がまだしっとりと濡れていた。
生け垣の隙間から、小さな庭先には、咲き始めた百日紅の花が風になびいて、小さな影を地面に落としている。
私は運転席の諒の横顔を、ふと横目で盗み見る。
真っ直ぐに前を見据えるその瞳には、濁りのない強さと、わずかな緊張が宿っていた。
握られたハンドルに添う指先も、普段より少しだけ力がこもっている気がする。
やがて、県道から一本逸れた細い道へと、車はゆっくりと折れた。
わずかに揺れる車体の中で、私は息をひそめるように背筋を伸ばし、膝の上でそっと指先を組み直す。
すでに、名の知れぬ緊張が小さく脈打っている。
まもなく、目的の夜明家が見えてきた。
それは、周囲の時の流れとは切り離されたような、異質な存在だった。
静かな住宅地には不釣り合いなほど、厳かで重厚な門構え。
漆黒の塀にぐるりと囲まれた広大な敷地。
諒は、車を敷地の一角に設けられた駐車スペースへと静かに滑り込ませる。
エンジンを止めたその手の指先が、一瞬だけ微かに震えたのを、私は見逃さなかった。
「……着いたね」
小さくつぶやいた私の声に、諒はわずかに頷き、窓の外へと視線を向けた。
続けてドアの開く音がして、私もゆっくりと車を降りる。
蝉時雨のけたたましい声が、一気に耳を満たす。
まるでこの屋敷に近づいたことで、封じられていたものが一斉にざわめきだしたかのように。
陽射しはなお強く、空の高みから照りつけていたが、いつの間にか薄い雲がかかり始めていた。
門柱の上には、六芒星の紋様が刻まれた家紋が取り付けられており、角度によっては鈍く光を返していた。
それは単なる装飾とは思えなかった。
まるで、何かを封じる“しるし”――異界との境界を示す結界のような、不穏な気配があった。
門の内側には、苔むした石灯籠が静かに佇み、自然石の飛び石が流れるように配置されている。
その奥、木立の合間から、瓦屋根をいただいた荘厳な母屋が静かに姿を覗かせていた。
格子の影を宿す木造の壁は、どこか神社建築を思わせる雰囲気を纏いながらも、確かに私邸の気配を湛えている。
けれど、どちらともつかない――まるで、「どこでもない場所」に足を踏み入れたような、時間の境界線を越えてしまったような、不思議な感覚が、全身を包んだ。
その場に立つだけで、背筋にじわりと冷たいものが這う。
隣で、諒が小さく息を吐いた気配がした。
目を向けると、諒はほんの少し眉を寄せながら、じっと母屋を見つめている。
その横顔に浮かぶ緊張は、抑え込んでいるものほど静かで、強い。
私は無意識のうちに、握った手にそっと力を込めた。
温もりを確かめるように、諒の指先がわずかに返してくる。
「行こうか」
低く落ち着いた声に、私はうなずいた。
「うん」
諒は先に一歩を踏み出した。
足元の土が、しん、と音もなく沈んだように感じられる。
私はその背を追って歩き出した。
ゆっくりと、異界の門をくぐるように──
沈黙と記憶の眠る家へ、足を踏み入れていく。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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