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カゲヌシ  作者: ぽんこつ


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72/95

神社で見たもの

挿絵(By みてみん)

文菜の思いがけない提案で、俺たちは山王神社へ向かうことになった。

瀬田町から、中山町、肥土山町がある盆地へと続く峠道進む。

道は時に小さく、時に大きくうねりながら、まるで蛇のように山を越えていく。ハンドルを握る手に神経を集中させながらも、俺の意識は次第に、その先に待つものへと向けられていった。

山王神社があるのは、峠を越え、伝法川の上流に沿ってさらに奥まった山あいの地区。

真っ直ぐな坂道を下り、県道を左に折れれば中山、そして肥土山の集落へと続く。

車は小さな橋を渡り右折して、緩やかな上り坂を進んでいく。

その先で、巨大なコンクリートの壁が突如視界を遮るように現れる。

ダムだった。

その脇の急な勾配の坂道を抜けると、右手には山の緑を静かに映したダム湖が広がっていた。

湖面は風にかすかに波打ち、空の青と木々の色を混ぜ合わせたような、深い色を湛えている。

湖の奥へと続く道は、まるで山の息づかいに導かれるように、細く、慎ましく伸びていた。

道はさらに山中にへと分け入り、生い茂る木々のトンネルのような道路と川が並走する。

車一台がやっと通れるほどの道幅で、対向車との離合には注意が必要だった。

まだ雨の名残を含んだ山の斜面の木々からは、いくつもの雫が枝先からこぼれ落ち、フロントガラスを濡らしていく。

時おり、木立の隙間から渓谷のような風景が垣間見えた。

岩肌を縫うように澄んだ川が勢いよく流れ、日差しを受けた飛沫が光を跳ね返しながら、命あるもののように瞬いていた。

しばらく進むと、道が開け、視界がぱっと明るくなる。

そこには、思いがけないほど広々とした駐車場が広がっていた。

両側から迫りくる谷あいに、こんなに開けた土地があるとは思っていなかっただけに、少し驚く。

元からこの場所が拓けていたのか、それとも神社のために切り開かれたのか――そんなことをぼんやりと考えながら車を停めた。

目の前には、朱塗りの大きな鳥居が静かに佇んでいる。

長い年月を経ているはずなのに、どこか新しさすら感じさせるその赤は、凛として力強かった。

エンジンを切り、ドアを開ける。

外気に触れると、文菜がゆっくりと身を乗り出し、静かに立ち上がる気配があった。

文菜は眩しげに空を仰ぎ、そのまま何かを確かめるように目を細める。

無言のまま、そっと手を繋ぎ歩き出す。

緊張しているのか文菜の手は少しだけ汗ばんでいた。

言葉を交わさなくても、自然と歩幅が揃う。

木立に囲まれているせいか、あるいは山あいのせいなのか、空気にはひんやりとした涼気が漂っている。

鳥居をくぐると、玉砂利が敷かれた参道が続き、踏みしめるたびに「ざくっ、ざくっ」と控えめな音が心地よい。

ひとつひとつの足取りが、日常の喧騒を置き去りにし、何か大きなものの中へと歩み入る儀式のようにも思えた。

参拝客は思いのほか多かった。

老夫婦が手を取り合って歩き、小さな子どもを抱いた母親が鳥居の前で丁寧に頭を下げている。

誰もがそれぞれの願いを胸に抱きながら、静かに境内を進んでいた。

右手には、伝法川の清らかなせせらぎ。

水面は陽光にきらめき、銀の鱗のように揺れ、その傍らの草が風にそよぐ。

「あっ……」

ふと、文菜がその光景に目を止め、小さく微笑む。

視線の先には、一匹の蝶。

文菜の目を追うように、ふわりと空へと舞い上がっていった。

背の高い木々に覆われ、濡れた葉や木の匂いに包まれ境内。

左手には社務所の建物がある。

木の格子戸の奥に人影がちらりと動いた。

ほどなくして、紫色の袴に白い装束をまとった男が、ゆっくりと姿を現す。

整えられた顎髭、濃い眉。その面立ちには、どこか気品と厳しさが同居している。

その顔には見覚えがあった。

根元義信――。

宗顕の息子。

隣を歩く文菜の手に、ふいに力が込められた。

そっと俺の肩に身を寄せ、まるで見られたくないものを視線で避けるように、小さく身体をすくめた。

俺はそっと顔を傾けて問いかける。

「どうした?」

囁くように声をかけるが、文菜は答えず、どこか一点をじっと見つめている。

その視線を追うと――

本殿の左脇。

大きな杉の木の根元に、ひとりの女性が立っていた。

飛田五月。

遠目でもわかる、研ぎ澄まされたような存在感。

薄いグレージュの着流しに、深緑の羽織。

あでやかさよりも静けさを纏ったような佇まい。

黒髪はゆるくまとめられ、白磁のような肌と相まって、まるでここだけ時間が異なるかのようだった。

静けさの中にあって、彼女だけが異なる空気を纏っているように見える。

こちらにはまだ気づいていない――様子だった。

「行こう」

俺は文菜の手を引き、歩き出した。玉砂利がわずかに音を立てる。

「……あっ」

文菜のか細い声が漏れた。

そのまま視線を落とし、顔を伏せるようにして歩く。

義信が、静かに歩み寄り、五月の隣に立った。

ふたりは短く言葉を交わすと、そのまま奥の道へと並んで歩いていく。

二人の姿は、森の陰に吸い込まれるように見えなくなる。

その光景を無言で見届けてから、俺たちも本殿の方へと足を向けた。

幹の太い杉木立に囲まれたその建物は、まるで鎮守の森に抱かれるように、ひっそりと佇んでいる。

黒ずんだ檜皮葺の屋根が重々しく反り、年月を経てなお凛とした気配を纏っていた。

正面には、色あせた朱塗りの階段と、しめ縄を掲げた注連柱。

大きな扁額には、風雨にさらされて少し掠れた神名が刻まれている。

木組みは隙なく組まれ、細部に施された彫刻がかすかな金箔の名残をとどめていた。

陽光が木々の合間からわずかに差し込み、格子を通して落ちる光と影が、床に静かな紋様を描いていた。

すぐ傍に立つだけで、ひとつひとつの部材に籠められた祈りや畏れのようなものが、ひたりひたりと降りてくるようだった。

文菜が隣で足を止め、俺もそっと手を離す。

柏手を打つ音が、境内の静けさのなかにふたつ、静かに響いた。

文菜の手の動きは、いつも通り丁寧で、どこか柔らかい。

だが、その表情には影が差していた。

手を合わせている間、文菜はひとことも発さなかった。

伏せたままのまつ毛が長く、頬に影を落としている。

枝葉を揺れや、鳥のさえずりの中で、その沈黙だけがくっきりと際立つ。

そのまま、ふたりで本殿脇の杉の木へと歩を進めた。

幹に近づくにつれ、空気がひんやりと変わる。

苔むした根元には、かすかな湿り気があり、踏みしめると柔らかな感触が返ってきた。

香りはするはずもないのに、ふと脳裏をかすめたのは、あの独特の香水の匂いだった。

義信と五月が一緒にいた――

それだけで、彼女がこの件に無関係ではないと確信するには、十分だった。

ふたりが消えていった道には、ロープが張られ、立ち入り禁止の札が木に括りつけられていた。

〈この先、崖崩れのため通行止め〉と、風雨にさらされた案内板が告げている。

「……文菜、大丈夫か?」

不安になって声をかけると、文菜はふと我に返ったようにまばたきし、こくりと小さくうなずいた。

「あ、うん……」

その声にはまだ微かに震えが残っている。

気を紛らわせるように、俺は話題を振った。

「さっきの、知ってる人?」

文菜はしばらく逡巡し、小さく唇を動かした。

「……あの、五月さんと会ってた男の人……。玲美のお父さん」

「え?」

思わず聞き返した。

俺の中で、点と点がかすかに結ばれそうになり、ぞわりと背筋が粟立つ。

玲美の父――つまり、根元義信。

文菜の表情は硬く、しかしその瞳の奥には、戸惑いと何かを悟ったような光が揺れていた。

たしかに、玲美の苗字は根元だった。けれど学年には同姓が何人もいたから、特段結び付けることはしなかった。

だが、もし玲美が関わっているとしたら。文菜の身に起きていた、あの不可解な現象――それも単なる怪異ではなく、もっと現実的な意図が潜んでいるのかもしれない。

そういえば、義兄が言っていた。

義信には娘が二人いると――。

いや……今朝の影の男のこともある。

簡単には決めつけられないか……

二人が消え去った道は川沿いを山の奥へと通じているようだった。

木漏れ日が街灯のように苔むした地面を照らす。

昼間だというのに、まるで薄暮のような静けさ。

異界への入り口のようだった。

「すいませんね。ここから先は立ち入り禁止になってますもんで」

不意にかけられた声に、ふたり同時に振り返った。

作業着姿の中年の男性が、帽子を取って申し訳なさそうに立っていた。

「この先の奥宮には、お参りできないんですね」

俺が尋ねると、男はロープを指し示した。

「はい。ごらんの通り崖が崩れましてね。危なくて……」

「そうですか……でもさっき、この先に入って行かれた人がいましたけど」

俺がそう告げると、男は一瞬だけ口元を引き締めた。だがすぐに柔らかい口調に戻り、声をわずかに低くする。

「関係者の方でしょうな。あそこは……まあ、一般の方が入れるような場所じゃありません」

その言葉に、妙な含みを感じた。

単なる通行止めではない。

そこには、もっと別の――意図された理由がある。

「なるほど。ありがとうございました」

軽く会釈し、文菜とともにその場を後にする。

文菜の肩はまだこわばっていた。

歩幅は俺に合わせているものの、どこか頼りなく、微かに体が震えているのが手のひらから伝わる。

そっと指を絡めるように手を握り直すと、文菜は顔を上げ、小さく微笑んだ。

伏せがちな横顔に、山の風がふわりと吹きかかり、額の髪をそっと流していく。

玉砂利の下で小石が転がる音、木々の間を渡る風のざわめき、四方から注ぐ蝉の合唱の中に、ふと混じるように鶯の甲高い鳴き声が響いていた。

境内を抜け、鳥居の先に広がるまばゆい空間が、現実とは異なる別の世界のように感じられる。

陽だまりの中で待っていた車に辿り着く。

ドアを開けると、閉じ込められていた熱気がむわりと噴き出し、肌を撫でる。

エンジンをかけ、エアコンの冷気がゆっくりと車内を満たしはじめるころ、俺はスマホを取り出した。

「文菜、ちょっと……飛田五月に電話してみる」

「え?」

文菜が不安げにこちらを見る。

俺は微笑んでうなずき、発信ボタンを押した。

コール音が三度鳴ったあと、滑らかな女の声が応じた。

「もしもし?」

「香取ですけど」

「あら、諒くん。連絡頂けて嬉しいわ」

落ち着いた口調に、どこか含みのある微笑みが混じっている。

「いま、どこです?会えませんか?」

風にそよぐ木々の影がフロントガラスに淡い斑模様を描いていた。

「あら?それって、デートのお誘い?」

からかうような口調。

電話の向こうにいる彼女が、外にいるのだと分かる。

風を切るような微かなノイズ。鳥の声。

義信が隣にいるはずなのに、俺の名を出して、平然と会話を続けている――。

これは、俺に聞かせるつもりなのか。

それとも、全て織り込み済みで余裕なのか。

「今なら少し時間があるので、その……文菜の力になれるって話を聞ければと」

あえて、善意にすがるような口ぶりを選ぶ。

相手の出方を伺いながらも、言葉には静かな懇願の色を滲ませた。

「ふーん。諒くんは今どこにいるのかしら?」

「……山王神社です」

「そうなんだ、なるほどね。わかったわ。ただ、午後でもいいかしら?」

「……分かりました。場所は?」

「そうね……あなたが決めていいわよ」

「じゃあ、ベイリゾート夕凪島のロビーで。時間は……」

文菜がちらりと俺を見る。

俺はうなずきながら言った。

「14時で」

「楽しみだわ、それじゃあ」

通話が切れる。

手の中で熱を帯びていたスマホをポケットに戻し、大きく息を吐いた。

「午後、会うことになった」

「うん……」

文菜の声は細く、だがはっきりと返ってくる。

膝の上でぎゅっと握りしめた小さな手。

視線を落としながらも、何かを言いたげにこちらを伺っている。

「たぶん、今の会話で気が付いたんだろうな。自分が見られて連絡をして来たって」

「そう……」

文菜の目がゆっくりと細められる。

そのまなざしの奥で、かすかに光る意志。

「大丈夫?」

文菜はコクリと頷いた。

その瞳に宿る光はまだ揺れていたが、奥にある芯の強さが、微かにこちらへと向けられていた。

「じゃあ、夜明さんに会いに行くよ」

アクセルを踏んだ。ハンドルを切りまた木々のトンネルの道へと向けて走り始めた。

助手席の文菜が、すぅ、と小さく息をついた。

その静けさが、俺の中にゆっくりと広がっていった。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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