神社で見たもの
文菜の思いがけない提案で、俺たちは山王神社へ向かうことになった。
瀬田町から、中山町、肥土山町がある盆地へと続く峠道進む。
道は時に小さく、時に大きくうねりながら、まるで蛇のように山を越えていく。ハンドルを握る手に神経を集中させながらも、俺の意識は次第に、その先に待つものへと向けられていった。
山王神社があるのは、峠を越え、伝法川の上流に沿ってさらに奥まった山あいの地区。
真っ直ぐな坂道を下り、県道を左に折れれば中山、そして肥土山の集落へと続く。
車は小さな橋を渡り右折して、緩やかな上り坂を進んでいく。
その先で、巨大なコンクリートの壁が突如視界を遮るように現れる。
ダムだった。
その脇の急な勾配の坂道を抜けると、右手には山の緑を静かに映したダム湖が広がっていた。
湖面は風にかすかに波打ち、空の青と木々の色を混ぜ合わせたような、深い色を湛えている。
湖の奥へと続く道は、まるで山の息づかいに導かれるように、細く、慎ましく伸びていた。
道はさらに山中にへと分け入り、生い茂る木々のトンネルのような道路と川が並走する。
車一台がやっと通れるほどの道幅で、対向車との離合には注意が必要だった。
まだ雨の名残を含んだ山の斜面の木々からは、いくつもの雫が枝先からこぼれ落ち、フロントガラスを濡らしていく。
時おり、木立の隙間から渓谷のような風景が垣間見えた。
岩肌を縫うように澄んだ川が勢いよく流れ、日差しを受けた飛沫が光を跳ね返しながら、命あるもののように瞬いていた。
しばらく進むと、道が開け、視界がぱっと明るくなる。
そこには、思いがけないほど広々とした駐車場が広がっていた。
両側から迫りくる谷あいに、こんなに開けた土地があるとは思っていなかっただけに、少し驚く。
元からこの場所が拓けていたのか、それとも神社のために切り開かれたのか――そんなことをぼんやりと考えながら車を停めた。
目の前には、朱塗りの大きな鳥居が静かに佇んでいる。
長い年月を経ているはずなのに、どこか新しさすら感じさせるその赤は、凛として力強かった。
エンジンを切り、ドアを開ける。
外気に触れると、文菜がゆっくりと身を乗り出し、静かに立ち上がる気配があった。
文菜は眩しげに空を仰ぎ、そのまま何かを確かめるように目を細める。
無言のまま、そっと手を繋ぎ歩き出す。
緊張しているのか文菜の手は少しだけ汗ばんでいた。
言葉を交わさなくても、自然と歩幅が揃う。
木立に囲まれているせいか、あるいは山あいのせいなのか、空気にはひんやりとした涼気が漂っている。
鳥居をくぐると、玉砂利が敷かれた参道が続き、踏みしめるたびに「ざくっ、ざくっ」と控えめな音が心地よい。
ひとつひとつの足取りが、日常の喧騒を置き去りにし、何か大きなものの中へと歩み入る儀式のようにも思えた。
参拝客は思いのほか多かった。
老夫婦が手を取り合って歩き、小さな子どもを抱いた母親が鳥居の前で丁寧に頭を下げている。
誰もがそれぞれの願いを胸に抱きながら、静かに境内を進んでいた。
右手には、伝法川の清らかなせせらぎ。
水面は陽光にきらめき、銀の鱗のように揺れ、その傍らの草が風にそよぐ。
「あっ……」
ふと、文菜がその光景に目を止め、小さく微笑む。
視線の先には、一匹の蝶。
文菜の目を追うように、ふわりと空へと舞い上がっていった。
背の高い木々に覆われ、濡れた葉や木の匂いに包まれ境内。
左手には社務所の建物がある。
木の格子戸の奥に人影がちらりと動いた。
ほどなくして、紫色の袴に白い装束をまとった男が、ゆっくりと姿を現す。
整えられた顎髭、濃い眉。その面立ちには、どこか気品と厳しさが同居している。
その顔には見覚えがあった。
根元義信――。
宗顕の息子。
隣を歩く文菜の手に、ふいに力が込められた。
そっと俺の肩に身を寄せ、まるで見られたくないものを視線で避けるように、小さく身体をすくめた。
俺はそっと顔を傾けて問いかける。
「どうした?」
囁くように声をかけるが、文菜は答えず、どこか一点をじっと見つめている。
その視線を追うと――
本殿の左脇。
大きな杉の木の根元に、ひとりの女性が立っていた。
飛田五月。
遠目でもわかる、研ぎ澄まされたような存在感。
薄いグレージュの着流しに、深緑の羽織。
あでやかさよりも静けさを纏ったような佇まい。
黒髪はゆるくまとめられ、白磁のような肌と相まって、まるでここだけ時間が異なるかのようだった。
静けさの中にあって、彼女だけが異なる空気を纏っているように見える。
こちらにはまだ気づいていない――様子だった。
「行こう」
俺は文菜の手を引き、歩き出した。玉砂利がわずかに音を立てる。
「……あっ」
文菜のか細い声が漏れた。
そのまま視線を落とし、顔を伏せるようにして歩く。
義信が、静かに歩み寄り、五月の隣に立った。
ふたりは短く言葉を交わすと、そのまま奥の道へと並んで歩いていく。
二人の姿は、森の陰に吸い込まれるように見えなくなる。
その光景を無言で見届けてから、俺たちも本殿の方へと足を向けた。
幹の太い杉木立に囲まれたその建物は、まるで鎮守の森に抱かれるように、ひっそりと佇んでいる。
黒ずんだ檜皮葺の屋根が重々しく反り、年月を経てなお凛とした気配を纏っていた。
正面には、色あせた朱塗りの階段と、しめ縄を掲げた注連柱。
大きな扁額には、風雨にさらされて少し掠れた神名が刻まれている。
木組みは隙なく組まれ、細部に施された彫刻がかすかな金箔の名残をとどめていた。
陽光が木々の合間からわずかに差し込み、格子を通して落ちる光と影が、床に静かな紋様を描いていた。
すぐ傍に立つだけで、ひとつひとつの部材に籠められた祈りや畏れのようなものが、ひたりひたりと降りてくるようだった。
文菜が隣で足を止め、俺もそっと手を離す。
柏手を打つ音が、境内の静けさのなかにふたつ、静かに響いた。
文菜の手の動きは、いつも通り丁寧で、どこか柔らかい。
だが、その表情には影が差していた。
手を合わせている間、文菜はひとことも発さなかった。
伏せたままのまつ毛が長く、頬に影を落としている。
枝葉を揺れや、鳥のさえずりの中で、その沈黙だけがくっきりと際立つ。
そのまま、ふたりで本殿脇の杉の木へと歩を進めた。
幹に近づくにつれ、空気がひんやりと変わる。
苔むした根元には、かすかな湿り気があり、踏みしめると柔らかな感触が返ってきた。
香りはするはずもないのに、ふと脳裏をかすめたのは、あの独特の香水の匂いだった。
義信と五月が一緒にいた――
それだけで、彼女がこの件に無関係ではないと確信するには、十分だった。
ふたりが消えていった道には、ロープが張られ、立ち入り禁止の札が木に括りつけられていた。
〈この先、崖崩れのため通行止め〉と、風雨にさらされた案内板が告げている。
「……文菜、大丈夫か?」
不安になって声をかけると、文菜はふと我に返ったようにまばたきし、こくりと小さくうなずいた。
「あ、うん……」
その声にはまだ微かに震えが残っている。
気を紛らわせるように、俺は話題を振った。
「さっきの、知ってる人?」
文菜はしばらく逡巡し、小さく唇を動かした。
「……あの、五月さんと会ってた男の人……。玲美のお父さん」
「え?」
思わず聞き返した。
俺の中で、点と点がかすかに結ばれそうになり、ぞわりと背筋が粟立つ。
玲美の父――つまり、根元義信。
文菜の表情は硬く、しかしその瞳の奥には、戸惑いと何かを悟ったような光が揺れていた。
たしかに、玲美の苗字は根元だった。けれど学年には同姓が何人もいたから、特段結び付けることはしなかった。
だが、もし玲美が関わっているとしたら。文菜の身に起きていた、あの不可解な現象――それも単なる怪異ではなく、もっと現実的な意図が潜んでいるのかもしれない。
そういえば、義兄が言っていた。
義信には娘が二人いると――。
いや……今朝の影の男のこともある。
簡単には決めつけられないか……
二人が消え去った道は川沿いを山の奥へと通じているようだった。
木漏れ日が街灯のように苔むした地面を照らす。
昼間だというのに、まるで薄暮のような静けさ。
異界への入り口のようだった。
「すいませんね。ここから先は立ち入り禁止になってますもんで」
不意にかけられた声に、ふたり同時に振り返った。
作業着姿の中年の男性が、帽子を取って申し訳なさそうに立っていた。
「この先の奥宮には、お参りできないんですね」
俺が尋ねると、男はロープを指し示した。
「はい。ごらんの通り崖が崩れましてね。危なくて……」
「そうですか……でもさっき、この先に入って行かれた人がいましたけど」
俺がそう告げると、男は一瞬だけ口元を引き締めた。だがすぐに柔らかい口調に戻り、声をわずかに低くする。
「関係者の方でしょうな。あそこは……まあ、一般の方が入れるような場所じゃありません」
その言葉に、妙な含みを感じた。
単なる通行止めではない。
そこには、もっと別の――意図された理由がある。
「なるほど。ありがとうございました」
軽く会釈し、文菜とともにその場を後にする。
文菜の肩はまだこわばっていた。
歩幅は俺に合わせているものの、どこか頼りなく、微かに体が震えているのが手のひらから伝わる。
そっと指を絡めるように手を握り直すと、文菜は顔を上げ、小さく微笑んだ。
伏せがちな横顔に、山の風がふわりと吹きかかり、額の髪をそっと流していく。
玉砂利の下で小石が転がる音、木々の間を渡る風のざわめき、四方から注ぐ蝉の合唱の中に、ふと混じるように鶯の甲高い鳴き声が響いていた。
境内を抜け、鳥居の先に広がるまばゆい空間が、現実とは異なる別の世界のように感じられる。
陽だまりの中で待っていた車に辿り着く。
ドアを開けると、閉じ込められていた熱気がむわりと噴き出し、肌を撫でる。
エンジンをかけ、エアコンの冷気がゆっくりと車内を満たしはじめるころ、俺はスマホを取り出した。
「文菜、ちょっと……飛田五月に電話してみる」
「え?」
文菜が不安げにこちらを見る。
俺は微笑んでうなずき、発信ボタンを押した。
コール音が三度鳴ったあと、滑らかな女の声が応じた。
「もしもし?」
「香取ですけど」
「あら、諒くん。連絡頂けて嬉しいわ」
落ち着いた口調に、どこか含みのある微笑みが混じっている。
「いま、どこです?会えませんか?」
風にそよぐ木々の影がフロントガラスに淡い斑模様を描いていた。
「あら?それって、デートのお誘い?」
からかうような口調。
電話の向こうにいる彼女が、外にいるのだと分かる。
風を切るような微かなノイズ。鳥の声。
義信が隣にいるはずなのに、俺の名を出して、平然と会話を続けている――。
これは、俺に聞かせるつもりなのか。
それとも、全て織り込み済みで余裕なのか。
「今なら少し時間があるので、その……文菜の力になれるって話を聞ければと」
あえて、善意にすがるような口ぶりを選ぶ。
相手の出方を伺いながらも、言葉には静かな懇願の色を滲ませた。
「ふーん。諒くんは今どこにいるのかしら?」
「……山王神社です」
「そうなんだ、なるほどね。わかったわ。ただ、午後でもいいかしら?」
「……分かりました。場所は?」
「そうね……あなたが決めていいわよ」
「じゃあ、ベイリゾート夕凪島のロビーで。時間は……」
文菜がちらりと俺を見る。
俺はうなずきながら言った。
「14時で」
「楽しみだわ、それじゃあ」
通話が切れる。
手の中で熱を帯びていたスマホをポケットに戻し、大きく息を吐いた。
「午後、会うことになった」
「うん……」
文菜の声は細く、だがはっきりと返ってくる。
膝の上でぎゅっと握りしめた小さな手。
視線を落としながらも、何かを言いたげにこちらを伺っている。
「たぶん、今の会話で気が付いたんだろうな。自分が見られて連絡をして来たって」
「そう……」
文菜の目がゆっくりと細められる。
そのまなざしの奥で、かすかに光る意志。
「大丈夫?」
文菜はコクリと頷いた。
その瞳に宿る光はまだ揺れていたが、奥にある芯の強さが、微かにこちらへと向けられていた。
「じゃあ、夜明さんに会いに行くよ」
アクセルを踏んだ。ハンドルを切りまた木々のトンネルの道へと向けて走り始めた。
助手席の文菜が、すぅ、と小さく息をついた。
その静けさが、俺の中にゆっくりと広がっていった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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