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カゲヌシ  作者: ぽんこつ


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未来を想う

挿絵(By みてみん)

車に乗り込むと、エンジンの静かな振動が、夏の朝の空気に溶け込むように響いた。

エアコンの冷気が表面の熱は冷ませてくれているけど、体の中の想いまでは冷ますことは出来ない。

諒の中で気持ちの変化があったのは確かで。

昨夜の苦しくなるほどの抱擁の名残が思い起こされて腕を抱きしめた。

諒の想いの結晶が形となって私の前にやって来た。

嬉しくて、嬉しくて、夢じゃないかと思う。

でも、予感がなかったわけじゃない。

――もしかしたら。

ほんの小さなひっかかりが、心の片隅にあった。

だけど、昨日の今日で、まさかこんなふうに――プロポーズなんて、思ってもみなかった。

想像していた未来の、ずっと斜め上を飛んできた。

左手の薬指にある指輪が、光に触れる度鮮やかな緑色が淡く煌めく。

その余韻の中で、諒がふと口を開いた。

「文菜、結婚式なんだけど……」

ハンドルの上で両手を組むようにして、視線はフロントガラスの先へと向けられている。

声のトーンは控えめだけど、その奥に照れくささと覚悟が混じっているのが、すぐにわかった。

「はい」

私は両手を膝の上に置いて、背筋を伸ばす。

「文菜の誕生日でいい?」

その言葉に、頬がふわりと緩む。

何の迷いもなく、答えは決まっていた。

「……うん」

あの、幼いころからずっと迎えてきた日が、これからはふたりにとっての記念日になるのだと思うと、不思議な気持ちがした。

それに――

諒の横顔を見つめた。照れ臭そうにこめかみに手を当てていた。

その表情で、私は理解する。

その日を選ばずにはいられない理由。

「11月11日、あの日だったんだな」

「うん、そうだよ」

あの日――

諒が傘を差し出してくれた、もしかしたら心を差し出してくれた。

初めて”会話”した、特別な始まりの日。

「俺は、後から気が付いたんだけど」

中指で眼鏡を押し上げながら、諒は顔を上げた。

「うれしいよ」

私の声に反応してこちらを向いた諒は、ふっと頬を上げて微笑んだかと思うと、すぐに表情を引き締め、次の言葉を静かに口にした。

「それから、ご両親に挨拶したいんだけど、この休み中に会えるか聞いといてほしい、急だから無理かもしれないけど」

「うん」

諒の口からこぼれ落ちる言葉ひとつひとつが、まるで未来への階段を、ふたりで一歩ずつ踏みしめているように感じられた。

過去から続く線が、ようやく今、ちゃんと輪郭を持ち始めて、これからを描き出していく――そんな予感。

ハンドルを握る諒が、また私の方を向いて、穏やかな微笑みを浮かべる。

その笑みに、私はゆっくりと、けれど確かに微笑み返す。

エンジンの音が立ち上がり、車はやわらかな振動とともに動き出した。

諒の滑らかな運転に導かれて、朝の光の中を進んでいく。

細い路地をするすると抜けていくと、両側の家々の影が少しずつ後ろへと流れていく。

やがて通りが開け、国道に合流する頃、諒は一瞬だけ視線を私に向け、表情を引き締めて口を開いた。

「これから、文菜のおばあさんの写真を、高太朗さんから託された人物に会いに行こうと思ってるんだけど。一緒に来てくれる?」

「うん、もちろん」

私の返事に、諒は安心したように小さく頷いた。

「そうしたら、高太郎さんが誰かに写真を預けたっていう、諒くんの推測通りだったんだ」

「その人物というのがね、夜明友昭……」

「……え?……山王神社の宮司の?」

昨日、聞いたばかりの名前。

見えない何かが繋がっていく。

そんな気がする。

山王神社。

夢で見たあの奥宮――燭台のような灯籠が参道の両脇に整然と並び、そこに灯るはずのない炎の道が、私の心に強く刻まれていた。

影の社。

巫女装束をまとった、顔の見えない女性――。

「そうなんだ、まさかね友人だったとは驚きだね。しかも高太郎さんと同級生だったなんて」

「そうなんだ……それじゃあ、山王神社に行くの?」

少しドキドキする。期待と不安の声。

「いや肥土山町にある夜明さんの自宅を訪ねてみようと思う」

「自宅は神社から離れてるんだ」

「そうだね、俺の家なんかは近くだけど」

「でも、どうして友人に渡したのかな?」

私が首を傾げると、諒は前を見据えたまま、ほんのわずかに口元をゆるめた。

「勝太郎さんの話だと、どうやら珠代さんの幸せを願って、祈祷してもらうのに写真を使ったみたいだった……」

「ああ、夜明さんの家は神社だから……」

「そう、託したんじゃないかな、信じれる友に。道連れに持っていくより、ただ残していくより……」

「幸せを願って……」

諒の言葉の続きを補うように出た言葉。

過去が過去だけで終わらずに、誰かの未来を願って託されていたという、その想いの深さ。

高太朗が祖母を本当に愛していたあかしのように思えた。

「文菜」

名前を呼ばれて、ふと我に返る。

「ん?なあに」

「遠回りしたけど、これからは、ずっと一緒だ」

まっすぐに、まるで誓いのように言いきったその言葉に、頬がじんわりと熱を帯びていく。

「……幸せです」

心から湧いた言葉を素直に伝える。

諒は、ニコッと少年のように笑うと、どことなく軽やかな身のこなしで、ゆっくりハンドルを操作した。

車は夏の高い朝陽を受けた街を静かに走っていく。

窓の外では、電線越しに青色の空がのびていた。

街路樹の葉が、風に揺れながらきらきらと光を反射している。

左手の薬指に、まだ慣れない感覚があった。

そこにある小さな輪が、心の深い場所をくすぐるように、そっと存在を主張してくる。

気づけば、何度もそこに触れてしまう。

指で、あるいは、心で。

まるで、この数年間を凝縮したような展開に驚く余裕なんてなくて、ただただ幸せに、私たちはようやく、“はじまり”の扉を開けたのだ。

この瞬間から始まる、「ふたりの時間」を、私は信じていた。

小さく、ひとつ息を吐いた。

諒からの想いに応えるのは、ただ幸せを享受することじゃない。

一緒に、カゲヌシの正体を突き止めること。

それこそが、諒を過去と呪縛から解放する唯一の道であり、彼自身が本当の意味で幸せになるための鍵。

だから、私も一緒に向き合う。

私のなかにある秘密を、解き明かすためにも。

「あのね、聞いて欲しい事があるんだけど」

「ん?なんだい?」

私は明け方に見た人影のことを語り始めた。

あの、雨の中に立ち尽くしていた、影のような存在。

まるで、伝説の中に出てくる“カゲヌシ”のような……得体の知れない気配だった。

諒は、真剣な眼差しで、うん、うんと頷きながら聞いてくれる。

相づちひとつ、呼吸ひとつ、私の語る言葉に寄り添ってくれているのがわかる。

話し終えると、諒は中指で眼鏡の縁をそっと押し上げた。

「……実は、俺も見たんだよね、明け方に」

「え……?」

思わず、声が漏れた。

目と口を大きく見開いたまま、諒の横顔をじっと見つめる。

「……そっか。文菜も、見たんだな……」

少しだけ眉をひそめながら、ため息混じりの諒の声音に、微かな動揺と共感が滲んでいた。

「……影の男、カゲヌシだったのかな」

「分からない……でも、たしかに“在った”よね」

諒は少し遠くを見るような眼差し。沈黙の中に、言葉にならない感情のかけらが漂う。

そういえば――

昨日のミーティングでも、影の男の目撃談がまた噂になっていたっけ。

「私たち以外にも、見た人……いるのかな?」

「うん。昨日、噂を聞いた限りだと……いてもおかしくない」

影にまつわる、不穏で不可解な気配。

でも――一緒なら、きっと乗り越えられる。

「ねえ、せっかくだから山王神社にお参りして行かない?」

「え?」

思っていた以上に大きな声が返ってきて、驚いたように諒がこちらを見る。

「肥土山町に向かう通り道でしょ、やっぱり気になるし、それに諒くんも一緒だし……」

その言葉に、諒は少し苦笑しながら、ハンドルを滑らかに切った。

「……じゃあ、サクッとお参りだけな」

何となく戸惑いを含んだ声。

山王神社はきっと鍵となる場所のような気がする。

そこへ私が行く事を、気に掛けているんだと思う。

嬉しいけど、私は力になりたい。

その横顔を、私はそっと見つめる。

昨日の夜――飛田五月と会ったことを、話すかどうか迷っていた。

五月からは秘密にと言われていた。

けれど、五月を尾行していたはずの明智の口から、遅かれ早かれ、諒に私が五月と接触していた事は分かってしまう。

でも……結局、会ったところで、大した会話はできなかった。

「彼と別れなさい」

この一言だけが残っている。

けれど、今――

プロポーズを受けた今、その言葉の意味なんてどうでもよかった。

私は、私の大切にしたいものを、大切にするだけ。

それでいい。そう思えた。

たとえ、これから何かが起ころうとも。

わからないことがあるとしても。

今、目の前にいる確かな人と、この瞬間を大切にしていきたい。

そう――生きていきたい。

迷いも、不安も、いつかまた訪れるだろう。

けれど、この気持ちを原点にして、私は歩いていこう。

そう、心に決めた。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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