予感……
文菜は目が覚めた瞬間に、空気が違うと思った。
いつもより深く息を吸い込む。
まだ身体は布団のぬくもりに包まれているのに、意識だけが浮かび上がって、しばらく天井を見つめたまま、動けなかった。
眠れたような、眠れなかったような、曖昧なまま迎えた朝。
あれからまだ一時間しか経っていない。
それなのに、目覚めは悪くなかった。
どこかで気持ちが高ぶっている。
自分でも気づかないうちに、何かを予感しているのかもしれない。
頭の中がざわついて、まるで遠くで誰かが、自分の名を呼んでいるような気がしていた。
――あれは影の男だったのだろうか。
布団を押しのけて、そっとベッドから身を起こす。
ゆっくりと立ち上がり、大きく息を吸い込みながら伸びをした。
朝の陽ざしを受けて淡く透けたカーテンの端に手をかけ、ゆっくりと引いた。
差し込んできた光が眩しくて、思わず目を細める。
未明の雨が嘘だったかのように、澄んだ青空が窓の外いっぱいに広がっていた。
家の前の道を、近所の人が犬を連れて歩いている。
柔らかな日常の音が、少しずつ空間を満たしてゆく。
畑の前に止まっていた明智の車は、今朝は見当たらなかった。
鍵を外して窓を開けると、夏とは思えないような涼しい風が吹き込んできて、頬に触れ、髪をさらりと弄んでいく。
心地良さに身を委ねていると、風の中に、昨夜の記憶が流れこんでくる。
彼と別れなさい――
哀しげなまなざしでそう言った五月の声が、耳の奥に蘇る。
私が、諒から離れられないことを、彼女はきっと分かっていた。
それでもなお、あえて口にした。
その真意は、今もわからない。
五月が、私たちのことをどこまで知っていたのか。
付き合い始めたのは、ほんの昨日のこと。
それを、知っていて言ったのか、知らずに、そう思い込んでいたのか。
それとも――どこかで、何かを見ていたのか。
いずれにせよ、言葉だけが、胸に刺さったまま、消えなくて、触れるたびに、かすかに痛む。
そのあと、不意に現れた諒の腕が、私を強く、苦しいくらいに抱きしめた。
あふれるようにぶつけてきた、言葉たち。
心の奥にあった本音。
――嬉しかった。
素直に、反応した。
私の心も。
あのまま、一緒に夜を過ごしていてら――
でも、あの時の自分は落ち着いていた訳じゃないけど、どこかで達観していたのかもしれない。
いや、五月の言葉が感情をおさえていたのかも。
あれから部屋に戻って、布団にもぐると、不思議なくらいすんなりと眠りに落ちていた。
窓の外では、電線の雀達が、かわいいさえずりを掛け合っている。
すうーっと息を吐いて窓を閉めた。
軽やかな風の余韻が、まだ頬に残っている気がする。
洗面所に向かい、水の冷たさで顔を引き締め、髪を丁寧に整える。
簡単な朝食を口に運ぶ間も、手は迷いなく動いているのに、心はどこか現実に追いついていなかった。
昨日の夜の続きを、まだ夢の中で見ているような、不思議な浮遊感が残っていた。
着替えようとして、ふと鏡の前で足を止めた。
思わず、立ちすくむようなかたちになる。
手にしていたのは、スカイグレーのトップスに、白いスカート。
堅苦しさはないけれど、清潔感があって、どこか柔らかな印象を持つ服。
派手さもなく、けれど心を込めた装いだった。
今日は、諒のご両親のお墓参り。
だけど――頭のどこかでは、実際に会うつもりで選んでいた。
墓前に手を合わせるだけのつもりじゃない。
言葉にはしていない気持ちが、服の色にも、丈にも、そっと滲んでいた。
“何でもない服”のつもりだったのに。
無難に整えたつもりだったのに。
鏡の中の私は、まるで何かを――いや、誰かを、待っているような顔をしていた。
そんなつもりはなかったのに、視線の奥に、言い訳できない想いが見えてしまう。
スカートの裾に手を添えて、何度もなぞるように整えてみる。
けれど、どれだけ直しても、しっくりこなかった。
メイクも服装に合わせて控えめにする。
華やかにはせず、目元も口元も、ほんの少し色を添えるだけに留めた。
髪も、寝ぐせをアイロンでまっすぐに直して、きっちりまとめすぎないように整える。
なにかが、始まりかけている――そんな予感が芽生えていた。
それが何かは、まだ分からない。
だからこそ、不安と期待が、溶け合ったまま心に残る。
どっちつかずの思いを抱いたまま、最後にもう一度、鏡の前に立つ。
そして、小さく微笑んでみせた。
誰かに見せるためではなく、自分に向けて。
わずかでも、確かに込めた意思とともに。
ブウッ…ブウッ…。
スマホが震える。画面に浮かんだのは、諒からのメッセージ。
『今、家の前ついた』
その文字を見た瞬間、心は正直にトクンと跳ねる。
「今行くね」
指が勝手に動いて返信を送る。
部屋を出て階段を足早に下りる。
玄関で靴を履いていると、母がひょいと顔を覗かせた。
「……そのスカート、今日の主役か何かかしら?」
ニヤッと悪戯っぽく笑いながら、背後にぴたりと付いてくる。
「そんなに可愛くして、どこに嫁に行くのよ?」
私が小さく笑って「ちがうよ」と答えると、
でも、母は「そうかしら」と言って、人差し指を顎に当て、わざとらしく首を傾げてみせた。
「今日は、お昼までだから……」
言い訳のように、ぽつりと告げる。
「そっか、気を付けてね!」
明るい声とともに、母は私の肩をポンと軽く叩くと、ひらりとリビングへ戻っていった。
淡い水色のスニーカーを履いて立ち上がる。
「そしていつか、誰かを愛し、その人を守れる強さを~」
母の陽気な鼻歌が背中に届いた。
自分の力に変えていけるように……鼻歌の続きを口ずさんだ。
私は顔を上げて、玄関の扉を開けた。
「行ってきます」
光があふれていた。
蝉の合唱が陽射しと共に降り注ぐ。
空気が夏の匂いを運んでくる。
諒の車は、いつもの場所に停まっていた。
ガラス越しに顔を見た瞬間、諒は片手を小さく上げて微笑んだ。
そのしぐさに、自然と心がやわらぐ。
助手席に腰を下ろすと、車内には菊の花の清らかな香りが漂っていた。
白と淡い紫の、静かな彩り。
「おはよう」
どこか照れ臭さと強張った声。
「諒くん、おはよう」
墓地までは車で5分とかからない。
ゆるやかに住宅街の中を走って行く。
木漏れ日がフロントガラスをかすめ、車内の空気をやわらかく揺らしていた。
うっすらと疲れの影をまとった横顔、目の下には、夜を越えてきたような小さなクマ。
眠れなかったのかな――
そう思ったけれど、その一言が、どうしても口にできなかった。
「お天気になって良かったね」
私の声が、空気にそっと浮かぶ。
「ああ、そうだね」
諒は前を向いたまま頷いた。
理由は分からないけれど、見慣れたはずの横顔が、少しだけ遠く見えた。
私は後部座席に手を伸ばし、花束をそっと持ち上げる。
花びらがふわりと揺れ、陽光をまとって小さくきらめいた。
「私がお供えしてもいいかな」
「もちろん」
その一言に、目尻が下がる。
ああ、今日という日が、今、ゆったりと動き出している――そう感じた。
やがて、山の裾野にある駐車場に車が止まる。
エンジンが静まると、車内に鳥の声と木々のざわめきが入ってきた。
ドアを開けて、外気を吸い込む。
少し湿った風に土と緑の匂い立ち上る。
車を降りて、ふと交わる視線。
諒は何かを言いかけて、けれど言葉にはせず、小さく頷いただけだった。
その無言にわたしも頷いて、並んで歩き出す。
風が吹くたびに、木の葉がさらさらと擦れ合う音がした。
空の青さは深く、光はやさしかった。
雨の名残を含んだ空気が肌に心地よくて、どこまでも透き通るようだった。
諒はあまり喋らなかった。
私も同じだった。
だけどその沈黙は、落ち着くものだった。
昔からそうだった。
言葉がなくても、通じる静けさが、たしかにあった。
何かを選んだ人の静けさ。
諒の歩幅に合わせて、少しだけ速足になりながら、私は心の中で何度も問いかける。
今日……何かあるの?
諒の歩き方、その背中に、何かを決めた人の気配があった。
きっと、私にはそれが分かる。
でも――問いただすことはできなかった。
確かめてしまえば、その先にある思いまで急かしてしまいそうで。
だから私は、足元の草や、小さく揺れる花ばかりを見ていた。
そうして、同じ速さで、諒の隣を歩く。
墓地に近づくと、蝉の声が遠くで鳴いていた。
静かで、涼やかな音。
ここから先の風景は――
もう私ひとりでは、見られない気がした。
だから、私は歩き続けた。
諒の足音に寄り添いながら。
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