心に残る者
深夜の病院内は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
廊下の照明は落とされ、非常灯だけが淡い光を灯している。
その淡い光は、まるで呼吸を潜めるように頼りなく、壁や天井に不規則な影を濃く滲ませていた。
足の裏から伝わるヒヤリとした床の感触と、つないだ栞の手のぬくもりが、まだどこか高鳴る鼓動をゆっくりと宥めていくようだった。
百々楚姫の怨念は消えた。
それでも、彼女の最後の言葉が胸のどこかに引っかかっていた。
山背日立が死んでしまった理由。
彼が命を落とした場所と、奥勢理姫が殺された場所——
そこに共通していたのは、顎髭の長い男の姿。
名前は……根十三麻呪蛇麻呂。
百々楚姫は、彼が何かを企んでいたと言っていた。
いったい何を……考えたところで答えが出る訳でもないのに気になる。
そんな事を考えていたからか、病室までの道のりが、やけに長く感じられた。
扉を開けて電気を点けると、白い壁が視界いっぱいに広がり、眩暈がしそうなほどまばゆい。
私はゆっくりとベッドに腰を下ろすと、隣に栞が、ぴょこんと軽く跳ねるように座った。
慎哉は簡易ベッドに胡坐をかいて座り、眉根をわずかに寄せ、どこか痛みを堪えるように口元をかすかに引き結んでいる。
唇の端に、血がにじんでいた。
「慎哉さんは、どうしてここにきたの?」
私は床頭台の上にあるティッシュを手に取り、そっと差し出す。
「ありがとう……」
慎哉は口元を拭うと、しみたのか片頬をわずかにゆがめた。
「……百々楚姫に呼ばれたんだよ」
「呼ばれた?」
栞が小さく首を傾げ、瞳を瞬かせる。
「うん。おそらく——元の姫様の印が、僕をここへ導いてくれたんだろうね」
慎哉が淡く微笑みを浮かべる。
その笑顔には不思議な余韻があり、瞳の奥は、どこか遠くを見ているようだった。
その時、突然——
にわかに閃光が部屋の中を裂いた。
次の瞬間。
ドン!
バリバリバリッ!
炸裂するような大音量の雷が鳴った。
「きゃっ」
思わず私は栞の腕を掴み、互いに身を寄せ合った。
窓が僅かに震える。
続けざまにサーッと部屋の中にいても分かる音で雨が降り出し、ヒューッと風が抜ける音が耳元をかすめた。
慎哉は、そんな私達の様子を見て微笑んでいる。
「それで、こんな夜中なのに来てくれたの?」
「うん、約束したでしょ……力になるって」
慎哉はゆっくりと瞬きをして、視線を私に向けた。
その眼差しは、まるで夜の湖面のように澄んでいて、揺るぎない意志が込められていた。
「でも、ビックリしたよ、なんかアニメの世界の話みたいで……」
栞は小鳥のようにちょこちょこと、私と慎哉さんの顔を交互に見比べる。
その仕草が無邪気で、思わず笑みがこぼれた。
「そうかもね、なかなか目にする機会がない代物だからね」
慎哉さんは肩をすくめると、茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「……慎哉さん、そのご先祖様が亡くなった理由って……知ってるんですか?」
少し躊躇いながら尋ねると、慎哉さんは静かに首を横に振る。
「ううん、何も。前に話した通りのことだけ。記録も資料も、残ってないんだ」
私は横にいる栞の存在を意識しつつも、やはり聞いておきたかった。
山背日立を殺したとされるあの老人の姿が、脳裏から離れない。
なぜ日立は殺されたのか……それを知ることが百々楚姫への供養の一環になると思うから。
パーン!
バリバリッ!
激しい雷に、私はまた栞にしがみついた。
「もうやだぁ……」
栞は情けない声を上げる。
その顔がぐしゃっと泣きそうになっていて、妙に可愛かった。
かく言う私も雷は苦手。
お腹の奥がきゅっと縮こまり、全身がビクビクと震える。
「疲れたでしょ、少し休もう。また後で来るよ」
慎哉は立ち上がる。
「こんな雷の中、帰るの?」
栞が、私の代わりに気持ちを言葉にしてくれる。
「車だから平気だよ。……さすがに、僕も眠い」
慎哉は跳ねた前髪を、照れくさそうに掻き上げた。
「ここで寝ていけば?」
口にして少しドキドキした。
ただ傍にいてほしいという、それだけの気持ちなのに。
「ありがとう、気持ちだけ受け取るよ」
慎哉は胸に手を添えて、にっこり笑う。
そして、ひらひらと手を振りながら、静かに部屋を出て行った。
扉が閉まると同時に、雷鳴が私達を襲う。
抱き合った栞と見つめ合う。
そして笑い合う。
「ねぇ、あーちゃん……彼のこと、好きでしょ?」
「え……?」
栞は私の顔を覗き込むようにぐっと近づき、ジーッと見つめてくる。
「ふーん……やっぱりね。あーちゃん、分かりやすいもん」
「も、もう……しーちゃん!」
私は頬が熱くなるのを感じながら、ぷいっと横を向いた。
栞はくすくす笑いながら布団に潜り込み、顔だけひょこっと出してこちらを見ていた。
そのおでこをつつくと、栞はさらに目が細くなり楽しそうに、まるで子猫がくすぐられているみたいに、くすくすと喉の奥で笑う。
私は手元のリモコンに手を伸ばし、ぱちん、と部屋の明かりを落とす。
蛍光灯の残光がゆっくりと消えていく。
布団へ潜り込むと、栞が枕に頬を預け、小さな息をついて丸くなっていた。
ぬくもりを分け合うように、私たちは自然と寄り添う。
カーテンの隙間から差し込む稲光が、ぼうっと天井を照らす。
光と影が交互に揺れ、部屋の輪郭が一瞬だけ浮かび上がった。
ドン、ドン!
お腹の底に響くような騒がしい雷太鼓が通りすぎる。
鼓膜がきゅっと縮むような音に、思わず布団の中で身を固くする。
二人きりの空間に雨音だけが残った。
カーテンの向こう、窓を打つ無数の雫が、ぽつぽつ、さあっと途切れることなく降り続いている。
風がときおり唸りを上げて通りすぎるたび、ガラス窓がかすかに鳴った。
肩越しに見える栞の顔は、もう半分眠たげで、まぶたが重そうに揺れていた。
――目が覚めた時、世界がまた静かに始まっていても、私は、この夜の続きを信じていられる気がする。
私はそっと息をつき、その小さな寝息を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
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