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カゲヌシ  作者: ぽんこつ


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いにしへの記憶

挿絵(By みてみん)

レースのカーテンの隙間から、淡く光る月が顔を覗かせていた。

病室の壁も天井も白く、昼間の面影を残したように明るく感じる。

その明るさがどこか非現実的で、心細ささえ呼び起こす。

簡易ベッドの上で栞があぐらをかき、背中を丸めるように座っていた。

私は羽織っていたカーディガンを脱いで、軽くたたむと枕元に置いた。

「もう寝る準備、早くない?」

栞は軽口を叩きながらも、どこか目の奥に柔らかな疲労の色が宿っている。

「早起きしたし、どこかでずっと気を張ってたのかも」

自分でも気づかないうちに、ため息まじりの声になっていた。

言葉を終えると、小さな欠伸がひとつ。

つられた栞もひとつ。

口元を手で隠すしぐさが、まだ子どものように見えて微笑ましい。

私は横を向いて布団に潜り込んだ。

「まあ、早めにご飯食べたしね、お腹いっぱいなったら眠くなるよねぇ」

ふっと笑いながら、栞は目を細めた。

「あーちゃん、眠いんでしょ?」

何かを思いついたように、栞の瞳がいたずらっ子みたいに輝いた。

「どしたの?しーちゃん」

布団から顔を出して問いかけると、栞は簡易ベッドからひらりと降りて、私のベッドサイドにちょこんと腰かけた。その動きは羽根のように軽やかで、布団の端をつまみ、まるで幼稚園のお昼寝の時みたいにするりと滑り込んできた。

「昔みたいに一緒に寝よ」

その声は、はにかんだように小さくて、嬉しそうにニコニコしている。

眠いはずの瞳が、今はまるで星みたいにキラキラしていた。

「え、でも看護師さんとか来たら……」

そう呟く私に、栞はにこりと笑って「大丈夫」と一言。

一層体を押し付けてくる。

栞の体温がじんわりと伝わり、私の体も心も解かされていく。

幼稚園のお昼寝の時間、こうして一緒に眠ったっけ。

気がつくと、栞が布団を独り占めして、先生がもう一枚掛けてくれたことを思い出す。

そんな些細な思い出までが、今夜の優しい時間に溶け込んでいく。

「こうやって、手を繋いで寝れば、ナントカ姫が出てきても私が捕まえてられる」

そう言って、私の手を自分の顔の前でぎゅっと握りしめる。

その手には、小さな緑色の指輪が光を宿していた。

「しーちゃん、その指輪きれいだね」

素直にそう口にすると、栞は少し照れたように肩をすくめ、小さな笑みを浮かべて指輪をひらひらと揺らして見せた。

「ああ、これおばあちゃんの形見なんだ。普段はネックレスに付けてるんだ」

「そうなんだ……」

私の声も、自然とやわらかくなる。

すると、栞はまた大きな欠伸をして、目尻にうっすら涙を浮かべた。

その姿につられて、私も欠伸が込み上げ、同時に二人で声にならない笑い声を漏らす。

お腹が満たされていること。

栞の温もりに触れていること。

心も満たされていたのかもしれない。

こうして栞が傍にいてくれることが言葉にならない安心をもたらしてくれている。

少しずつ瞼が重くなり、栞の顔がぼやけていく。

気がつけば、栞の手を握ったまま、私は深い眠りに落ちていった――。

「おせり……なのですか?」

夢と現実の狭間のような世界で、栞が私の顔のすぐ前で寝息を立てている。

その柔らかな髪に、私はそっと指先を伸ばした。

撫でるたびに、心にぽっと温かな光が灯る。

不思議と優しい気持ちで満たされていく。

おせりって、誰だろう?

今話しかけていたのは――百々楚姫様?

あの辛く悲しい感情は一切なくて、ただ穏やかで、澄んだ感覚。

ひょっとして、これが本来の百々楚姫様の印、そして記憶。

もしかしたら、しーちゃんも誰かの印を持っているの?

私は栞の頭を撫で続けている。

ぼんやりとした炎のような明かりが、視界の奥で揺れている気がした――

「姉様、どうして人柱になるの?」

あどけない声が問いかける。

髪を一つに結った小さな少女が、涙を溜めた瞳を向けていた。

「それが――私たちの家に課せられた宿命だから、かしらね」

「じゃあ、奥勢理おせりも……いつか、そうなるの?」

「それは、わからないわ。でも……私たちは巫女の血を引く者。はるか遠い昔から、祈りと共に生き、祈りと共に人々を守ってきた家の者なの」

「人々の安寧のために?」

「ええ。命を繋ぎ、災いを封じるために。誰かが、しなければならないの。だから私は……その役目を選んだのよ」

小さな少女は唇をぎゅっと噛んだ。

「でも……死んじゃうの、怖くないの?」

姉は微笑み、妹の頬にそっと手を添える。

「怖くないと言えば、きっと嘘になるわ。でも――この肉体のある世界から離れるだけ。魂はまた巡る。季節がめぐるように、川が海へ還るように。いつかまた、この世界に戻ってくるのよ」

「……転生、だね。母様がそう言ってた」

「そう。だから、怖くはないの。……むしろ、次に生まれる時は、あなたの隣にまたいられたらいいな。そのときは、きっと、笑って――さよならが言えるように」

優しい声が闇に溶け、淡い光が二人の横顔を照らしていた。

それは現実ではなく、私の意識の中に浮かんだ、古の姉妹の面影。

幻なのか――それとも魂の深層に刻まれた祈りの残響なのか――

髪を攫う風の冷たさを感じた時、意識がすっと引き戻された。

闇の中に町明かりがにじんで見える。

病室で寝ていたはずが、いつの間にか外へ出ていた……。

空には星空。

周りを見てみると、どうやら病院の屋上のようだった。

どういうここと?

何でこんな所にいるの?

自分の意思ではなく、ここに来ていた……。

冷たい風が頬を撫で、鳥肌が立つ。

両腕を抱きしめて、震える体を落ち着かせた。

「さっきのは……夢、だったのかな」

いや、鮮明に覚えている。

その夢の中で見た少女――奥勢理おせり

百々楚姫の妹。

もしかいたら、しーちゃんは「奥勢理おせり」の印を持っているのかもしれない。

漠然とそんなことが頭を過った。

百々楚姫と奥勢理おせり、あの姉妹はとても仲が良かったんだ。

奥勢理おせりの顔立ちは、まだ幼く見えたけれど、背格好から年齢は近いように感じた。

ヒヤリとする風が裾を揺らす。

小さく身をすくめ、屋上の出入り口の明かりを目指して一歩踏み出した。

その小さな明かりが、まるで夜道の灯火のように感じられた。

扉のドアノブに手を伸ばした時、微かな話声が耳に触れる。

「あの聡とかいう娘がそうなのだな」

「はい、間違いないはずです」

「面白い。ただもう用はない、結界は解かれたも同じ」

「それではいよいよ……ですか」

「待て……」

心臓がぎゅっと縮む。

足音が近づいてくる。

咄嗟に物陰へと身を潜め、息を殺す。

ガチャッと扉が開く音。少しだけ顔を動かし覗く。

Tシャツに短髪の男性が、キョロキョロと様子を窺っている。

その後ろから、もう一人が顔を覗かせた。

え? 宮司さん……。

「いや、人の気配がした……気のせいか」

男性が首を振る。扉がガチャンと閉まる。

恐る恐るその場で屈み、鼓動を鎮めようとする。

手のひらがじっとりと湿っていた。

ゆっくりと気配を殺して出入り口へ向かう。

もう話し声は聞こえない。

ドアノブに手をかけ、そっと扉を開けると、エアコンの冷気が顔を撫で、身体が少し震える。

フッと小さく息を吐いて、ドアを閉めて振り返る。

目の前に、白くて長い顎髭を蓄え、背筋を伸ばしたおじいさんが立っていた。

びっくりして体が跳ね、思わず息を呑む。

「こんばんは」

しわの多い顔には似合わない、少し若々しい声だった。

「こんばんは」

口の端を引きつらせて笑顔を作ったが、喉の奥がかすかに引き攣る。

穏やかな笑みを浮かべているが、目の奥が冷たく感じられ、嫌な汗が背筋を伝う。

「お加減いかがな?」

「はい……お陰様で」

声がわずかに上ずり、足元から冷たさが這い上がってくるように感じる。

「それはなにより」

一瞬、この老人の瞳が、慎哉と同じように、いやそれ以上にぎょろりと大きく見開いた気がした。

胸の奥に氷のようなものが差し込む。

「それでは、お大事に」

老人は私に背を向け、階段を下りていく。

高齢とは思えない軽やかな足取りで進み、踊り場でこちらを見上げる。

軽く会釈をして口元が上がった。

その顔を見た瞬間、全身に悪寒が走る。

あの目――笑っていない。

視線だけが冷たく鋭く、まるでこちらを見透かすように。

そして――

あの鎮めの舞の中にいた一人に似ていた。どういうこと?

慎哉の父、神社で会ったあの人、そしてこの老人。

三人も、あのビジョンで見た人が現実にいるなんて……。

胸に添えた手に力が入る。爪が食い込む感覚がかすかに痛い。

心臓が苦しくなるくらい、ザラザラとした不安が体を満たした。

大きく息を吐いて深呼吸する。少しでも落ち着こうと、肩を揺らす。

ゆっくりと階段を下り、自分の病室があるフロアの廊下を進む。

消灯時間にはなっていないのが救いだった。

病室のドアを開けると、栞はベッドでまだ眠っているようだった。

私――無意識に屋上に行ってたんだ。

さっきの話し声も、夢の中と現実が混ざったみたいで頭がぼんやりする。

怖い。少しだけ、心の奥で震えた。

百々楚姫様の怨念じゃないにしても、さっき見た夢といい……。

私の体は、私の知らないところで動いているんじゃないか。

もし私が、私でなくなったら――どうしよう。

ベッドに腰かけて、栞の寝顔を見つめる。

小さく寝息を立てて、穏やかな顔をしている。

胸の奥で、張り詰めていたものが少しほどけた気がした。

「しーちゃん……」

声が震えて出る。もし、私が私じゃなくなったら、慎哉たちに何かしてしまうのかな。

しーちゃんや家族のことも、忘れてしまうのかな。

百々楚姫様――私は嫌だよ。

自分の手の甲を見つめる。震える指先をそっと握りしめた。

テーブルの上のスマホを手に取り、慎哉にメッセージを送る。

「あのね、鎮めの舞を見たときに、その中にいた人に似ている人に会ったの」

すぐに既読が付く。

『誰だろう?見せた写真の中にいた人?』

「うん、髭の長いおじいちゃん」

『……なるほど、ありがとう』

「あとね、知らない男の人が宮司さんと話してた」

『……宮司と?……その男の人は見たことある?』

「ないよ。でも私のことを話してたから気になって……」

『そっか、今は一人?』

「ううん、しーちゃんが一緒にいる。泊ってくれるんだ」

『それはよかったね、心強い。知らせてくれてありがとう』

「ううん、こちらこそありがとう」

スマホの登録名を変える「大切な慎哉さん」

照れくさいけど、今の気持ちに近い気がした。

それを見て、少しだけ笑えた。

そっと、布団に潜り込んで栞に身を寄せた。

夜風で冷えた体を包んでくれる温もりがここにあった。

瞼を閉じたら、すぐに眠りに落ちた――


闇の中に、ぽつりと光が浮かぶ。

遠くのトンネルの出口が近づいてくるような、そんな感覚。

徐々に明るくなり、闇を押しのけていく。

ぼんやりと視界が開ける。

しっとりとした空気の中に、どこか懐かしい緑の匂いがした。

私は、仄暗い山道を、草履の音を響かせながら急いでいた。

夜露で袖が濡れるのも構わず、ただ必死で。

心臓の奥で、焦りにも似た感覚が脈打つ。

姉さまの舞が終わって、どれくらい経っただろう。

あの人の仮住まいを訪ねずにはいられなかった。

山背日立。

姉さまが想いを寄せた人。

そして、姉さまが人柱になることを選んだ理由。

「姫はあの方にすべてを託した、奥勢理おせりや、姉の想いを忘れないでや」

母が遠くを見つめて、寂しそうに言っていた。

それでも――それでも、私は姉を置いて逝く彼が憎かった。

だから、逢いに行かずにはいられなかった。

仮住まいの家は、神社の裏手、竹林を抜けた先にひっそりとあった。

人の気配はなく、灯りもない。

戸口には鍵がかかっていない。

私は恐る恐る、足を踏み入れた。

「……おられますか、山背殿」

声が震える。

返事はない。

手にした灯籠の淡い明かりが、部屋の奥を照らす。

床の向こうに、男の影があった。

白い装束に、滲むような血の跡。

仰向けに倒れたその胸元から、黒ずんだ染みが広がっていた。

虚ろに開いた瞳が、どこかを睨みつけている。

「……や、ま、し……?」

言いかけた言葉が喉に詰まる。

「…………っ」

膝が砕け、床に崩れ落ちる。

呼吸が浅くなる。

鼓膜を打つ耳鳴り。

声をあげようとしても、呼吸がうまくできない。

震える指先で男の手を取った。

冷たい。

まるで氷のように。

もう、戻らない。

姉さまと笑って話していた姿が思い浮かぶ。

「姉さまが……待ってるのに……!」

掠れた声が零れる。

ただ、体は震え続けていた。

そのとき、引き戸の外で風が揺れた。

人の気配がした。

はっとして振り返る。

戸の隙間から見えたのは、ひとりの影だった。

高貴な装束をまとった男。

その瞳が、確かにこちらを見ていた。

けれど、それはあまりに冷たく――まるで石のような無関心。

男は何も言わず、踵を返し、闇へと溶けるように去っていった。

「……誰……あなたが……あなたが、姉さまを……!」

立ち上がろうとした足がもつれ、床に倒れ込む。

熱い涙が、頬を伝った。

どうして。

どうして、こんなことに。

姉さまが命を捧げた人は、こんなふうに死んでいい人じゃなかった。

私たちの願いは、ただ――あの舞の果てに、平安を。

そのときだった。

日立の手から、小さな袋が落ちた。

中から翡翠色の石が転がり出る。

手に取ると、冷たいのに、どこかあたたかい。

指先を撫でる不思議な感触。

何か――何かが目覚めようとしている。

奥の方で、私の知らない何かが蠢いている――

瞬間、ふっと視界が揺らぐ。

何これ……死んでいた人って……慎哉の父にそっくりだった。

そして、あの衣装をまとった男の目。

あの目、私……知ってる。

これって、もしかして……

奥勢理姫様の記憶……?


光に包まれたような眩しさが、瞼の裏にじんわりと滲んだ。

どこからともなく、土の匂いが鼻をついた。

雨が降っていたのか、地面はじっとりと濡れていて、草の冷たさが裸足にまとわりつく。

耳の奥で、遠くの音が響く。

けれど、その音が何かは分からない。

まるで、夢の中で水の底から声を聴くみたいに、すべてがぼやけていた。

手首に巻かれた縄は粗く、擦れるたびに皮膚を裂いた。

それでも私は泣かなかった。

――泣かない、泣いちゃいけない。と決めたから。

姉さまがいなくなったあの夜から。

姉さまの舞は、世界を救ったのに。

山背殿が命を懸けて護ろうとしたものが、何者かの手で壊されたあの時から。

自分が泣いてしまったら、もう誰も、姉さまのことを覚えてくれなくなる気がした。

あの日から二回目の春が来て、姉さまと同じ年になった。

ある日、私は召し出された。いや選ばれた。

無言の男たちに囲まれて、屋敷の奥へと連れて行かれる。

かつては誰かの住まいだったのだろう、けれど今は獣の匂いがした。

湿った壁。閉じた引き戸。

すべてが、息苦しかった。

引き戸の向こうにいた祈祷師の顔が、はっきりと焼き付く。

黒い法衣。金糸の刺繍。

だが、その瞳は底なしの渇きで濁っていた。

あるのは。血と業火。

「これが……門の鍵……」

祈祷師が呟くと、男たちの手が伸びた。

髪を掴まれ、無理矢理顔を上げさせられる。

「……母上……姉上……たすけ……っ」

声が出たのかどうかも分からない。

胸元を裂かれ、冷たい空気が肌を刺す。

ぞわりとした鳥肌が、全身を駆け抜ける。

この身体が、自分のものでなくなる感覚。

中から何かが剥がれ落ちて、空っぽの器にされていく。

もう、自分の意志では動かせない。指先も、足も、動かない。

声も届かない。

祈祷師が、何語とも知れぬ呪を唱え始めた。

その声は、どこか遠い場所から響くように聞こえる。

意味は分からない――けれど、血が逆流するような悪寒が背筋を走った。

「おまえの血が……門を開ける」

冷たい指先が、私の頬をゆっくりと這った。

震える皮膚の上で、血の匂いが強くなる。

それは――自分の血ではない。

誰かの、何人もの、命の色。

そして――

翡翠の石がついた、冷たい銀の指輪。

触れた瞬間、心臓の奥に刃を突き立てられたような衝撃が走った。

「――っ!」

跳ねる身体。

詰まる呼吸。

心臓が焼けるように熱い。

見えない何かが体の中に入ってくる。

夢とも現ともつかぬ記憶が、脳裏を駆ける。

――姉さま。

舞い踊るその背中。

笑ってくれた横顔。

あの夜の涙。

叫び出したいのに、喉が動かない。

この体は、もう自分のものではない。

指輪は鍵。

そして私は形代。

「……殺して、ください……」

聞こえた声は、自分のものではなかった。

それでも口は、そう動いていた。

誰かに、終わらせてほしかった。

見られたくない。姉さまに、こんな姿は。

誰にも、見られたくない。

「もう……誰も……見ないで……」

涙がひとすじ、頬を伝った。

その時、奥の引き戸が開いた。

入ってきたのは――あの男。

あの夜、山背日立の死を見届けた、あの冷たい目をした男。

高貴な衣。

剣呑なほど静かな瞳。

彼は、何も言わなかった。

一瞥だけをくれて、踵を返す。

助けなど、最初から期待していなかった。

ふ、と笑みが浮かんだ。

もう、何も怖くなかった。

その夜、門が開いたという。

人の血と、魂と、怨嗟によって。

それがどれほどの災厄を呼ぶかを、

少女はもう、知ることもなかった。

翡翠の指輪は、燃えるように輝いた。

『……ひどいよ』

私の胸の奥から、声が漏れた。

奥勢理の涙が、私の頬を伝った気がした。


また視界がぼやける。

木の葉に落ちる雨音が耳を打つ。

湿った森の匂いが肺を満たす。

雨が降っていた。

ぬかるんだ地面に、裸足の足音が吸い込まれていく。

目隠しの布越しに、雨粒が額を打つ感触が分かる。

肌を這う泥の冷たさと、首にかけられた数珠のような異物の重みが、じわじわと胸を圧迫する。

私は、両腕を後ろ手に縛られ、肩を揺らしながら歩かされていた。

誰の手かも分からぬ男たちに囲まれ、ただ一つの場所へと連れていかれる。

磐座――

そこは、禁忌の地であり、かつて姉が命をかけて守ろうとした封印の地。

本来なら、決して足を踏み入れてはならぬ場所。

けれど今、私は、その中心に連れて来られている。

「……なぜ、わたしが……」

声は風に呑まれて、誰にも届かない。

いや、届いたところで、答える者などいないのだ。

姉さまが約束した。

山背日立殿と共に、自分と母を守ると。

けれど、二人ともいない。

母は、泣きながら自ら口を噤んだ。

「すべてを忘れなさい」と言った。

姉は――もういない。

石の上に押し倒される。

背中に冷たい岩肌が突き刺さる。

身体が震えるのは寒さだけではない。

磐座の中心、石の台座。

その上に、生贄として縛られるという意味を、私は知っていた。

かすかに唇が動いた。

けれど祈る言葉は出てこない。

神も仏も、この場にはいない。

空が鳴った。

地面が、ひときわ大きく軋んだ。

「門が……開く……」

どこからか、異国の祈祷師の声が聞こえた。

磐座を囲むように焚かれた炎が、風もないのに揺れた。

火の粉が空へ舞い、裂けるように大気が震える。

唇を噛みしめる。

怖い。

怖い。

けれど、誰にも助けは求めなかった。

泣いてはいけない。

叫んではいけない。

私は、姉のように強くあらねばならなかった。

「……奧勢理姫」

その名を、誰かが呼んだ。

祈祷師ではない、男の声だった。

かつて山背殿と並び、姉さまを見下ろしていたあの男。

名を忘れたくても忘れられない、殺戮者の目。

「いまより、汝はさかいを越える」

刃が振り下ろされる音がした。

肌を裂かれる感触。

血が溢れ、指に嵌められた翡翠の指輪に伝う。

その瞬間だった。

磐座が、啼いた。

石の奥から、呻きのような音が響いた。

地鳴りが続き、天と地のあいだに、裂け目が走る。

光もない。

音もない。

けれど、確かに「なにか」が開いていた。

封印が、ほどけていく。

魂が、引かれる。

体から何かが抜けていく。

思考が、ばらばらに崩れていく。

かろうじて残った意識で、私は口を動かした。

震える声だった。

けれど、確かに、言葉だった。

「姉……さま……」

その名を呼んだとき――

ほんの一瞬、目隠しの向こうに光が見えた気がした。

白く、柔らかく、抱きしめてくれるような光。

それは誰かの記憶だったのか、それとも姉の魂だったのか。

わからない。

けれど、それでも。

「ねえ……さま……」

私の意識は、そこで途切れた。

形代となった、奥勢理の魂は、翡翠の指輪とともに、幾星霜を越えた――

「…………こんなの…………」

心が震えていた。視界は元に戻っているはずなのに、いま見た光景がまだ網膜に焼きついて離れない。

「どうして……こんな……」

声にならない囁きを、喉の奥でつぶやく。背中に冷たい汗が伝い、息がうまく吸えない。

忘れ去られ、時の狭間に置き去りにされた姉妹。

その悲しみが、今の私の胸の中に重くのしかかる。

――姉妹で……なんて悲しすぎるよ…… 

「忘れない……絶対に、あなたたちのこと」

唇を噛みしめたそのとき、不意に私の頭をそっと撫でる温かい手の温もり。

「あーちゃん、どした?」

「うん、変な夢見て起きちゃった」

栞は私の頬を両手で挟み込み、少し不安そうに覗き込んだ後、ぱっと笑顔を見せた。

「あーちゃん。ポッキー食べる?」

そう言って、目尻に皺を寄せて笑う。

栞の笑顔が、悲嘆に溺れてしまいそうな、私の心を救い上げてくれた。

「食べたい……」

声を震わせないように答えながら、私は同じ様に栞の頬に手を添えた。

見つめ合ってクスクスと肩を揺らせ笑い合った。

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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