ぬくもり
島の夜は、驚くほど早い。
まだ20時を少し回ったばかりなのに、車のヘッドライトが照らす街道沿いの先には、ぽつぽつと頼りない街灯があるだけで、人影はまばら。走っている車も少ない。
開いた店もほとんどなく、看板の灯りは落ち、シャッターを閉じた店や、家々の窓明かりが流れるように過ぎていく。
信号の赤が、誰に見られることもなく瞬いていた。
――二人に会えて本当に良かったと思う。
諒が信頼している人たち。
私が知っている学生時代の諒には、友人なんていなかったはず。
そんな諒が心を許した人を紹介してくれたことが、何より嬉しかった。
私以外の人と親しげに話す諒の姿は、少しだけ不思議で、でもとても新鮮で。
ミーティングの時の諒は今までにないほど頼もしく思えた。
慎哉とは付き合いが浅いとは聞いていたけど、それでも諒が頼りにしているのは表情や言動から感じ取れた。
そして、私が「明智」と命名した探偵。
鋭い眼光と冷静沈着な空気を纏っているのに、時折見せるおかしみのある言葉や表情。
年齢は聞いていないけれど、きっと諒や私よりもずっと年上だろう。
だけど、偉ぶることなんて少しもなくて。むしろ、そっと私たちの目線に合わせてくれていたように思う。
どんな人生を歩いてこられたのかは分からないけれど、その胸の内に宿るものが大きく深い人だと、言葉の端々に感じられた。
まるで、百戦錬磨の侍のような風格さえあった。
真剣な話をしている時でも、諒と明智は、どこかお互いをからかうように微笑み合っていて。
そんな二人を見ていると、私も思わず口元が緩んでしまった。
お互いを信頼しているのが、手に取るように分かったから。
もしかしたら、諒は明智に亡き父の面影を重ねているのかもしれない――
と、そんな邪推をしてみたりもした。
さっき、諒が一人でベランダにいる時、明智からこんな事を聞かれた。
「あいつに惚れた理由は、なんだったんだい」
唐突に振られた話題に、ぴょんと体が跳ねた。
「僕も聞いてみたい」
慎哉まで話に食いついて。興味深そうに身を乗り出すものだから、顔が赤くなった。
いざ聞かれると、どうしてって自分にも問い掛けていた。
だって気が付いた時には、もう好きだったから。
今ならいくらでも理由なんて作れる。
「諒くん……だからかな……」
その一言に、二人は眩しそうな目で見つめてきて、また胸がいっぱいになった――
私は、小さく息を吐いてからぽつりと言った。
「みんなと会えて良かった」
運転席の諒がちらりと横目でこちらを見る。
「そうか」
落ち着いた声の中に、少し嬉しさが隠れていたのは気のせいだろうか。
「うん、二人とも個性あったけど」
クスッと笑う。
「そうだな」
笑いを含んだ返事が返ってくる。
その声を聞いて、笑顔が上書きされる。
「文菜……その、明日はどうしてる?」
ハンドルを握る指先が、微かに緊張を帯びたように見えた。
「えーと、みんなと約束してるの、お茶しようって。14時にオリーブ公園で待ち合わせ」
「そう、何かあったら連絡ね」
心配が嬉しい。
「……うん」
ふと、信号待ちの車内に静けさが降りる。
外の街灯の光が、フロントガラスに淡く揺れて映る。
「そしたらさ、昼まで付き合ってくれないかな」
その言葉は、どこか照れ隠しのようで。
これがきっと、恋人同士の会話っていうものなのだろうか。
「もちろん」
即答した私の声に、ホッとしたように、諒の表情がほぐれる。
「朝早いけど、明日さ両親の命日なんだ。墓参り一緒に行ってくれっていうのはおかしいか」
諒はそう呟きながら、ハンドルに視線を落としていた。
その横顔は、運転席の鈍い光の中で少し寂しげにも見える。
「どうして?私も行きたい」
そう言った自分の声が、少し震えていたのに気づく。
諒が自分の大切な場所に、私を連れて行こうとしてくれた。
そのことが、ただ嬉しかった。
「そう、ありがとう。じゃあ……8時に迎えに行く」
眼鏡の奥の瞳がほのかに光を帯びていた。
「うん、わかった」
車窓がゆっくりと流れ始めた。
「今日の埋め合わせは、また今度な」
「いいよ、いつだって」
そう言って微笑むと、諒もほんの少しだけ口元を緩めた。
そろそろと私の家が近づいて来て、あっという間にたどり着いてしまった。
「諒くんありがとう、気を付けてね……」
「ああ。じゃあ、また明日……」
少し名残惜しさが、お互いの言葉に滲んでいる気がしたのは、私の思い違いかな。
「……うん、またね。おやすみ諒くん」
「おやすみ……」
車のドアを閉め、手を振ると、諒は一度こちらを見て、小さく会釈した。
その目はどこか優しくて、でも何かを決意しているようにも見えた。
車がゆっくりと走り出し、角を曲がって、テールランプが消えていく。
その赤い光が見えなくなるまで、私は立ち尽くしていた。
虫の鳴き声が少しだけ寂しさを運んでくる。
夜風が流した髪を耳に掛け、静かに玄関へと歩みを進めた。
見慣れた家の明かり。
ほっとしたのか、どこからともなく笑いがこみ上げてきて、気づけば鼻歌を口ずさんでいた。
ドアを開けると、リビングからかすかにテレビの音が聞こえてきた。
今日の出来事をそっと包み込むような、やわらかな空気だった。
「ただいまー」
「おかえりー」
キッチンの方から母の声が弾んで響いてきた。
廊下を歩き出すと、母がひょいっと壁の陰から顔を覗かせてくる。
その瞳がきらりと光って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「なんだか、ご機嫌じゃないの?」
その一言に、心の中でくすぐったい気持ちがふくらんだ。
「そうかな」
声が少し弾んでしまって、慌てて咳払いをして誤魔化した。
洗面所に入って手を洗い、水道の音が小さく響く。
冷たい水が手のひらを流れていくと、今日一日が一枚のフィルムのように頭の中で再生されていく。
日常の動作のはずなのに、心のどこかがほんわかと浮いていた。
鏡を覗くと、そこにはどこか緩んだ表情の自分が映っていた。
目元がやわらかく、頬はわずかに紅をさしたように温かい。
いつの間にか笑みがこぼれていたことに気づく。
諒と交わした言葉。
何気ない会話の中に滲む、確かな距離の近さ。
重ねた手のぬくもり。
そっと肩を抱かれたとき、心に広がった安らぎと、ときめき。
ひとつひとつを思い出すたびに、体中に静かに喜びの波紋が広がっていく。
——ああ、私はいま、ちゃんと幸せを感じているんだ。
鏡の中の自分が、そっとその想いに頷いたような気がした。
キッチンに行くと、母は手を拭きながら振り返って、にやりと笑った。
「今日、お泊りかと思ったからご飯ないよ~?」
「もう、お母さん」
口を尖らせてみせると、母はくすくす笑いながら冷蔵庫を開けて麦茶の入ったピッチャーを取り出した。
「で、どうだったの?」
母は何気ない手つきでふたつのコップに麦茶を注ぎながら、ちらっと私を見た。
「何が?」
「もうさ、あんたたち見てるとムズムズするのよ、二人ともさお互いを思いやりすぎてるのよ」
母は上着の裾をいじりながら、茶化すように言う。
「はあ……」
思わずため息が漏れる。
「高校のときだってそうだったじゃない。今も変わんない。二日続けてデートして、結局一緒にいるだけで満足しちゃってるんだから」
「おかーさん」
顔が赤くなるのが分かる。
「ああ、あ、だってさ、どう見たってお互い好きじゃない、あんまり口出したくないけどさ」
「十分、出してるよ」
母はおどけて舌を出したあと、ふっと目元を緩めて、声のトーンを少しだけ落とす。
「……ごめんね。でもね、母さん、やっと文菜が幸せになれるって……学生時代のときみたいな幸せな顔、久しぶりに見たからさ……」
不意に胸が詰まる。
母の目が、わずかに潤んでいる気がして、息を吸って背筋を伸ばした。
「……ありがとう、おかあさん。……今日ね、ちゃんと言ってくれたよ、諒くん……」
ボソボソと声が小さくなった。けれどちゃんと伝えたくて、あまりにも優しい母の瞳を見た。
「……ほんとに?」
私が黙って頷くと、母はぱっと顔をほころばせながら、ぎゅっと抱きついてきた。
「わが娘ながら、よくやった、あっぱれ!」
「なにそれ」
母の腕の中で、思わず笑ってしまう。
「いや、もう、今日は呑もう。母さん祝杯!」
母は弾むように私の両肩をポンポンと叩き、冷蔵庫とお酒の棚を見比べてごそごそと探りはじめた。
「少しだけだよ。明日早いんだから。……ていうか、今日どうして起こしてくれなかったの?」
「ん?頼まれてたっけ?」
缶酎ハイを両手に持って首を傾げてみせた。
「頼んだよー。万が一寝過ごしたらって」
「でも、良かったじゃない、諒くんに寝起きの文菜、見てもらえたし」
母はニヤリと笑い、私の鼻を軽く摘まんだ。
そのしぐさがやけにあたたかくて、照れくさくて、胸がきゅっと鳴った。
「……もしかして……お母さん、わざと?」
「ん?なんのことかしら~。はいはい、早く着替えておいで~」
母の後ろ姿を見つめながら、くすっと笑みがこぼれる。
「ほーら、あなたにとって、大事な人ほど、すぐそばにいるの~」
……母さんのほうが、ずっとご機嫌じゃない。
不思議だ。今夜は、なんでもないやりとりのすべてが、やさしく胸に沁みていく。
ああ、私、ちゃんと大切な人とつながっていられるんだ。
「おつまみ、なにがいいかな~」
母の声が、私のために用意してくれるその時間が、愛おしくてたまらなかった。
「母さん、ありがとう」
その背中に向かって、そっと投げかけると、一瞬母の手が止まり、顔だけ振り向いて、やさしく目尻を下げた。
「文菜の好きな醤油豆でいい?」
「うん、いいね。じゃあちょっと待てて」
階段を上がる足取りもどこか軽やかだった。
――あったかい。あったかい。
階段の途中で小さく深呼吸をした。
――きっと、これが幸せっていうんだろうな。
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