遭遇
瀬田神社の楼門をくぐる頃には、神舞の音楽がはっきりと耳に届くようになっていた。
緩やかで独特な旋律が、空気の隙間を縫うように一帯に響き渡っている。
どうやら、リハーサルがすでに始まっているようだった。
一歩、石畳を踏みしめて神社の敷地に足を踏み入れる。
正面の六角堂、その舞台の上には、独特の巫女装束を纏った四人の舞手が横一列に並び、静やかに、しかし凛とした気配を漂わせながら舞っている。
その姿は、集まった人だかりの向こうに、かろうじて見えた。
六角堂の右手、社務所の前には、いくつもの白い簡易テントが立ち並んでいた。
そこには、たくさんの機材が積まれ、スタッフがその間を足早に行き交っている。
空を覆いはじめた厚い雲が、人々の熱気に蓋をしているようだった。
想像していた以上の賑わいに、諒は自然と足を止める。
「ねえねえ、四人で舞ってるね」
文菜が背伸びをして、さらに体を左右に揺らしながら六角堂を覗き込もうとしている。
その動きが幼子のように無邪気で、思わず顔が綻ぶ。
「そうだな、なんでだろうな?」
「映画の演出なのかな?」
「なるほど……そうなのかもな」
通常の神舞は、二人一組で行う。
だが今、目の前で披露されている四人の舞も、意外なほどに調和が取れていて、見応えがありそうだった。
「こんなに見に来る人がいるんだ」
隣で、文菜がぽつりとつぶやいた。
「確かに……すごいな」
祭ではないから露店が出ているわけでもない。純粋にこの撮影を見に来ている人々でごった返している。もちろん出演する俳優目当ての人達も多いのだろう。
六角堂と人々の間には、紅白のロープが張られていて、それがひとつの境界を作り、舞台と現実の世界を切り分けているようにも思える。
だが同時に、見物客の密集するこの空間に、どこか圧迫感をもたらしていた。
そのとき、目の端に、馴染みのある姿が映った。
人の合間から、クセのある長髪の男――冥鬼の姿。
彼は人々の肩越しにひっそりと、六角堂の舞を見つめていた。
さすが、島を挙げての映画作品と、長年受け継がれてきた伝統行事の神舞だけあって、地元の有力者たちの姿も多い。
簡易の来賓席には町長をはじめ、寺社関係者の面々が並んで座っていた。
瀬田神社の宮司は接待役として忙しく立ち回っているようだ。恩師の畑の姿もある。
社務所の引き戸が開き、数人の役者が姿を現した。
その瞬間、境内がざわめきに包まれる。
ざっ、という人波の揺れとともに、カメラのシャッター音が一斉に一斉に弾けた。スマートフォンがいくつも空へと掲げられ、いくつもの閃光が宙に散る。
文菜が小さく「あっ」と声をあげ、また背伸びをした。
その横顔は、まるで舞を待つ子供のように輝いて見えた。
「杵築八雲だ……かわいい」
文菜が声を上げた瞬間、トンと肩を叩かれた。
「あら、お二人さんデート?」
振り返ると、玲美がからかうように笑っている。亜希や友美といった文菜の友人たちもいた。
「え、いや、その……」
文菜はドギマギしている。
「香取君、ちょーっと、文菜借りるね」
玲美は文菜の腕を取ると手水舎の方へズンズン引っ張っていく。
呆気にとられ、その姿を見送っていると、突然、袖口をクイッと引っ張られた。
振り返ると、そこには黒いゴシックロリータドレスに身を包んだ小さな少女が立っていた。
白磁のような肌に、整ったおかっぱ頭。その髪には、細い金のヘアバンドのような髪飾りがかすかに輝いている。
そして何より、真っ黒な瞳が、細めた目の奥からじっとこちらを見つめていた。
「私さ、三つの輪っかに愛でまな、三輪愛じゃ」
見た目と口調のギャップに思わず目を丸くする。愛は細めた目でじっと見上げている。
「……あ、香取です、香取諒」
「あんたさ、婆様の印、持っとるじゃろ」
「ばさまの印?」
ジーッと舐めるような目でこちらを見つめ、ショルダーバックを指さした。
「財布の中じゃ」
「もしかして……」
お守りのことかな?確か、署名が三輪だった気がする。
「んだ、それさ、じぇったい肌身離さず持っておくんじゃ………じぇったい」
「え?」
「愛さーん」
甲高い女性の声に少女はピクリと反応した。
「んだ、くれぐれもじゃ、印の事、忘れるでないぞ……じぇったい」
ニタッと口元だけで笑うと、ひらりとドレスの裾を翻して背を向け、その声の主と思しき少女の元へ向かっていった。
ぽかんとしながら、その後ろ姿を目で追う。あの子は……何だったんだ?
鞄の中から財布を取り出して、そっと開く。
両親にもらった、小さなお守りが入っている。
あの子に言われなくても、両親の形見だから、いつも肌身離さず持っている。
一度グッと握ってから、またそっと元に戻した。
文菜のほうに目をやると、まだ玲美たちと楽しそうに話していた。
境内に響く神舞のメロディがテンポ上げ、笛や笙の音も、いっそう高く澄んで耳に届く。
その音を左の耳で受けながら、社務所の脇にある喫煙所へと足を向けた。
煙草に火をつけ、深く吸い込む。
(お守りを肌身離さずに、か。……まるで、おまじないみたいだな)
さっきの少女の言葉を反芻する。
お守りにあった、三輪円という署名。さっきの少女の名。三輪愛。婆様という事はあの少女は孫ということか。
それにしても――お守りを持ってること、何で分かったんだ?
いやいや、俺のことを知っていて声をかけてきたのだろうか。
やはり、この世には目に見えない何かの力があるのかもしれない。
「君もきていたんだ」
背中越しに冥鬼の声。振り返らず、煙を吐きながら応じた。
「ああ、昨日は助かったよ」
「うんうん、いつご馳走してくれるのかな?」
「ご馳走じゃないけど……話を聞いてもらいたい」
「ふーん、なんだろ?」
「後で連絡する」
「分かった、こっちも相談したいことがあってね。じゃあ連絡待ってるよ」
冥鬼の気配が遠ざかる。大きく煙を吐き出す。
周囲の喧騒のように、ザラザラと頭の中にノイズが走る。
一度どこかで情報を整理しないと――そんな感覚があった。
そのとき、近づいてきた男が声を掛けてきた。
「あの、すいません」
声の主は短髪の男性。ジーンズに、グレーのTシャツ。背は俺より少し低い。年齢は――30代と踏んだ。
「はい?」
「火を貸して貰えませんか?」
「ああ、どうぞ」
ライターを差し出す。受け取った男の左手――中指の金の指輪が、鈍く光った。
「観光ですか?」
男はライターで煙草に火を点けながら、チラッとこっちを見る。
「ええ、まあ」
「島はいいでしょ?」
ライターを受け取りポケットに仕舞う。
「地元の方ですか?」
「そうですよ」
男は吐き出した煙越しに軽く会釈をした。
ちょうどカップルがやってきて、男との会話はいったん途切れた。
ふと、ふたりの話し声が耳に入る。
「そういえば、また影の男がでたらしいぞ」
「そうなん」
「ああ、黒い影をまとった男を見た途端、スーッと消えたって」
「え?やだぁ」
「見たのは朝方や夕方らしい……」
そのとき、隣の男が、微かにフッと笑った気がした。
「どうも…」
軽くお辞儀をして、男は人ごみに紛れていった。
煙草を灰皿で消しながら、吐息交じりの煙を吐く。
どこか、言いようのない警戒感だけがあとに残る。
普段から人と距離を置いてきた自分にとって、
こういうふうに、初対面の相手に声をかけられることなんて滅多にない。
滅多にないからこそ――胸の奥に違和感が引っかかっていた。
気がつけば、カップルの話題はもう別のことに移っていた。
「あの、すみません」
カップルに声を掛ける。
二人は口と手の動きを止め、同時にこちらを振り向いた。煙草の煙だけが、ゆらゆらと動いている。
「ちょっと聞こえたんですけど、さっき“影の男”を見たって話、してませんでした?」
「ああ、ちょっと耳に挟んだだけだけど、あんた誰?」
男の方が眉をしかめている。
「あ、ええと――『歴史の道』って雑誌の取材で来てまして。こういう都市伝説っぽい話、追ってるんです」
「ふーん」
「あ、私読んだことある!」
女性は目を丸くしていた。
「それで、さっきの話なんですけど、本当のところどうなんです?」
「……ああ、黒ずくめの格好だったって。見た人が『あっ』と思って目を逸らした瞬間、もう消えてたらしい」
「へえ……どのあたりで目撃されたんですか?」
「重岩とか、宝樹院とか……そんな事を言ってたかな」
男性は左右に首を傾げながら煙草を咥え、短くひと息、煙を吐き出す。視線は空を見上げているが、どこかうさんくさげな色がにじんでいた。
「なるほど。目撃された方の連絡先とか、分かりませんかね?」
「だからさ、聞いただけだってば……」
少し顎を引いてこちらを見上げるようにしながら、煙草の先を指先で弾いた。苛立ちが言葉よりも先に伝わる。
「ちなみに、どこで?」
「……あんたもしつこいな」
男性は明らかに機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せた。左手が無意識に、ポケットの中で小さく動く。
「すみません、つい仕事モードで」
俺は無意識に中指で眼鏡を押し上げた。
男性は煙草を咥えたまま、小さく鼻で笑った。
「さっきトイレに行ったんだけど、そのとき男たちが話してたんだよ……俺は個室にいたから顔は見てないけど」
「なるほど、ありがとうございます」
男性は煙草を灰皿に押しつけ、灰が小さく弾ける音を立てた。わずかに深いため息を漏らしてから、女性の手を軽く引く。
「たぶんね、頭がちょっと薄い感じのおじいさんと、白髪まじりのおじさんやったと思う」
女性がさらっと口を開いた。足取りを合わせるように、男は一瞬だけ立ち止まり、横目でこちらを一瞥する。
「私、彼のこと外で待ってたんやけど、そのふたりしか中に入って行かなかったし」
「そうでしたか、ありがとう」
女性はニコッと笑い、男に手を引かれてそのまま人ごみに紛れていった。
男が二人ね。
どういうことだろう。まさか本当に影の男――カゲヌシがいるという事か?
ポケットに手を突っ込み、煙草を取り出す。ライターの火が揺れて、指先にかすかに熱を伝えた。
咥えた煙草に火を点けながら、胸ポケットからスマホを引き抜く。
小さく息を吸い、苦味を肺に落とし込んでから、男に噂の真偽を確認するためのメッセージを送信する。
境内では撮影スタッフが忙しなく動いている。
今朝の飛田五月。
さっきの指輪の男。
影の男の噂。
何か騒々しい。
思考の糸をつかもうとしても、手のひらでほどけていくような感覚。
煙草を口に戻しながら、眉間に軽く皺を寄せた。
整理するどころか、混線の様相を呈してきた。
口をすぼめ、くぐもった息をゆっくり吐き出す。
白く濁った煙が空へと溶けていった。
その中の一つをまずは、ひも解いてみる。
記憶のどこかに置き忘れてきた――
時の埃を払うように、あの想いを光にさらしてみる。
何の前触れもなく視線がそちらをとらえた。人ごみの中、まるで灯台のように。
目が合うと、にこっと笑う。
煙の向こう側で、文菜が小さく手を振り駆け寄ってきた。
煙草を口から外し灰皿で静かに火を消した。
曇天の空の下、その姿は誰よりも、はっきりと――鮮やかに見えた。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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